アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
「以前、どこかで会ったことはあるか?」

 その言葉に、時間が止まった気がした。

 ――もしかして、気づいた?

 一瞬だけ、期待が胸をよぎる。
 もしあの夜のことを覚えていてくれたなら。あの音の余韻が、彼の中にも少しだけ残っていてくれたのなら。
 だが、紬希はその期待を飲み込んで、首を振る。

「いいえ。初めてです」

 嘘ではない。あれは"出会い"と呼ぶほどのものではなかったから。
 ほんの短い言葉のやり取りなど、彼が覚えていないのならば、なかったのと同じだ。
 それでも彼の瞳は、名残惜しそうな色を浮かべている。その色彩はすぐに消えてしまったけれど。

「ならば問題ない。――契約成立だ」

 差し出された書類は“婚姻届”。自分には一生縁のないものだと思った書類だ。
 それを受け取るために、手を伸ばして、紬希は思わず顔を上げる。

 ――熱い。

 ほんの一瞬だけ、指先がふれていた。彼も、わずかに目を細めている。
 接触はわずかなものだったが、なぜか、心臓の音はやけに大きく響きつづけている。
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