アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~

「……それでいい」

 何事もなかったように言う。
 まるで、さっきのことなど最初からなかったかのように。
 だが、紬希のなかには、確かに残っていた。
 ふれられた感覚のなかに――あの夜と同じ、"音の余韻"みたいな何かが。
 どうしてなのかはわからない、何かが。

『水瀬紬希』

 紬希は、契約書に自分の名前を書いた。役所に出せば、『多賀宮紬希』に変わる書類に。
 インクが紙に滲んでいく。
 その様子を、夫となる男が無表情で観察していた。
< 14 / 42 >

この作品をシェア

pagetop