アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
「……それでいい」
何事もなかったように言う。
まるで、さっきのことなど最初からなかったかのように。
だが、紬希のなかには、確かに残っていた。
ふれられた感覚のなかに――あの夜と同じ、"音の余韻"みたいな何かが。
どうしてなのかはわからない、何かが。
『水瀬紬希』
紬希は、契約書に自分の名前を書いた。役所に出せば、『多賀宮紬希』に変わる書類に。
インクが紙に滲んでいく。
その様子を、夫となる男が無表情で観察していた。