アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
* * *
奏が海外公演に旅立つ前夜の夕食は、静寂に包まれている。
奏は何度か紬希に話しかけようとしているように見えた。だが、紬希は気づかないふりをして食事を終え、ダイニングから逃げ出した。
食後、奏はリビングのピアノの前に座ったようだった。やがて、音が紡ぎ出される。
なぜかシューマンの“トロイメライ”だった。
紬希は廊下で、その音を聴いてしまう。自分で弾くときよりも抒情的で、哀愁を感じる音だった。
扉の前で立ち止まって、壁にもたれた紬希の瞳に涙の膜が張る。
――覚えていてくれたんだ、まだ。
目の奥が、熱い。
彼が生み出す音が、胸に沁みてくる。
演奏が終わったのを密かに見届けて、紬希は静かに自室へ戻った。
その音を思い出しながら、夜、手紙を書いた。