アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
担当者と今後について話し合った後、奏はオフィスを出た。
十一月の空気は冷く、コートやマフラーで防寒しながら街を歩く人々が行き交っている。
誰も、奏のことを見ていない。世界的ピアニストだろうと、今この瞬間は――ただの、男だ。
――紬希を愛していた。
その言葉を、もう一度、胸の中で繰り返した。
ずっと前から名前をつけることを恐れていた感情だった。
名前をつけたら、失うことが怖くなると知っていたから。
だが、恐れていたことは、すでに起きている。
名前をつけなくても、言葉にしなくても失ってしまった。
逃げていても、失った現実に奏は打ちひしがれていたが、もう一度、心のなかで呟く。
――愛していた……いや、いまも愛している、だ。
街の中で、ひとり、立ち止まる。
行き交う人々が、奏を避けて歩いていく。
――ならば、取り戻しに行けばいい。
シンプルな答えが、胸の中に灯る。
愛しているなら、伝えればいい。
失ったなら、取り戻しに行けばいい。
音楽に、遅すぎる始まりなどないように――愛にも、遅すぎることなどないはずだ。