アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~
「……力を入れすぎだ」
彼女の手首にそっとふれる。指先だけの、控えめな接触。
鍵盤にふれるように迷いなく、それでいて丁寧に。
「抜け」
短く言うと、彼女の手から力が抜けた。奏はそれを確認してから、ゆっくりと手を離した。
「……それでいい」
何事もなかったように言ったが、内心奏は緊張していた。
なんせふれた瞬間の、あの温度が指先に残っている。
――? なぜだ。
理解できないまま、奏は視線を書類へ戻す。
紬希が、無言で契約書に名前を書く。
インクが紙に滲むその一瞬を、奏は見つめていた。今日から彼女は自分の妻になる。そこに愛も、期待もない。
あるのはただ条件で繋がる関係のみ。最も合理的で、間違いのない選択。なにも問題はないはずだ。
それなのに、ふれた指先の温度だけが、まだ消えない。あの夜の音色のように。