アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~

「……力を入れすぎだ」

 彼女の手首にそっとふれる。指先だけの、控えめな接触。
 鍵盤にふれるように迷いなく、それでいて丁寧に。

「抜け」

 短く言うと、彼女の手から力が抜けた。奏はそれを確認してから、ゆっくりと手を離した。

「……それでいい」

 何事もなかったように言ったが、内心奏は緊張していた。
 なんせふれた瞬間の、あの温度が指先に残っている。

 ――? なぜだ。

 理解できないまま、奏は視線を書類へ戻す。
 紬希が、無言で契約書に名前を書く。
 インクが紙に滲むその一瞬を、奏は見つめていた。今日から彼女は自分の妻になる。そこに愛も、期待もない。
 あるのはただ条件で繋がる関係のみ。最も合理的で、間違いのない選択。なにも問題はないはずだ。
 それなのに、ふれた指先の温度だけが、まだ消えない。あの夜の音色のように。
< 23 / 56 >

この作品をシェア

pagetop