アンコールは君だけに ~孤高のピアニストと秘密の契約婚~

   * * *


 四月の午後の光が、窓から斜めに差し込んでいた。
 光の中に、小さな埃が舞っている。
 紬希の指が、ぎこちなく鍵盤の上を動く。
 庭では、桜がそろそろ散り始めている頃だろう。
 だが今は、この部屋の中にだけ、時間が流れているような錯覚に奏は陥っていた。

 ――なぜだ?

 音と、光と、春の静けさだけが、そこにある。
 奏は自分でも気づかないまま、彼女の演奏に心乱されていた。
 技術的には拙い。完璧とは程遠い。
 それなのに、耳が反応する。音を、追っている。
 演奏に夢中になっている彼女の瞳は客席に残っていたあの目と――同じに見えた。
 評価でも賞賛でもなく、ただ音そのものと向き合って、楽しんでいる。

 ――彼女はやはり、あの夜……。

 確信が静かに芽生えたが、奏はそれを口にできない。
 それでも奏は気づいてしまった。完璧な演奏ではなくても、胸を揺らす音があることを。そしてその音は、いつだって彼女の隣にあることを。
 奏は無表情のまま、鍵盤に真摯に向かう紬希の横顔を、音が終わるまで見つめていた。
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