記憶の中のあなたと、記憶喪失のあなた

8 そのままでいて

 雨の日が多くなって来た。
 まだ梅雨(つゆ)入りの発表はされていない。
 波中(なみちゅう)の校庭は水はけが悪いため、すぐに部活動は中止になる。新校舎になってからは、ピロティの部分が雨天時の活動場所として開放されていた。もっともバレー部のわたしには、どちらも関係が薄い。

 予鈴よりも少し早く帰りの支度をはじめる。
 完全下校に遅れないためというのが名目だけれど、本心は気もそぞろだからだった。
 体育館の扉を開ける。
 湿気の臭いがしたので予感はあったが、やはり外は雨だった。

「うっちゃん、傘は?」

 手ぶらの私を見て、友達が声をかけて来る。

「パクられた」
「ああ……朝は降っていなかったもんね。職員室で借りられるよ。数に限りがあるから、急いだほうがいいと思う」

「そうなんだ、ありがとう。行って来る」

 荷物を抱える。
 首を縮めて、わたしは校舎に向かって駆けた。
 ピロティにできた人だかりを()き分ける。
 昇降口は滑りやすいので走らない。
 ロッカーから上履きを出そうとすれば、これから帰る人に声をかけられた。
 海斗(かいと)くんだった。

彩良(さら)さん、忘れ物?」
「先生に傘を借りようと思って」

 卓球部の活動は多目的室で行われるから、下校で鉢合わせてもおかしくはない。

「俺のでよければ、貸そっか? 大丈夫、俺2本持っているから」

 わたしは一木(いつき)小学校を思い出していた。
 状況は少し違うが、以前にも海斗(かいと)くんのを使ったことがある。そのときは、本当にわたしは傘を忘れていたし、海斗(かいと)くんは(うそ)をついていた。実際は1本しか持っていなくて、雨の中を走って帰ることになった海斗(かいと)くんは、カゼを引いてしまったんだ。

「でも……」

 ためらうわたしに、海斗(かいと)くんはバッグから折り畳み傘を取り出した。そこには確かに2本あった。

「笑ってくれていいよ。間違って持って来ちゃったんだ。たぶん母さんかな、自分で入れるって言ったのに……」

 海斗(かいと)くんはちょっとだけうっとうしそうに、はかなく笑った。

「優しいお母さんだね」
「心配性なだけだよ。俺の記憶が飛んでからは、拍車がかかったみたい。彩良(さら)さんの役に立ったなら、まあいいのかな」

 上履きを取り出したまま固まるわたし。
 決断を促したのは、生徒指導の先生だった。

「おい、もうチャイムは鳴ったぞ。早く帰れ」

 しっしと虫を払うようにわたしたちを外に追いやる。
 今さら職員室には向かえない。
 わたしは大人しく海斗(かいと)くんに甘えることにした。
 2人いっしょに階段を下りる。

「どっちがいい?」

 海斗(かいと)くんが青と紫の傘を見せる。アジサイをモチーフにしているようで、どちらも薄く花柄の模様が入っている。

「いいよ、好きなほうで」
「じゃあ、彩良(さら)さんが紫かな。そっちのほうが、たぶん新しいよ」
「古くてもいいのに……」
「どうせだったら、きれいなやつは女の子に差してもらいたいじゃん?」

 雨具としての状態を鑑みてくれたわけじゃないらしい。
 明後日の気づかいに、うれしさと寂しさの入り混じった感情が生まれる。
 今のは女の子に対する親切だ。きっと、あの頃の友情とは違う。
 ぱっとアジサイが開く。
 もう慣れているはずなので、道案内は必要ない。それでもわたしたちの歩くスピードは変わらなかった。

 小雨のようにぽつぽつと、海斗(かいと)くんが言葉を投げる。

彩良(さら)さんも……」
「えっ、何?」

 わたしは聞き返す。
 海斗(かいと)くんは足元の水たまりに視線を落とした。

一木(いつき)小学校で保健委員だったんだよね?」

 どきっとした。

「……」

 隠していたわけじゃないけれど、うまく言葉が出て来ない。
 海斗(かいと)くんは自分が委員だったことを知っている。わたしが偽ったことを理解しているんだ。

「ごめん、聞いて回ったわけじゃないんだ。ただ教えてくれた人がいて……その」
「……。海斗(かいと)くんと違って、わたし手当の方法とかわかんないから。自分が情けなくて、言い出せなかったの」

 話せなかった理由は全く異なる。
 それでも、わたしはでっち上げる必要があった。
 海斗(かいと)くんが視線を上げて、こちらを見た。
 ああ、いよいよそのときが来てしまったんだと、わたしは覚悟した。

「僕たちの間には本当に何もなかったの?」

 どう考えたって、素直になれなかったわたしが悪い。
 わかっているけれど、海斗(かいと)くんだけには聞かれたくなかった。
 自分の口からは言いたくなかったんだ。
 でも、もう遅い。
 これ以上はごまかすことなんてできないだろう。

「……。……人並みに交流があったよ」

 海斗(かいと)くんはわたしを責めない。
 ただ、ため息をひとつついた。
 どこに向けてなされたのかもわからない。

(だま)すつもりじゃなかったの」
「……言えなくて当然だよ。彩良(さら)さんからすれば、俺は大事なことを忘れたクソ野郎なんだから」
「違う! そんなふうに思っていない」

 首が取れてしまいそうなほどに勢いよく、ぶんぶんと首を横に振った。海斗(かいと)くんは悲しそうに笑って、気にしないでと前を向く。

「何があったんだろうね、俺たちの間には」
「それは……」

 ちっちゃくて美しい、たくさんの思い出たち。
 もろく、触れれば壊れてしまうものだらけだけど、わたしにはどれもが大切でかけがえのない宝物だった。

 劇的なドラマなんて何もない。
 一言で表せば、ただわたしが海斗(かいと)くんを好きだっただけだ。
 いつ自覚したのかは思い出せないけれど、仲良くしている間にわたしは恋をしていた。
 海斗(かいと)くんが傘を閉じる。

「な、何しているの!?」

 驚いて声を上げたわたしを無視して、海斗(かいと)くんはまた遠い目をする。

「前にもこんなことがあった気がする……。今、ずぶ()れで帰れば、記憶を取り戻せそうなんだ」

 そぼ降る雨とは対照的に、憂うことのない爽やかな表情だった。
 短く、別れのあいさつをした海斗(かいと)くんが走る。

「ま、待ってよ!」

 わたしは必死になって背中を追った。
 海斗(かいと)くんはどうなってしまうんだろう。良くも悪くも、わたしがただの女の子だから、海斗(かいと)くんは優しくしてくれているんだ。

 傘なんて差していられない。
 泥が跳ねるのも気にせずに足を動かせば、どうにかブレザーの端をつかむことに成功した。
 息が切れていて、どうしたって呼吸が荒くなる。

「無理に……思い出さなくていいから」
「でも――」
「いいから!」

 海斗(かいと)くんの返事をわたしは大声でさえぎった。
 今の人格が消えてしまうくらいなら、思い出なんてよみがえなくたっていい。当時のほうが親しかったけれど、それは友情の延長なんだ。

 そんなものはわたしの中だけで十分だった。

「あいつも言っていたじゃん。これから作っていけばいいんだよ」

 ずるいだろうか。
 異性として扱われることを望むのは、やっぱり悪い女なんだろうか。

「……。いいの?」
「うん」

 わたしは同じ人に浮気をしてしまった。
 もしかしなくとも、それは海斗(かいと)くんに対する裏切りだ。
 2人でいた小学校こそが宝箱だと思っていたのに、もうわたしの心の中には違う入れ物が用意されていたんだ。
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