私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第1話 買われたのは工房で、私はまだ売っていない
【本文】
 九月のはじめ、玻璃堂の裏口には、いつものように乾ききらない布の匂いがたまっていた。古い木枠の窓から差し込む朝の光は、棚に積まれたボタン箱や糸巻きの端だけを白く照らし、奥の作業台までは届かない。響は卓上灯を寄せ、レースの裂け目へ針を落とした。細い糸が布をすべる音だけが、まだ開店前の工房に残っている。

 店の奥から、古い電卓を叩く音がした。帳簿を見ていた店主が、ひとつ息をついてから、紙をめくる。聞こえないふりをしていても、あの音の重さだけは毎日同じだった。家賃の期限。支払い待ちの請求。今月で辞めるかどうかを迷っている職人の名前。どれも、針先より鋭く工房の空気へ刺さっている。

 響は手元のドレスから目を離さずに言った。
 「裾の重み、前より片側に寄ってます。たぶん前の持ち主が、右足を少し外に流して歩く癖があったんだと思います」
 返事の代わりに、向かいで見守っていた先輩職人の佑里江が、ふっと笑う。
 「そういうのだけは、よく見えるのね」
 「だけって言い方、ひどくないですか」
 「褒めてるの。ほら、そこ。レースの重なり、もう少し下」

 響は素直に針を入れ直した。今日仕上げるのは、十一月開業予定の複合文化宿泊施設、TRIPHANE HILLの内覧会用に貸し出すアンティークドレスだ。箱根寄りの山の中腹にある、閉校した女学校跡地を再生する大掛かりな事業だと聞いている。華やかな話だ、と外の人は言う。だが玻璃堂に回ってきたのは、最後の最後で駆け込んできた、難しい補修ばかりだった。

 「これが終わったら、ほんとうに最後かもしれないわね」
 佑里江が、ごく自然な声で言った。
 響の指先が、わずかに止まる。
 「最後って、貸し出しのことですか」
 「店のことも含めて」
 「……朝から縁起でもないです」
 「縁起の悪い話を、縁起がいい言い方で包んでも、お金にはならないでしょう」

 言い切られてしまうと、反論が消える。響は針を置き、そっとドレスのスカート部分を持ち上げた。薄いクリーム色の絹地は、光を受けるとまだやわらかく輝くのに、近くで見ると乾いた細かな傷がいくつも走っている。持ち主が大事にしまい続けてきた時間まで、布は覚えている。そういうものを見つけるたび、響は無性に腹が立った。きれいなものが消えていくことに、いつも理由が少なすぎる。

 搬入は昼前。ドレスを不織布で包み、箱へ納め、付属の手袋や補修用の糸を確認していると、店主が出てきて言った。
 「現地で担当者と話をしてくれ。向こう、かなり忙しそうだ」
 「いつも忙しいって言ってるじゃないですか」
 「今日からの忙しさは、桁が違うらしい」
 「嫌な予感しかしませんね」
 「その顔で行くと、喧嘩売ってるみたいに見えるぞ」
 「売られたら買います」
 「うちはもう、買える余裕もない」

 苦笑いとも自嘲ともつかない言葉が残り、響は何も返せなかった。

 山へ向かう搬入車の窓から見えた空は高く、夏の名残を薄く引きずりながら、秋の乾いた青へ変わりかけていた。山道を上るにつれ、霧の切れ端のような雲が斜面に貼りつき、遠くに白い建物が現れる。旧・白鐘女子学園。写真では見たことがあったが、実際に見ると、校舎の輪郭には思った以上に気位があった。古い石段、細長い窓、時計の止まった塔。そこへ新しいガラス棟と金属の手すりが伸び、過去と現在が、無理やり同じ敷地に立たされている。

 搬入口には、人の波ができていた。台車を押す者、図面を抱える者、インカムで怒鳴る者、花材を運ぶ者。誰もが早足で、誰もが自分の持ち場しか見ていない。その中心で、ひときわ目立つ男が片手を上げた。

 派手だった。

 朝の工房で見ていた白や生成りとは無縁の、黒に近い深い青のスーツ。シャツの第一ボタンをひとつ外し、靴はよく磨かれている。軽く手を振るだけで周囲が一斉に動くくせに、本人の口元には仕事の緊張を削るみたいな笑みがある。場違いなほど余裕があるのに、立っている場所だけ空気の回転が速い。

 「玻璃堂さん?」
 男はすぐに箱へ目を向けた。
 響が一歩出る。
 「はい。搬入に来ました」
 「助かる。三階展示室、ただし今はエレベーター片方が止まってる。階段のほうが早い」
 「それ、助かるって言う前に言うことじゃないですか」
 「言ってるじゃん。いま」
 「そういうことじゃなくて」

 男は、声だけで笑った。
 「いいね。たぶん今日、いちばん健康的な反応」
 「褒めてませんよね」
 「現場でちゃんと怒れる人、好きだよ。で、ドレスどっち持つ?」
 「どっちも持ちません。これはひとりで持つと重心が崩れます」
 「へえ」

 軽く返しただけなのに、男の目が一瞬だけ変わった。箱の角度、響の腕の位置、包みの重みのかけ方を、視線がなぞる。遊んでいた人の目ではなかった。

 「縫い直し、右脇の下に一度入ってる?」
 突然そう言われ、響は足を止めた。
 「……見ただけでわかるんですか」
 「箱の沈み方で。右側だけ、布じゃなくて糸の張りが先に来てる。あと、裾の重さ。正面展示なら、一歩目を左に見せたほうが綺麗」
 「それは」
 「間違ってる?」

 悔しいことに、合っていた。響は眉をひそめる。
 「担当の方ですか」
 「そう。だいたい全部」
 「だいたい全部って、ずいぶん雑な自己紹介ですね」
 「詳しく言うと長いから省略した。真叶」
 「名字ですか、名前ですか」
 「どっちでも通る。君は?」
 「響です」
 「いい名前」
 「まだ何もしてませんけど」
 「名前に対する感想に、仕事の実績は関係なくない?」

 軽い。いちいち軽い。なのに、搬入口で詰まっていた台車が一台動けば、それに合わせて別の人間へ指示が飛ぶ。荷札の色を見ただけで置き場所を変え、床の養生が甘いと見れば自分でしゃがみ込んで貼り直す。ふざけた口調のまま、全体の遅れだけは一秒単位で拾っていく。その働き方が気に入らないのか、気になるのか、響はまだ判断できなかった。

 三階展示室に着くと、真叶は手袋をはめたまま、搬入台へ布を敷かせた。
 「ここで開けよう。照明、少し落として。反射が強い」
 「それもわかるんですか」
 「眩しいと、きれいなものを雑に扱う人が増える」
 その言い方だけ、妙に静かだった。

 箱を開け、ドレスを広げる。窓から入る自然光の下で、補修したレースは目立たない。ただ、完全に消えたわけではない。そのわずかな違和感へ、真叶の指先が近づいた。
 「ここ、消しきらなかったんだ」
 「消せます。でも、無理に均したら、この先の傷み方が読めなくなります」
 「残した理由がある」
 「布の履歴まで消したくないので」
 「なるほど。高い」
 「値段の話ですか」
 「目の話」

 響は、ますます気分が悪くなった。人を見るように物を見る男と、物を見るように人を値踏みする男は、たいてい似ている。きれいに言葉を選ぶぶん、なお悪い。

 展示台の位置確認が終わるころには、昼をだいぶ過ぎていた。誰も食事の時間を守れていない現場で、真叶だけが紙コップのコーヒーを片手に、まだ笑っている。
 「昼、食べた?」
 「食べてません」
 「搬入組にサンドの余り出る。持ってく?」
 「結構です」
 「なんで」
 「借りを作りたくないので」
 「ああ。そういうタイプ」

 妙に納得したようにうなずかれて、響はまた腹を立てた。

 帰りの車中で、搬入を手伝った運転手が、バックミラー越しに言った。
 「すごいですね、あの人。現場で一番動いてた」
 「すごいんでしょうね」
 「雑誌で見たことありますよ。天城グループの若い代表」
 「……は?」
 「再生事業で有名な。あれ、知らなかったんですか」

 そのとき、胸のどこかで嫌な音がした。さっきの軽口と手際のよさが、急に別の輪郭を持つ。現場担当どころじゃない。全部の上に立つ人間。つまり——。

 夕方、玻璃堂へ戻ると、店の空気が朝とまるで違っていた。店主と、見慣れない背広姿の男が二人。机の上には契約書らしい紙が広げられている。佑里江が、いつもより背筋を伸ばしたまま、窓の外を見ていた。

 「響」
 店主が呼ぶ声がかすれる。
 「話がある」

 短かった。あまりに短かった。玻璃堂は、事業譲渡というかたちで買い取られることになった。工房の設備と一部資料、職人の雇用は可能な限り維持。新しい受け皿は、天城グループが進める白鐘女子学園跡地再生事業の修復部門。正式な説明は後日。今日決まったことだけ先に伝える。そう言われても、耳に残るのは「買い取られる」の一点だけだった。

 「いつから知ってたんですか」
 響の声は自分でも驚くほど乾いていた。
 店主が目を伏せる。
 「最終打診は昨日だ」
 「昨日?」
 「おまえに言ったら、今日の搬入を投げると思った」
 「投げません」
 「じゃあ、余計なことを考えて、針がぶれる」
 「そんなことでぶれません」
 「ぶれるよ。おまえは、こういう時ほど手元に出る」

 言い返そうとして、言葉が詰まる。まっすぐ図星だった。

 そこへ、工房の戸がまた開いた。振り向くより早く、あの場違いなほど整った声が入ってくる。
 「説明、始まってた?」

 真叶だった。今度は現場用のジャケットを脱ぎ、さっきよりもきれいな顔をしているくせに、工房の狭さにも、こちらの空気の冷たさにもまるでひるまない。

 響の足が勝手に前へ出た。
 「あなたが、買ったんですか」

 部屋の誰も口を挟まなかった。真叶は数秒だけ黙り、視線を響へ合わせた。その目に、搬入口で見た軽さはない。
 「言い方は、もう少し穏やかにもできる」
 「私は穏やかじゃないので」
 「そう」
 「私を買ってくれた人って、あなたですか」

 皮肉のつもりだった。怒鳴るより冷たくしたかった。なのに語尾が少しだけ震えたせいで、工房の空気は妙な方向へ転がった。背広の男が目をそらし、店主が咳払いをし、佑里江だけが呆れたように額を押さえる。

 真叶は否定しなかった。
 すぐには。
 ただ、ほんのわずか口元を動かし、それから言った。
 「買ったのは工房だよ」

 その答えは、火に油だった。
 「じゃあ、私は付属品ですか」
 「違う」
 「違わないでしょう。今日、あの現場で、私が何も知らないまま働いてたの、面白かったですか」
 「面白くはない」
 「でも黙ってた」
 「今日の搬入を見てから話したかった」
 「何をです」
 「君の目を」

 意味がわからず、響は目を見開いた。
 真叶は、まるで交渉の席でも資料説明でもない調子で言う。
 「残すべきものを、ちゃんと残そうとする目だった。だから必要だと思った」
 「必要なら、先に話してください」
 「先に話すと、君、会ってくれなかったでしょ」
 「当たり前です」
 「うん。だから順番を変えた」

 人を怒らせる才能まであるらしい。響は言葉を失い、次に出たのはため息ではなく笑いに近い息だった。
 「最低」
 「よく言われる」
 「自慢ですか」
 「いまのは褒め言葉じゃないね」

 工房のあちこちで、張り詰めていたものが変なかたちで抜けた。誰かが小さく吹き出し、すぐ黙る。響だけが笑えなかった。

 買われたのは工房。そうかもしれない。けれど、その中で働いてきた時間まで紙で引き取られた気がした。針山も、裁ちばさみも、硝子越しの午後の光も、ここでやってきた失敗も工夫も、全部まとめて誰かの事業計画に入れられてしまったようで、喉が苦い。

 真叶はそれ以上近づかずに言った。
 「正式な説明は明日。雇用条件も、役割も、曖昧なまま決めない」
 「私はまだ何も引き受けてません」
 「知ってる」
 「受けるとも言ってません」
 「それも知ってる」
 「……ならいいです」
 「ただ」
 「何ですか」
 「売ってないなら、なおさら自分で選んで」

 響は答えなかった。答えられなかった。まっすぐ言われると、怒りの置き場がぶれる。

 その夜、閉店後の工房でひとりになってから、響は補修を終えたばかりの手を見下ろした。糸を結んだ指先は少し赤く、爪の脇には細い傷がある。昔から、きれいなものを守る仕事は、思っているほどきれいな手では終わらない。そう知っているのに、今日はその手ごと値札をつけられたみたいで、やけに悔しかった。

 外では秋の虫が鳴き始めていた。工房のガラス戸に、自分の顔が薄く映る。強い顔はしていない。泣きそうでもない。ただ、見たことのない場所へ急に押し出された人間の顔だった。

 響は、明日の説明には行くつもりでいた。
 断るためでも、怒るためでもない。
 少なくとも、自分が何を取られそうになっているのかだけは、自分の耳で確かめるために。
【続】

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