私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第2話 少しだけ背伸びする契約
【本文】
翌朝の玻璃堂は、見慣れた店であるはずなのに、もう半歩ほど遠くにあった。机の上には昨日の契約書の写しが置かれ、湯呑みの並びまでどこかよそよそしい。店主は早くから電話をしていて、佑里江は無言で棚の整理をしている。響は開店前の札をひっくり返し、いつものように床を掃いた。いつも通り動けば落ち着くと思ったのに、箒の穂先が板の継ぎ目に引っかかるたび、今日は「いつも通り」がもうないのだと思い知らされる。
午前十時、約束通りに説明の場が設けられた。工房の二階、使われていない応接室。窓の外には、裏庭の萩が風に揺れている。こんな話をするには穏やかすぎる景色だった。
真叶は時間ぴったりに来た。昨日と違い、今日は濃い灰色のスーツに細い眼鏡までかけている。きちんとしているせいで、かえって胡散臭い。後ろには天城グループの法務担当と人事の女性、そして克洋と紹介された運営管理室長がいた。克洋は資料を置くと、真叶の横ではなく少し後ろへ下がり、部屋の全体が見える位置へ立つ。その立ち方だけで、この人が現場で人の流れを見る仕事をしているのだとわかった。
「まず前提から話す」
真叶は椅子に浅く腰かけ、書類を開いた。
「玻璃堂をなくすための買収じゃない。残すためだ。TRIPHANE HILLでは、旧白鐘女子学園に残る衣装資料の修復と、開業後のアーカイブ管理が必要になる。うちには保存技術の機材はある。でも、布に触れて判断する人が足りない」
「だから人ごと買うんですか」
響が言うと、人事の女性がわずかに眉を動かした。だが真叶は気にせず続ける。
「工房を受け皿にして、その技術を消さない。設備も資料も、可能な範囲で引き取る。職人の雇用継続も前提。ここまでは事業の話」
「その先は?」
「君の話」
それが嫌だった。特別扱いの始まりみたいで。
響は腕を組む。
「私は、いまのところ受ける気ありません」
「うん」
「うん、じゃないです」
「受ける気がない人に、いきなり受けろって押したら逃げる」
「逃げません」
「昨日の時点で半分くらい逃げてた」
正確で腹が立つ。響が言い返そうとすると、克洋が静かに口を開いた。
「期間を切る方法もあります」
彼の声は、よく通るのに耳へぶつからない。
「開業までの準備期間だけ、修復監修補助として参加してもらう。業務内容、責任範囲、名称を明確にして、試用のような扱いにはしない。正式な役職ではないが、雑用でもない。現場の判断に意見を出せる立場です」
「……最初からそう説明してください」
「私もそう言ったんですが」
克洋はごく小さくため息をつき、真叶を見た。
真叶は悪びれずに肩をすくめる。
「俺が話すと、だいたい怒らせるから」
「自覚あるなら改善してください」
「努力はしてる」
「成果が見えません」
「今日は昨日よりまし」
「比べる対象が低すぎます」
応接室の端で、佑里江が小さく吹き出した。響は振り返る。
「笑ってる場合じゃないです」
「だって、あんた、ちゃんと怒れてるもの」
「褒めないでください」
「褒めてない。確認してるの」
佑里江は資料の上へ視線を落とし、それから言った。
「なくなるより残る方がいいのよ。その残し方に、あんたが口を出せるなら出しなさい」
「でも」
「でも、じゃない。嫌なら、どこが嫌かを紙にさせる。名前を決める。条件を書く。曖昧なまま『助けてあげる』顔をされたら、腹が立つでしょう」
「立ちます」
「なら、立てる場所を作りなさい」
言われて、響は黙った。腹が立つ。たしかにそうだ。昨日からずっと。けれど本当に嫌なのは、工房が消えるかもしれないことだけではない。自分のしてきた仕事が、ふわっとした好意や思いつきに見られることだ。真叶は「必要だ」と言ったが、その必要がどこまで本物なのか、まだ信用はできない。
法務担当が、業務委託に近い形式の短期契約案を示した。期間は九月中旬から十一月開業日まで。職種名は「修復監修補助」。主な業務は、衣装資料の状態確認、展示前補修の判断補助、保存環境に関する提案、関連展示物との整合確認。接客補助や雑務全般を含む、というような曖昧な一文は入っていなかった。そこだけで少し、胸のつかえが減る。
「補助、ってつくんですね」
響が言うと、真叶は頬杖をついた。
「最初から総監修って肩書きにすると、うちの中で話が早すぎる」
「つまり守ってるんじゃなくて、ぼかしてる」
「半分ずつ」
「正直」
「君の前では、嘘つくほうが損だって昨日わかったから」
妙にまっすぐなことを、平気な顔で言う。響は視線を外した。
ひと通りの説明が終わったあと、他の人間が席を外し、応接室には響と真叶、そして窓から入る風の音だけが残った。真叶はコーヒーに口をつけながら、紙を指で軽く叩いた。
「条件、足したいことある?」
「あります」
「言って」
「私は雇われた愛玩物みたいな扱いはしません」
「しない」
「現場で必要以上に親しげに振る舞わないでください」
「それは努力する」
「努力じゃ困ります」
「わかった。困らせない程度にする」
「そういう言い方がだめなんです」
「難しいなあ」
難しいのはこっちだ、と響は思う。
「あと、私の意見を使うなら、どこで誰が判断したかを曖昧にしないでください」
真叶の指が止まる。
「それは大事だね」
「大事です」
「了解。議事録と決裁経路、全部残す」
「それから」
「まだある?」
「あるに決まってるでしょう。写真」
「ああ」
「昨日の仮広報資料、私の知らないところで使わないでください」
「宏哲に止めさせる」
「宏哲?」
「広報の責任者」
「責任者があれなんですか」
「勝てる画を作るのが得意」
「負ける気分にさせるのも得意そうですね」
「それは同意」
真叶があっさりうなずいたので、響は拍子抜けした。
「……あなた、何でも押し通す人かと思ってました」
「押し通せるところと、押したら終わるところくらいは分けてる」
「昨日は分かれてませんでしたけど」
「昨日は君に会いたかったから、だいぶ雑だった」
「いま、さらっと問題発言しましたよね」
「した」
「取り消してください」
「やだ」
「子供ですか」
「気分は若い」
「知りません」
知りません、と言いながら、響は自分の鼓動が一つ早くなったのを認めざるを得なかった。会いたかった。そんなことを言われて喜ぶ筋合いはないのに、耳だけが先に反応してしまう。
昼前、説明が終わったあと、佑里江が工房の流し台で湯呑みを洗いながら言った。
「受けるでしょ」
「まだ決めてません」
「決めてる顔」
「何ですか、その顔って」
「腹が立ってるのに、断り文句を探してない顔」
「……」
「響。あんた、なくなるのが一番嫌なんでしょう」
「嫌です」
「なら、嫌だってだけで手を引くのは違う」
「わかってます」
「ほんとはね、私はあんたが嫌われるのを少し期待してたのよ」
「は?」
「派手で軽くて、金の匂いがする男なんて、あんた一番嫌うもの」
「嫌ってます」
「でも、嫌いきれてないでしょう」
まるで針を刺す場所を知っているみたいに、佑里江はそこだけ正確に言い当てる。響はむっとして棚の布をたたみ直した。
「嫌いきれない、じゃなくて、判断保留です」
「はいはい。じゃあ保留のまま行ってらっしゃい」
結局、響はその日の夕方までに契約書へ目を通し、赤字でいくつか条件を書き足した。資料の状態判断に関する最終意見の記録。写真使用には事前確認。修復に関する不具合報告の共有。肩書きは「修復監修補助」。働く期間は開業日まで。宿泊が必要になった場合の環境整備は業務上必要な範囲に限る——と書きながら、最後の一文だけ、自分でも少し笑ってしまう。どれだけ先回りされると警戒しているのか。
署名を終えたあと、響は工房の奥でひとり息をついた。店主がそっと近づいてくる。
「悪かったな」
「何がですか」
「先に言えなかった」
「……怒ってますよ、まだ」
「うん」
「でも、怒ってるのと、わからないのは違います」
「そうだな」
「私、行きます」
店主の目が少しだけ和らぐ。
「頼んだ」
「頼まれなくても、言うことは言います」
「それでいい」
夕方、契約書を届けるため再び山へ上がると、校舎の窓は西日を受けて金色に光っていた。現場はまだ忙しないのに、斜面を渡る風だけがやけに涼しい。受付棟の一室で真叶に書類を渡すと、彼は一ページずつ確認し、赤字の部分にすぐサインした。
「即決なんですね」
「必要な条件だったから」
「揉めると思ってました」
「揉めたほうが、君は落ち着く?」
「そういう問題では」
「じゃあ、歓迎する。修復監修補助さん」
その呼び方が少しだけ面白くなくて、響は唇を尖らせた。
「まだ補助ですから」
「知ってる」
「強調しないでください」
「そのうち変わるかも」
「変えたかったら、仕事を見てからにしてください」
「もちろん。見るよ、ちゃんと」
窓の外で、搬入トラックが一台バックしてくる。誘導灯の赤い光が斜面の木々へ反射し、遠くで誰かが名前を呼ぶ。始まってしまう。そう思った。自分の知らない速度で回る大きな現場へ、これから足を踏み入れるのだ。
それでも、完全な怖さだけではなかった。書面に条件を書き込んだとき、自分の手がわずかに落ち着いたのを覚えている。曖昧にされるくらいなら、自分で線を引く。そうして選んだなら、少なくとも「流された」ことにはならない。
真叶が、署名済みの控えを差し出した。
「ようこそ、って言うとまた怒る?」
「たぶん」
「じゃあやめとく」
「賢明です」
「でも一つだけ」
「何ですか」
「少しだけ背伸びしてきて。ここ、そういう場所だから」
「背伸びしなくても届く仕事だけします」
「届かないところは?」
「必要なら台を持ってきます」
真叶は楽しそうに笑った。
「いいね。落ちる前に拾う準備、しとく」
その言い方に、昨日と同じようにまた腹が立つ。だが今日は、それだけでは終わらなかった。腹立たしさのすぐ裏側に、妙に熱いものがひとつ残る。気づかないふりをして、響は控えを鞄へしまった。
帰り際、校舎の玄関を出たところで、風がさっと吹き抜けた。階段脇の欄干に、白い小さな羽が一枚引っかかっている。響はそれを摘み上げ、何となく掌へ乗せた。山の夕暮れは早い。羽は軽すぎて、指の隙間からすぐに飛んでいった。
ほんの少しだけ、自分も同じ場所へ飛ばされる気がした。
怖いのに、戻りたいとは思わない。
そのことが、いちばん厄介だった。
【続】
【本文】
翌朝の玻璃堂は、見慣れた店であるはずなのに、もう半歩ほど遠くにあった。机の上には昨日の契約書の写しが置かれ、湯呑みの並びまでどこかよそよそしい。店主は早くから電話をしていて、佑里江は無言で棚の整理をしている。響は開店前の札をひっくり返し、いつものように床を掃いた。いつも通り動けば落ち着くと思ったのに、箒の穂先が板の継ぎ目に引っかかるたび、今日は「いつも通り」がもうないのだと思い知らされる。
午前十時、約束通りに説明の場が設けられた。工房の二階、使われていない応接室。窓の外には、裏庭の萩が風に揺れている。こんな話をするには穏やかすぎる景色だった。
真叶は時間ぴったりに来た。昨日と違い、今日は濃い灰色のスーツに細い眼鏡までかけている。きちんとしているせいで、かえって胡散臭い。後ろには天城グループの法務担当と人事の女性、そして克洋と紹介された運営管理室長がいた。克洋は資料を置くと、真叶の横ではなく少し後ろへ下がり、部屋の全体が見える位置へ立つ。その立ち方だけで、この人が現場で人の流れを見る仕事をしているのだとわかった。
「まず前提から話す」
真叶は椅子に浅く腰かけ、書類を開いた。
「玻璃堂をなくすための買収じゃない。残すためだ。TRIPHANE HILLでは、旧白鐘女子学園に残る衣装資料の修復と、開業後のアーカイブ管理が必要になる。うちには保存技術の機材はある。でも、布に触れて判断する人が足りない」
「だから人ごと買うんですか」
響が言うと、人事の女性がわずかに眉を動かした。だが真叶は気にせず続ける。
「工房を受け皿にして、その技術を消さない。設備も資料も、可能な範囲で引き取る。職人の雇用継続も前提。ここまでは事業の話」
「その先は?」
「君の話」
それが嫌だった。特別扱いの始まりみたいで。
響は腕を組む。
「私は、いまのところ受ける気ありません」
「うん」
「うん、じゃないです」
「受ける気がない人に、いきなり受けろって押したら逃げる」
「逃げません」
「昨日の時点で半分くらい逃げてた」
正確で腹が立つ。響が言い返そうとすると、克洋が静かに口を開いた。
「期間を切る方法もあります」
彼の声は、よく通るのに耳へぶつからない。
「開業までの準備期間だけ、修復監修補助として参加してもらう。業務内容、責任範囲、名称を明確にして、試用のような扱いにはしない。正式な役職ではないが、雑用でもない。現場の判断に意見を出せる立場です」
「……最初からそう説明してください」
「私もそう言ったんですが」
克洋はごく小さくため息をつき、真叶を見た。
真叶は悪びれずに肩をすくめる。
「俺が話すと、だいたい怒らせるから」
「自覚あるなら改善してください」
「努力はしてる」
「成果が見えません」
「今日は昨日よりまし」
「比べる対象が低すぎます」
応接室の端で、佑里江が小さく吹き出した。響は振り返る。
「笑ってる場合じゃないです」
「だって、あんた、ちゃんと怒れてるもの」
「褒めないでください」
「褒めてない。確認してるの」
佑里江は資料の上へ視線を落とし、それから言った。
「なくなるより残る方がいいのよ。その残し方に、あんたが口を出せるなら出しなさい」
「でも」
「でも、じゃない。嫌なら、どこが嫌かを紙にさせる。名前を決める。条件を書く。曖昧なまま『助けてあげる』顔をされたら、腹が立つでしょう」
「立ちます」
「なら、立てる場所を作りなさい」
言われて、響は黙った。腹が立つ。たしかにそうだ。昨日からずっと。けれど本当に嫌なのは、工房が消えるかもしれないことだけではない。自分のしてきた仕事が、ふわっとした好意や思いつきに見られることだ。真叶は「必要だ」と言ったが、その必要がどこまで本物なのか、まだ信用はできない。
法務担当が、業務委託に近い形式の短期契約案を示した。期間は九月中旬から十一月開業日まで。職種名は「修復監修補助」。主な業務は、衣装資料の状態確認、展示前補修の判断補助、保存環境に関する提案、関連展示物との整合確認。接客補助や雑務全般を含む、というような曖昧な一文は入っていなかった。そこだけで少し、胸のつかえが減る。
「補助、ってつくんですね」
響が言うと、真叶は頬杖をついた。
「最初から総監修って肩書きにすると、うちの中で話が早すぎる」
「つまり守ってるんじゃなくて、ぼかしてる」
「半分ずつ」
「正直」
「君の前では、嘘つくほうが損だって昨日わかったから」
妙にまっすぐなことを、平気な顔で言う。響は視線を外した。
ひと通りの説明が終わったあと、他の人間が席を外し、応接室には響と真叶、そして窓から入る風の音だけが残った。真叶はコーヒーに口をつけながら、紙を指で軽く叩いた。
「条件、足したいことある?」
「あります」
「言って」
「私は雇われた愛玩物みたいな扱いはしません」
「しない」
「現場で必要以上に親しげに振る舞わないでください」
「それは努力する」
「努力じゃ困ります」
「わかった。困らせない程度にする」
「そういう言い方がだめなんです」
「難しいなあ」
難しいのはこっちだ、と響は思う。
「あと、私の意見を使うなら、どこで誰が判断したかを曖昧にしないでください」
真叶の指が止まる。
「それは大事だね」
「大事です」
「了解。議事録と決裁経路、全部残す」
「それから」
「まだある?」
「あるに決まってるでしょう。写真」
「ああ」
「昨日の仮広報資料、私の知らないところで使わないでください」
「宏哲に止めさせる」
「宏哲?」
「広報の責任者」
「責任者があれなんですか」
「勝てる画を作るのが得意」
「負ける気分にさせるのも得意そうですね」
「それは同意」
真叶があっさりうなずいたので、響は拍子抜けした。
「……あなた、何でも押し通す人かと思ってました」
「押し通せるところと、押したら終わるところくらいは分けてる」
「昨日は分かれてませんでしたけど」
「昨日は君に会いたかったから、だいぶ雑だった」
「いま、さらっと問題発言しましたよね」
「した」
「取り消してください」
「やだ」
「子供ですか」
「気分は若い」
「知りません」
知りません、と言いながら、響は自分の鼓動が一つ早くなったのを認めざるを得なかった。会いたかった。そんなことを言われて喜ぶ筋合いはないのに、耳だけが先に反応してしまう。
昼前、説明が終わったあと、佑里江が工房の流し台で湯呑みを洗いながら言った。
「受けるでしょ」
「まだ決めてません」
「決めてる顔」
「何ですか、その顔って」
「腹が立ってるのに、断り文句を探してない顔」
「……」
「響。あんた、なくなるのが一番嫌なんでしょう」
「嫌です」
「なら、嫌だってだけで手を引くのは違う」
「わかってます」
「ほんとはね、私はあんたが嫌われるのを少し期待してたのよ」
「は?」
「派手で軽くて、金の匂いがする男なんて、あんた一番嫌うもの」
「嫌ってます」
「でも、嫌いきれてないでしょう」
まるで針を刺す場所を知っているみたいに、佑里江はそこだけ正確に言い当てる。響はむっとして棚の布をたたみ直した。
「嫌いきれない、じゃなくて、判断保留です」
「はいはい。じゃあ保留のまま行ってらっしゃい」
結局、響はその日の夕方までに契約書へ目を通し、赤字でいくつか条件を書き足した。資料の状態判断に関する最終意見の記録。写真使用には事前確認。修復に関する不具合報告の共有。肩書きは「修復監修補助」。働く期間は開業日まで。宿泊が必要になった場合の環境整備は業務上必要な範囲に限る——と書きながら、最後の一文だけ、自分でも少し笑ってしまう。どれだけ先回りされると警戒しているのか。
署名を終えたあと、響は工房の奥でひとり息をついた。店主がそっと近づいてくる。
「悪かったな」
「何がですか」
「先に言えなかった」
「……怒ってますよ、まだ」
「うん」
「でも、怒ってるのと、わからないのは違います」
「そうだな」
「私、行きます」
店主の目が少しだけ和らぐ。
「頼んだ」
「頼まれなくても、言うことは言います」
「それでいい」
夕方、契約書を届けるため再び山へ上がると、校舎の窓は西日を受けて金色に光っていた。現場はまだ忙しないのに、斜面を渡る風だけがやけに涼しい。受付棟の一室で真叶に書類を渡すと、彼は一ページずつ確認し、赤字の部分にすぐサインした。
「即決なんですね」
「必要な条件だったから」
「揉めると思ってました」
「揉めたほうが、君は落ち着く?」
「そういう問題では」
「じゃあ、歓迎する。修復監修補助さん」
その呼び方が少しだけ面白くなくて、響は唇を尖らせた。
「まだ補助ですから」
「知ってる」
「強調しないでください」
「そのうち変わるかも」
「変えたかったら、仕事を見てからにしてください」
「もちろん。見るよ、ちゃんと」
窓の外で、搬入トラックが一台バックしてくる。誘導灯の赤い光が斜面の木々へ反射し、遠くで誰かが名前を呼ぶ。始まってしまう。そう思った。自分の知らない速度で回る大きな現場へ、これから足を踏み入れるのだ。
それでも、完全な怖さだけではなかった。書面に条件を書き込んだとき、自分の手がわずかに落ち着いたのを覚えている。曖昧にされるくらいなら、自分で線を引く。そうして選んだなら、少なくとも「流された」ことにはならない。
真叶が、署名済みの控えを差し出した。
「ようこそ、って言うとまた怒る?」
「たぶん」
「じゃあやめとく」
「賢明です」
「でも一つだけ」
「何ですか」
「少しだけ背伸びしてきて。ここ、そういう場所だから」
「背伸びしなくても届く仕事だけします」
「届かないところは?」
「必要なら台を持ってきます」
真叶は楽しそうに笑った。
「いいね。落ちる前に拾う準備、しとく」
その言い方に、昨日と同じようにまた腹が立つ。だが今日は、それだけでは終わらなかった。腹立たしさのすぐ裏側に、妙に熱いものがひとつ残る。気づかないふりをして、響は控えを鞄へしまった。
帰り際、校舎の玄関を出たところで、風がさっと吹き抜けた。階段脇の欄干に、白い小さな羽が一枚引っかかっている。響はそれを摘み上げ、何となく掌へ乗せた。山の夕暮れは早い。羽は軽すぎて、指の隙間からすぐに飛んでいった。
ほんの少しだけ、自分も同じ場所へ飛ばされる気がした。
怖いのに、戻りたいとは思わない。
そのことが、いちばん厄介だった。
【続】