私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第12話 プールサイドの告白未遂
【本文】
 噂が出てから数日、響は自分でもわかるほど真叶と目を合わせる時間を減らしていた。仕事はする。会議にも出る。必要な資料も渡す。だが、それ以上に近づくのを無意識に避けてしまう。以前なら腹が立って終わっていた軽口さえ、今は妙に別の温度を帯びて聞こえるからだ。噂が当たっているわけではない。むしろ当たっていないから腹が立つ。けれど、完全に嘘だと切り捨てられない何かが自分の中にあるから、なおさらややこしかった。

 その夜、プール棟で水質試験の立ち会いが入った。開業前の最終確認の一環で、夜間照明を落とした状態でも水面の色が濁らないか、機材の稼働音が演出の邪魔をしないかを見る。克洋は別件対応で遅れ、先に現場へいたのは響と真叶だけだった。

 プール棟のガラス扉が閉まると、外の風音が遠くなる。温かな湿気と塩素の匂い。水面に映るライン照明は昼より青く、どこか人を油断させる明るさだった。響はタブレットを片手に、機器室側の表示を確認する。
 「数値、前回より安定してます」
 「よかった」
 真叶は少し離れた場所でインカムを外し、ようやく肩の力を抜いた。
 「今日ずっと走ってたから、ここ静かすぎて逆に変な感じ」
 「静かなほうが普通です」
 「君の前だと、普通の基準が毎回ずれる」
 「その言い方、やめてください」
 「ごめん」
 謝るのが早いのに、声は笑っている。響はそれ以上返さず、タブレットへ視線を戻した。

 真叶が近づいてきたのは、響がプールサイドの床へしゃがみ、水滴の残り方を確認していたときだ。床材の継ぎ目に、細い滴が一筋残っている。本番でモデルのヒールが当たれば滑るかもしれない。響は指先で触れた。
 「ここ、乾きが遅いです」
 「どこ」
 真叶が身を屈める。距離が近い。思っていた以上に。響が示した指先のすぐ横へ、彼の手が置かれた。触れてはいない。だが、指先一つぶんの距離に体温があるだけで、背中が妙に緊張する。
 「排水の角度かな」
 「たぶん。でもヒールで歩く人は、反射で気づきにくい」
 「追加で吸水マット、舞台袖側へ寄せる」
 「はい」

 立ち上がろうとした瞬間、響の頬へ冷たいものが触れた。プールから跳ねたしずくかと思ったが、違う。真叶の指だった。彼はごく自然な顔で、響の髪に触れた水滴を払っている。
 「ついてた」
 その声が、やけに低い。
 響は一歩下がった。
 「びっくりします」
 「ごめん」
 「最近、謝ればいいと思ってません?」
 「少し」
 「ひどい」
 「でも黙って見てるのも嫌だった」

 水面の反射が、ガラス壁へゆらゆらと映る。青い光が真叶の首筋に揺れ、普段の場を回す顔と違う陰影を作っていた。何か言わなければと思うのに、何を言えばいいかわからない。仕事の話へ戻したいのに、喉がうまく動かない。

 真叶が先に口を開いた。
 「響」
 「……何ですか」
 「他の奴に預ける気、ないから」
 言葉の意味が、一瞬では入ってこなかった。いや、入ってきたくせに、理解したくなくて遅れたのかもしれない。
 「仕事の話ですか」
 自分でも情けないほど鈍い確認だった。
 真叶は、困ったように笑う。
 「それだけなら、たぶんもっと楽だった」
 響の胸がどくんと鳴る。ここで踏み込めば、たぶん戻れない。噂のせいで過敏になっているだけかもしれない。彼の庇護欲と、自分の揺れが、勘違いを生んでいるだけかもしれない。そう言い聞かせる声と、それでも続きを聞きたいと思う気持ちが同時にぶつかり合った。

 「今、それを言うのは」
 やっと出た声は、思ったより掠れていた。
 「危ないですよ」
 「知ってる」
 「噂もあるし」
 「知ってる」
 「仕事も」
 「知ってる」
 「じゃあ」
 「それでも言いそうになるくらい、危ない」
 その率直さに、響は返事を失った。真叶が危ういのではない。自分が嬉しいと思ってしまうことのほうが危ないのだ。

 プールの水が、どこかで小さく跳ねた。
 静かすぎる空間では、心臓の音まで聞こえそうで嫌だった。

 「私」
 響はようやく言葉を探した。
 「いま、線をわからなくしたくないです」
 「うん」
 「嬉しくないわけじゃ……」
 そこまで口にして、はっとする。言ってしまった。真叶の目がわずかに見開かれる。
 「続き」
 「言いません」
 「そこまで来て?」
 「言いません」
 「ひどい」
 「ひどいのはそっちです」

 真叶が一歩だけ近づく。逃げられない距離ではないのに、足が動かなかった。
 「じゃあ言わなくていい」
 彼の声は今まででいちばん低く、静かだった。
 「でも、逃げるなとは言いたい」
 「逃げてません」
 「俺から」
 「……」
 「目、合わせない」
 「それは」
 「避けてる」
 図星だった。言い返せず、響は視線を落とす。すると真叶が小さく息をついた。
 「ごめん。責めたいんじゃない」
 「わかってます」
 「わかってない顔」
 「顔で判断しないでください」
 「難しいな」

 そこで、突然、温室のほうから甲高い声が響いた。
 「すき! すき! まかな!」
 レモンだった。
 一拍の沈黙のあと、空気が見事なほど壊れた。真叶が額を押さえ、響は思わず噴き出す。
 「最悪」
 真叶が言う。
 「最高です」
 響は笑いをこらえきれなかった。
 「何で今」
 「鳥は空気読まないから」
 「知ってる」
 笑ってしまった途端、さっきまで張りつめていたものが一気にほどける。嬉しかった。怖かった。線をわからなくしたくない。全部本当だ。だが少なくとも、今すぐ結論を出さなくていい隙間が生まれたことに、響は少しだけ救われた。

 そこへ克洋が遅れて入ってきた。
 「すみません、遅れました。……何かありましたか」
 真叶と響は、ほとんど同時に「何も」と答えた。克洋は一度二人の顔を見比べ、温室の方角からまだ聞こえる「すき!」という声を聞き、察したように目を細めた。
 「水質は安定しています」
 真面目な報告が、逆に可笑しかった。

 確認作業を終えて外へ出ると、山の空気はずいぶん冷えていた。真叶は送ると言いかけて、途中でやめた。代わりに一歩ぶんの距離を空けて、宿舎まで並んで歩く。
 「さっきの」
 彼が言う。
 「忘れていい」
 響は首を振った。
 「忘れられると思いますか」
 「思わない」
 「でしょうね」
 「じゃあ、覚えてて」
 「どっちですか」
 「君に任せる」
 その言い方が、意外なほどやさしかった。守る、拾う、先に整える。いつもはそうやって先回りする人が、いまは任せると言う。任せられると、かえって答えを急かされる気がして困る。

 宿舎の前で足を止める。
 「おやすみ」
 響が言うと、真叶は一瞬だけ笑った。
 「今日はちゃんと目を見た」
 「うるさいです」
 「進歩」
 「褒めないでください」
 「じゃあ、喜んでる」
 「もっとだめです」
 笑いながら扉を閉めても、頬の熱はしばらく引かなかった。鏡を見なくても、自分の顔が赤いとわかる。プールの湿気のせいではない。水滴を払った指の感触でもない。あの言葉のせいだ。

 他の奴に預ける気、ない。
 言われた瞬間の胸の音が、何度もよみがえる。
 嬉しくないわけじゃない。
 そこまで口にした自分の声まで、はっきり覚えている。

 レモンが空気を壊してくれなければ、あの夜はどこまで進んでしまったのだろう。
 考えたくないのに、考えてしまう。
 そして、もし本当に少し進んでいたら、自分は拒んだのか、受け止めたのか、その答えだけはどうしてもまだ言えなかった。
【続】

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