私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第11話 買われた女という噂
【本文】
 噂というものは、たいてい顔の見えないところから始まり、顔を合わせた瞬間にやけに親しげな形へ変わる。十月の半ば、TRIPHANE HILLの準備がいよいよ具体的になってくると、その嫌な性質が響の身にも降りかかった。

 最初は、搬入業者のひそひそ話だった。
 「代表のお気に入りらしい」
 すれ違いざまに聞こえた断片を、聞き間違いだと思おうとした。次は、業界向けの先行記事。宏哲が手掛けた特集で、施設再生の目玉として真叶と「無名の修復係」の存在が並べられ、肩書きは曖昧なまま、写真だけが妙に親密に見える構図で掲載されていた。さらに悪いことに、搬入初日に響が皮肉で口にした「私を買ってくれた人」という言葉が、どこからか切り取られて現場の外へ流れたらしい。

 「最悪」
 宿舎の部屋でタブレットを閉じた響は、思わず声に出した。記事自体に露骨な下世話さはない。だが、そこへ匿名掲示板やまとめのような場所が勝手な見出しをつける。
 〈若き代表が見初めた修復係〉
 〈買われた女、学園跡地で特別待遇〉
 文字にされると、汚れは実体を持つ。

 晏寿が部屋へ訪ねてきたのは、その直後だった。紙箱に新作の試作品を入れて持ってきたのに、響の顔を見るなり眉を下げる。
 「見ちゃった?」
 「見ました」
 「ごめん。止めきれなかった」
 「晏寿さんが謝ることじゃ」
 「でも、広報の打ち出しに厨房の写真も乗ったから確認してて、その流れで」
 晏寿は箱を机へ置き、響の隣に座った。
 「腹立つよね」
 「……仕事が、値踏みされたみたいです」
 「うん」
 「私が何を見て何をしてるかじゃなくて、誰の隣にいるかだけで話ができあがる」
 晏寿はしばらく黙り、それから静かに言った。
 「怒っていいよ」
 「怒ってます」
 「うん。ちゃんと怒って」

 その日の午後、真叶に会う予定が入っていた。展示解説文の確認。逃げたくはなかった。だから響は資料を抱えて会議室へ行った。真叶はいつも通りに見えた。だが席へ着く前に、響は記事の画面を見せた。
 「これ」
 真叶の目が一瞬で冷える。
 「見た」
 「見た、で終わらせるんですか」
 「終わらせない」
 「じゃあ最初に止めてください」
 「止めようとしてる」
 「遅いです」
 「……そうだね」

 認めるのが速いのに、響の怒りは収まらなかった。
 「あなたは『気にするな』で済むかもしれない。でも私はここで、仕事をしてるんです」
 「知ってる」
 「知ってるなら、どうしてこんな見え方を放っておけるんですか」
 真叶は机へ両手を置き、少しだけ顔を伏せた。
 「俺の立場の強さが、こういう形で出るのを、甘く見てた」
 「甘すぎます」
 「うん」
 「私が怒ってるの、わかります?」
 「わかる」
 「何に」
 「仕事より先に、誰かの所有物みたいに語られること」
 響は息を呑んだ。そこまで言い当てるなら、どうして最初からもっと止められなかったのか。わかっているから余計に腹が立つ。

 「宏哲と話す」
 真叶が言った。
 「記事の差し替え、写真の差し止め、肩書きの明記、全部やる」
 「全部やってください」
 「やる」
 「それでも、もう出た噂は消えません」
 「消せない。だから上書きするしかない」
 「上書き?」
 「君の仕事を、君の名前で出す」
 その言葉は正しい。正しいのに、怒りの最中では簡単に受け取れない。響は画面を閉じた。
 「もう少し早く、それを思いついてください」
 「ごめん」
 また、素直に謝る。そういうところだけ、ずるい。

 宏哲との話し合いはその日の夕方に行われた。響も同席した。会議室の空気は冷え、窓の外の曇り空まで灰色に見える。
 「拡散を狙ったわけじゃない」
 宏哲は最初にそう言った。
 「でも、結果としてそうなった」
 響が返す。
 「肩書きを曖昧にしたのも、物語を立たせるためだった」
 「物語にされたくないんです」
 「一般の目線では」
 「一般の目線を理由に、私の仕事を消さないでください」
 宏哲は珍しくすぐ言い返さなかった。指先で名刺入れを叩き、それから深く息を吐く。
 「わかった。間違えた」
 真叶がそこで口を挟む。
 「訂正記事を出す。修復チームの紹介も追加。響の肩書きは明記」
 「それで火が消えるとは限らない」
 宏哲の声は低い。
 「でも、やらないよりはまし」
 「……そうだな」

 話し合いのあと、響は一人で展示室へ行った。まだ開業前の静かな空間で、トリフェーンのケースだけが仮照明に照らされている。黄色い石は何も知らない顔で光を返す。人は勝手に意味をつける。石にも、写真にも、人にも。自分がどれだけ手を動かしても、誰かの軽いひと言ひとつで別の物語が始まる。それが悔しくてたまらなかった。

 「探した」
 背後から真叶の声がした。
 響は振り向かない。
 「何ですか」
 「逃げたかと思った」
 「逃げません」
 「うん。そうだね」
 真叶は少し離れた位置に立ち、同じように石を見た。
 「響」
 「……」
 「気にするな、は言わない」
 「言ったら帰ります」
 「知ってる」
 しばらく沈黙が続いたあと、彼は静かに続けた。
 「でも、君がやってきたことまで、それで小さくなるわけじゃない」
 「小さく見せられたんです」
 「それを戻すのは俺の仕事」
 「……あなたの仕事ばっかり増えますね」
 「君のこと絡むと、増える」
 「そういうの、今はやめてください」
 「わかった」

 言われれば止まる。止まるのに、最初から止めない。その差に、まだ信頼しきれないものが残る。

 夜、宿舎へ戻るとレモンが温室から妙に騒いでいた。ケージの前へ行くと、首をかしげて言う。
 「すき! まかな!」
 「今じゃない」
 響は本気でうめいた。レモンは楽しそうに羽を震わせるだけだ。
 「誰が教えたの」
 「まかな! すき!」
 「やめて」
 「すき!」
 小鳥は残酷なほど無邪気だ。涙が出るほど嫌な時でも、場を壊す才能だけはある。

 結局その晩、響は遅くまで眠れなかった。記事は差し替えられる。肩書きも明記されるだろう。だが、一度ついた色はそう簡単に落ちない。自分の仕事がまっすぐ伝わるより先に、「買われた女」という雑な言葉が走っていく。その速さに追いつけるのか、不安だった。

 それでも翌朝、展示室へ立つと、裂けた裾を残したドレスが静かに待っていた。補修跡は消えていない。けれど、それを見て「壊れた」と言うだけの人ばかりではないはずだ。手を入れた者にしかわからない誠実さが、物には残る。なら、人にもいつか残るのかもしれない。

 そう信じたいから、響はまた仕事着の袖をまくった。
 悔しさを抱えたままでも、手を止めないために。
【続】

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