私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第16話 こころ変わりの正体
【本文】
 十月半ばを過ぎると、山の木々は目に見えて色づき始めた。朝、旧校舎へ向かう坂道で、響は足元へ落ちた葉を何度も踏む。乾いた音がする。その音が妙に好きだった。季節が進んでいることを、言葉より先に靴底が教えてくれるからだ。

 同じころ、晏寿の看板菓子も完成に近づいていた。外はサクサク、中はしっとり。包装紙の色校正まで進み、パティスリーでは試食用の小箱が積まれている。仕事は着実に前へ進んでいる。展示も、解説文も、導線も。なのに響の心だけが、少し前より不安定だった。

 理由はわかっている。わかりたくないだけで。

 朝の会議で真叶の声を聞くと、それがどこにあっても耳が拾う。遠くの廊下で誰かと話していると、つい顔を上げてしまう。温室でレモンに甘い声を出していれば、何をしているのかと見に行きたくなる。噂の腹立たしさと、会うたびに増える熱の両方を抱え込むうち、響はとうとう認めざるを得なくなっていた。

 自分は、真叶に惹かれている。

 認めた瞬間、楽になるどころか、むしろ苦しくなった。好きなら近づきたい。だが近づくほど、「真叶に選ばれた女」としか見られなくなる恐れも強くなる。仕事として立ちたいのに、恋をした途端、すべてがそちらへ吸い寄せられる気がする。

 その日の昼、晏寿が包装見本を持って資料室へ来た。
 「見て。二案」
 響は真剣に色味と文字配置を見比べた。トリフェーンを思わせる黄の濃さ、白鐘の校舎の白さ、檸檬の爽やかさ。細部へ集中している間だけ、余計なことを考えずに済む。
 「こっち」
 響が指したのは、少しだけ彩度を落とした案だった。
 「派手なほうが目立つけど、味の感じはこっち」
 「やっぱりそうだよね」
 晏寿がうなずき、ふと響の顔を見た。
 「寝てない?」
 「寝てます」
 「嘘。眉間」
 「最近、皆そこ見ますね」
 「わかりやすいもん。何かあった?」
 響は一瞬迷った。だが晏寿の前では、仕事の話を少しだけ本音へ変えやすい。
 「……自分の気持ちが、ちょっと邪魔です」
 晏寿は包装紙を置き、真面目な顔になった。
 「誰に対して」
 響は答えずに視線をそらした。十分すぎる沈黙だった。
 「ああ」
 晏寿はそれ以上名前を出さなかった。
 「そうか」
 「笑わないんですか」
 「笑うとこ?」
 「もっと、わかりやすく」
 「だって、今さらだし」
 「今さら?」
 「あなたたち、もう十分そういう空気」
 響は顔をしかめる。
 「それが嫌なんです」
 「空気が?」
 「空気だけ先に歩くことが」
 晏寿は少し考え、それから包装紙の端を指でなぞった。
 「好きになったのが嫌なんじゃないんだ」
 響は言葉に詰まった。晏寿の観察はたいてい静かで正確だ。
 「……」
 「好きになったせいで、仕事が軽く見られるのが嫌」
 小さくうなずくしかなかった。
 「で、本人のことは」
 「……嫌いじゃないです」
 「それ、かなり好きな時の言い方」
 「うるさいです」
 晏寿はやっと笑った。
 「でも大丈夫。好きだからって、仕事が消えるわけじゃない」
 「世間はそう見ません」
 「世間は勝手」
 「それが問題なんです」
 「じゃあ、勝手に見られても消えないくらい、自分の名前を残すしかないね」
 その言葉は、恋日記の続きを別の口で聞いたようだった。

 午後、温室へ資材を取りに行くと、レモンが止まり木の上で首をかしげていた。真叶が先に来ていて、ケージの掃除をしている。スーツ姿でやることではないのに、妙に板についている。
 「何してるんですか」
 「見ればわかる」
 「代表の仕事ではないですよね」
 「代表の仕事に鳥のトイレ掃除が入ってないって、誰が決めた」
 「普通は決まってます」
 「でもレモンが嫌がる」
 「……」
 「何、その顔」
 「気持ち悪いです」
 「褒められた」
 「違います」
 レモンがすかさず鳴く。
 「すき! まかな!」
 響は思い切り顔をしかめたのに、真叶は嬉しそうに笑う。
 「ほら、人気」
 「鳥にだけ」
 「君にもそのうち」
 「その話はやめてください」
 真叶は一瞬だけ真顔になった。
 「ごめん」
 「……」
 「困らせたくない」
 その一言が、逆に響を困らせる。困らせたくないなら、どうしてそんな声を出すのか。やさしく退くところまで含めて、こちらの心を揺らすのはずるい。

 レモンの水入れを替えながら、響はふいに言った。
 「私、最近あなたの声を探してます」
 言ってから自分で固まる。どうしてこんなことを口走ったのか。
 真叶も動きを止めた。
 「……続けていい?」
 「だめです」
 「今のは反則」
 「知りません」
 「俺の心拍数」
 「測らないでください」
 「無理。勝手に上がる」
 またそういうことを言う。けれど今度は、響は完全には逃げなかった。逃げられなかった。

 「でも」
 響は視線をレモンへ向けたまま続ける。
 「探してる自分が嫌なわけじゃないんです」
 真叶は黙って聞いている。
 「嫌なのは、それで仕事が曇ること」
 「曇らせない」
 即答だった。
 「そう言える立場の人じゃないから、難しいんです」
 「……うん」
 「あなたが近くにいるだけで、周りは意味をつける」
 「知ってる」
 「私も、意味をつける」
 真叶の呼吸が止まった気配がした。
 「それ、かなり」
 「最後まで言わせないでください」
 「すみません」

 温室のガラス越しに、秋の日差しが差し込む。葉の影が床へ揺れ、レモンは事情も知らず羽を整える。静かだった。静かすぎて、自分たちの声だけが空気の中へ残る。

 その日の夜、響は宿舎でノートを開いたまま、なかなか頁を進められなかった。真叶の声を探している。そう口にした自分のほうが信じられない。もう誤魔化せないところまで来ているのだと思い知らされる。恋をしたから近づきたい。恋をしたから、これ以上近づくのが怖い。その矛盾が、じわじわ胸を締めつける。

 窓の外で、誰かが宿舎前の砂利を踏む音がした。反射的に顔を上げてしまってから、響は自分で苦笑する。これだ。こういうところだ。自分でも笑ってしまうくらい、わかりやすい。

 やがて音は通り過ぎた。真叶ではない。少しほっとして、少しだけがっかりする。その二つが同時にあることが、いよいよ苦しかった。

 深夜近く、晏寿からメッセージが届いた。
 《好きになったことより、そのあとどう立つかだよ》
 簡単な文なのに、妙に効いた。どう立つか。恋日記の少女も、久留巳も、晏寿も、言い方は違っても同じところを指している。誰かに救われることと、自分の足で立つことは、たぶん両立しなければ意味がない。

 響はスマートフォンを伏せ、暗い天井を見上げた。
 こころ変わりの正体は、単なる恋心だけではないのだと思う。自分が、自分の仕事を、これまでより大きな場所で名乗りたいと思い始めたこと。その願いを真叶が刺激し、引き出し、時に危うくもしていること。恋と仕事が同じ方向へ走り始めたからこそ、怖いのだ。

 翌朝、鏡の前で結んだ髪はいつも通りだった。けれど中身は、前と同じ人間ではもうなかった。
【続】

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