私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第17話 私の足で離れる
【本文】
総合リハーサルの日は、朝から嫌なほど天気がよかった。秋の空は高く、山の上の施設まで届く光も澄んでいる。こういう日に限って事故は起きる。響は昔から、理由のない胸騒ぎを信じるほうではなかったが、その朝だけは何度も工程表を見返した。プールの水幕演出、展示室からガラ会場へのモデル導線、音楽と照明の切り替え。複数の部署がまたがる日ほど、どこかで小さなずれが生まれる。
午前中は順調だった。晏寿の焼き菓子の提供位置も、展示解説のタイミングも、来賓導線もおおむね問題なし。響は衣装チームとともに最終調整を進め、主演モデルのドレスの裾の長さを二度確認した。プールサイドを歩く際の足さばきも練習してもらい、真叶と克洋には「ここで一拍置く」「ここは視線を上げる」など共有済み。準備はできていた、はずだった。
事故は夕方の水幕演出リハーサルで起きた。
プール棟の照明が落ち、音楽の前奏が流れる。モデルが舞台袖から歩き出し、水面へ沿って進む。二歩、三歩。ここまでは良かった。問題のライン手前で一拍置く——はずのところで、床へ想定より強い光が走った。照明側が別案の演出テストを残したまま切り替えてしまっていたらしい。同時に、水幕の立ち上がりも半拍早い。モデルの視線が光へ引かれ、足のタイミングがずれた。
「止めて!」
響が叫んだ時には、もう遅かった。ドレスの裾が水際のキャスターへ引っかかり、布が大きく乱れる。モデルの身体が傾く。転倒まではいかなかったが、ヒールが滑り、膝が危うく床へ触れかけた。真叶が一歩で飛び込み、腕を支える。水幕は中途半端に上がり、青い光の中でドレスの裾だけが無残に濡れた。
音楽が止まる。水の音だけが遅れて残る。
響の耳には、自分の心臓の音しか聞こえなかった。照明設定の変更。床の導線。裾の処理。複数の小さな判断が、ひとつの転倒寸前へ結びついた。誰か一人の失敗ではない。わかっている。それでも、自分が最終確認に関わった以上、責任から逃げることはできない。
モデルはすぐ無事を確認され、医療スタッフが駆け寄る。軽い捻りだけで済んだらしい。ドレスの破損は大きいが、裂け方自体は修正可能な範囲。現場としては「大事故ではない」と整理できる。だが響の中では、もっと別のものが大きく崩れていた。
「全責任は俺」
真叶が即座に言った。
周囲が一斉に彼を見る。
「照明切り替えの最終承認も、演出統合の判断も俺だ。報告会議は俺が出る。衣装側は先に下がって」
「待ってください」
響はほとんど反射で言った。
「私も」
「下がって」
真叶は振り向かない。
「でも」
「響」
その声は低く短く、反論を許さない種類のものだった。
「今は下がって」
周囲のスタッフが、響を気遣うように距離を取る。誰かが「衣装チームはこちら」と誘導する。気づけば報告会議の輪から外されていた。ほんの数分前まで、裾の流れや水幕の角度を一緒に確認していたのに、いまは当事者でありながら「保護される側」の場所へ押し出されている。
守られたはずだった。
責められないように。
矢面に立たなくて済むように。
それが、どうしてこんなに苦しいのだろう。
補修室へ戻っても、手が落ち着かなかった。濡れた裾を乾かし、裂けた箇所を確認し、応急対応の方針を立てる。それはできる。だが頭の中には、さっきの会議室の外へはじかれた感覚が何度も蘇る。自分の判断も名前も、あの瞬間だけ全部消されたようだった。
「響さん」
晏寿がそっと入ってきた。顔に笑みはない。
「モデルさん、骨は大丈夫。少し捻っただけ」
「……よかった」
声が乾く。
「真叶さん、全部抱えた」
「知ってます」
「怒ってる?」
響は少しだけ笑ってしまった。
「わかりやすいですか」
「かなり」
「怒ってます」
晏寿は頷いた。
「それでいい」
「よくないです」
「よくないけど、怒ってる理由は大事」
響は針箱の蓋を閉じた。
「私、責任から外されたんです」
「庇われた」
「そうです。でも、それが嫌」
「うん」
「私が関わった判断なのに。失敗したなら、その失敗ごと自分の名前で立たないと意味がないのに」
晏寿はしばらく黙り、それから椅子を引いて座った。
「好きだから守りたい、って気持ちと、仕事の責任を取り上げることって、近いようで違うんだよね」
「……」
「でも、やる人は混ぜる」
その一言で、響の中の何かがはっきりした。
夜、報告会議が終わったあとで真叶が補修室へ来た。顔には疲れが出ているのに、第一声は響の様子を問うものだった。
「大丈夫?」
その瞬間、響の中で糸が切れた。
「大丈夫じゃないです」
真叶が足を止める。
「……そうだよね」
「違います。事故のことだけじゃない」
声が自分でも驚くほどはっきり出た。
「私は守られたいんじゃない」
真叶の表情が固まる。
「選びたいんです」
「響」
「失敗したなら、失敗したって自分で立ちたい。責任を全部あなたに持っていかれたら、私は何もしてない人になる」
「そうじゃない」
「そう見えるようにしたのは、あなたです」
空気が凍る。真叶は反論しなかった。しなかったからこそ、響は止まれなかった。
「噂が嫌だった。買われた女とか、愛人起用とか、勝手に言われるのが嫌だった。でもまだ、仕事で返せると思ってたんです」
「……」
「なのに、肝心な時に報告会議から外されて、責任だけ綺麗にあなたが持っていくなら、結局私は『守られるだけの人』じゃないですか」
真叶の喉が動く。
「傷つけたくなかった」
「でも、削った」
その言葉は、自分でも鋭すぎたと思った。けれど撤回できない。削られたのは、たぶんプライドだけではない。自分がここで仕事をしてきた輪郭そのものだった。
しばらく長い沈黙が落ちた。外では誰かが資材を運ぶ音がしている。現場はまだ止まっていないのに、補修室だけ時間が止まったみたいだった。
「ごめん」
真叶がようやく言った。
「でも、あの場で君を立たせたら、余計に」
「余計に、何ですか」
「叩かれる」
「それを決めるのは私です」
「君が傷つくの、見たくない」
「だからって、私の足を折らないでください」
真叶は息をのんだ。響も、自分がそこまで言うつもりだったわけではない。だが止まらなかった。
「私、一回離れます」
言った瞬間、補修室の空気がまた変わる。
「何を」
「ここを」
「だめ」
真叶が即座に返す。
「それは」
「今、それを言うのがもう違うんです」
響は静かに首を振った。
「あなたが止めると、私はまた自分で決められなくなる」
「響」
「好きだからこそ、守られるだけの相手にはなりたくない」
初めて、真正面からその言葉を置いた。真叶の瞳が大きく揺れる。聞きたいと言っていたくせに、実際に聞かされるとこんな顔をするのか、と妙に冷静なところで思ってしまう。
「私は、自分の名前で戻れる形じゃないとだめです」
「……」
「今のままじゃ戻れない」
真叶は何か言おうとして、結局言えなかった。きっと止めたいのだろう。追いかけたいのだろう。だがそれをしたら、さっきの言葉をもう一度なぞるだけになる。彼自身もそれがわかっているから、動けない。
その夜のうちに、響は必要最低限の荷物をまとめた。宿舎の机、ライト、窓辺のカップ、置きっぱなしにしていたメモ帳。何日も生活していた場所なのに、荷物は思ったより少ない。少ないことが少しだけ寂しかった。
出る前に温室へ寄ると、レモンが止まり木の上からこちらを見た。
「ひびき」
珍しく、はっきり名前を呼んだ。
響は喉の奥が熱くなるのをこらえた。
「ごめんね」
何に対する謝罪なのか、自分でもわからない。鳥は首をかしげ、もう一度だけ「ひびき」と言った。
宿舎の玄関を出ると、山の夜気は思った以上に冷えていた。坂の上にはまだ施設の灯りがある。作りかけの未来みたいな光だ。そこへ背を向けるのは苦しい。苦しいのに、今はそうするしかない。好きだから残るのではなく、自分の足で選び直すために離れる。その順番を間違えたくなかった。
車へ荷物を積み込み、エンジンをかけたあとで、響は初めて小さく震えた。悲しいのか悔しいのか、まだ名前がつかない。ただ、自分の足で離れると決めた以上、ここから先はその決断まで自分で抱えなくてはならない。
バックミラーの向こうで、TRIPHANE HILLの灯りが少しずつ遠ざかっていった。
【続】
【本文】
総合リハーサルの日は、朝から嫌なほど天気がよかった。秋の空は高く、山の上の施設まで届く光も澄んでいる。こういう日に限って事故は起きる。響は昔から、理由のない胸騒ぎを信じるほうではなかったが、その朝だけは何度も工程表を見返した。プールの水幕演出、展示室からガラ会場へのモデル導線、音楽と照明の切り替え。複数の部署がまたがる日ほど、どこかで小さなずれが生まれる。
午前中は順調だった。晏寿の焼き菓子の提供位置も、展示解説のタイミングも、来賓導線もおおむね問題なし。響は衣装チームとともに最終調整を進め、主演モデルのドレスの裾の長さを二度確認した。プールサイドを歩く際の足さばきも練習してもらい、真叶と克洋には「ここで一拍置く」「ここは視線を上げる」など共有済み。準備はできていた、はずだった。
事故は夕方の水幕演出リハーサルで起きた。
プール棟の照明が落ち、音楽の前奏が流れる。モデルが舞台袖から歩き出し、水面へ沿って進む。二歩、三歩。ここまでは良かった。問題のライン手前で一拍置く——はずのところで、床へ想定より強い光が走った。照明側が別案の演出テストを残したまま切り替えてしまっていたらしい。同時に、水幕の立ち上がりも半拍早い。モデルの視線が光へ引かれ、足のタイミングがずれた。
「止めて!」
響が叫んだ時には、もう遅かった。ドレスの裾が水際のキャスターへ引っかかり、布が大きく乱れる。モデルの身体が傾く。転倒まではいかなかったが、ヒールが滑り、膝が危うく床へ触れかけた。真叶が一歩で飛び込み、腕を支える。水幕は中途半端に上がり、青い光の中でドレスの裾だけが無残に濡れた。
音楽が止まる。水の音だけが遅れて残る。
響の耳には、自分の心臓の音しか聞こえなかった。照明設定の変更。床の導線。裾の処理。複数の小さな判断が、ひとつの転倒寸前へ結びついた。誰か一人の失敗ではない。わかっている。それでも、自分が最終確認に関わった以上、責任から逃げることはできない。
モデルはすぐ無事を確認され、医療スタッフが駆け寄る。軽い捻りだけで済んだらしい。ドレスの破損は大きいが、裂け方自体は修正可能な範囲。現場としては「大事故ではない」と整理できる。だが響の中では、もっと別のものが大きく崩れていた。
「全責任は俺」
真叶が即座に言った。
周囲が一斉に彼を見る。
「照明切り替えの最終承認も、演出統合の判断も俺だ。報告会議は俺が出る。衣装側は先に下がって」
「待ってください」
響はほとんど反射で言った。
「私も」
「下がって」
真叶は振り向かない。
「でも」
「響」
その声は低く短く、反論を許さない種類のものだった。
「今は下がって」
周囲のスタッフが、響を気遣うように距離を取る。誰かが「衣装チームはこちら」と誘導する。気づけば報告会議の輪から外されていた。ほんの数分前まで、裾の流れや水幕の角度を一緒に確認していたのに、いまは当事者でありながら「保護される側」の場所へ押し出されている。
守られたはずだった。
責められないように。
矢面に立たなくて済むように。
それが、どうしてこんなに苦しいのだろう。
補修室へ戻っても、手が落ち着かなかった。濡れた裾を乾かし、裂けた箇所を確認し、応急対応の方針を立てる。それはできる。だが頭の中には、さっきの会議室の外へはじかれた感覚が何度も蘇る。自分の判断も名前も、あの瞬間だけ全部消されたようだった。
「響さん」
晏寿がそっと入ってきた。顔に笑みはない。
「モデルさん、骨は大丈夫。少し捻っただけ」
「……よかった」
声が乾く。
「真叶さん、全部抱えた」
「知ってます」
「怒ってる?」
響は少しだけ笑ってしまった。
「わかりやすいですか」
「かなり」
「怒ってます」
晏寿は頷いた。
「それでいい」
「よくないです」
「よくないけど、怒ってる理由は大事」
響は針箱の蓋を閉じた。
「私、責任から外されたんです」
「庇われた」
「そうです。でも、それが嫌」
「うん」
「私が関わった判断なのに。失敗したなら、その失敗ごと自分の名前で立たないと意味がないのに」
晏寿はしばらく黙り、それから椅子を引いて座った。
「好きだから守りたい、って気持ちと、仕事の責任を取り上げることって、近いようで違うんだよね」
「……」
「でも、やる人は混ぜる」
その一言で、響の中の何かがはっきりした。
夜、報告会議が終わったあとで真叶が補修室へ来た。顔には疲れが出ているのに、第一声は響の様子を問うものだった。
「大丈夫?」
その瞬間、響の中で糸が切れた。
「大丈夫じゃないです」
真叶が足を止める。
「……そうだよね」
「違います。事故のことだけじゃない」
声が自分でも驚くほどはっきり出た。
「私は守られたいんじゃない」
真叶の表情が固まる。
「選びたいんです」
「響」
「失敗したなら、失敗したって自分で立ちたい。責任を全部あなたに持っていかれたら、私は何もしてない人になる」
「そうじゃない」
「そう見えるようにしたのは、あなたです」
空気が凍る。真叶は反論しなかった。しなかったからこそ、響は止まれなかった。
「噂が嫌だった。買われた女とか、愛人起用とか、勝手に言われるのが嫌だった。でもまだ、仕事で返せると思ってたんです」
「……」
「なのに、肝心な時に報告会議から外されて、責任だけ綺麗にあなたが持っていくなら、結局私は『守られるだけの人』じゃないですか」
真叶の喉が動く。
「傷つけたくなかった」
「でも、削った」
その言葉は、自分でも鋭すぎたと思った。けれど撤回できない。削られたのは、たぶんプライドだけではない。自分がここで仕事をしてきた輪郭そのものだった。
しばらく長い沈黙が落ちた。外では誰かが資材を運ぶ音がしている。現場はまだ止まっていないのに、補修室だけ時間が止まったみたいだった。
「ごめん」
真叶がようやく言った。
「でも、あの場で君を立たせたら、余計に」
「余計に、何ですか」
「叩かれる」
「それを決めるのは私です」
「君が傷つくの、見たくない」
「だからって、私の足を折らないでください」
真叶は息をのんだ。響も、自分がそこまで言うつもりだったわけではない。だが止まらなかった。
「私、一回離れます」
言った瞬間、補修室の空気がまた変わる。
「何を」
「ここを」
「だめ」
真叶が即座に返す。
「それは」
「今、それを言うのがもう違うんです」
響は静かに首を振った。
「あなたが止めると、私はまた自分で決められなくなる」
「響」
「好きだからこそ、守られるだけの相手にはなりたくない」
初めて、真正面からその言葉を置いた。真叶の瞳が大きく揺れる。聞きたいと言っていたくせに、実際に聞かされるとこんな顔をするのか、と妙に冷静なところで思ってしまう。
「私は、自分の名前で戻れる形じゃないとだめです」
「……」
「今のままじゃ戻れない」
真叶は何か言おうとして、結局言えなかった。きっと止めたいのだろう。追いかけたいのだろう。だがそれをしたら、さっきの言葉をもう一度なぞるだけになる。彼自身もそれがわかっているから、動けない。
その夜のうちに、響は必要最低限の荷物をまとめた。宿舎の机、ライト、窓辺のカップ、置きっぱなしにしていたメモ帳。何日も生活していた場所なのに、荷物は思ったより少ない。少ないことが少しだけ寂しかった。
出る前に温室へ寄ると、レモンが止まり木の上からこちらを見た。
「ひびき」
珍しく、はっきり名前を呼んだ。
響は喉の奥が熱くなるのをこらえた。
「ごめんね」
何に対する謝罪なのか、自分でもわからない。鳥は首をかしげ、もう一度だけ「ひびき」と言った。
宿舎の玄関を出ると、山の夜気は思った以上に冷えていた。坂の上にはまだ施設の灯りがある。作りかけの未来みたいな光だ。そこへ背を向けるのは苦しい。苦しいのに、今はそうするしかない。好きだから残るのではなく、自分の足で選び直すために離れる。その順番を間違えたくなかった。
車へ荷物を積み込み、エンジンをかけたあとで、響は初めて小さく震えた。悲しいのか悔しいのか、まだ名前がつかない。ただ、自分の足で離れると決めた以上、ここから先はその決断まで自分で抱えなくてはならない。
バックミラーの向こうで、TRIPHANE HILLの灯りが少しずつ遠ざかっていった。
【続】