私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第19話 戻るなら、私の名前で
【本文】
 玻璃堂へ戻った最初の朝、響はいつもの作業台の前に立ちながら、指先が少しだけ震えるのを感じていた。懐かしい匂いだ。布、糸、木、古いアイロンの熱。けれど、戻ってきた場所が安堵をくれる一方で、胸の奥には、まだ山の空気が残っていた。TRIPHANE HILLの灯り。温室の湿気。プールサイドの青。置いてきたはずのものが、まだ体のどこかにまとわりついている。

 佑里江は何も急かさなかった。朝の掃除を一緒に終えると、湯呑みへお茶を注ぎ、響の前に置くだけだ。工房の窓から入る秋の日差しはやわらかい。落ち着けと言われるより、そのほうが落ち着いた。

 「眠れた?」
 しばらくして佑里江が訊く。
 「少し」
 「少し、ね」
 「たくさんではないです」
 「でしょうね」
 彼女は机の端へ腰かけた。
 「後悔してる?」
 響は答える前に、針山の針の並びを見た。
 「離れたことは」
 「うん」
 「……してません」
 「ならいい」
 「でも苦しいです」
 「それも当然」
 佑里江は静かに湯呑みに口をつける。
 「苦しくない選び方なんて、だいたい後で歪む」
 響は苦笑した。
 「励ましてるんですか」
 「現実を言ってるだけ」
 「それ、優しさ薄いです」
 「私の優しさは薄味なの」

 昼前、久留巳から連絡があった。恋日記の最後の頁を預かっているから、時間があれば会いたいと言う。響は迷った末、午後に旧学園近くの喫茶室で会うことにした。施設へ戻る気はまだ定まっていない。それでも、恋日記だけは最後まで読みたかった。途中で途切れた言葉の続きが、今の自分に必要な気がしたからだ。

 喫茶室は、山を下りた古い洋館を改装した小さな店だった。窓辺に座る久留巳は、いつも通り紅茶を前にしている。まるで何も急いでいない顔だ。けれどテーブルの上には、透明ケースへ入れられた一枚の紙が静かに置かれていた。
 「これ」
 久留巳はケースを押しやる。
 「最後の頁」
 響は手袋を借り、そっと紙を取り出した。前の頁よりも筆圧が強く、ところどころ滲んでいる。最後に書かれたのか、あとで書き足されたのかはわからない。ただ、言葉だけは迷いなくそこにあった。

 ――誰かに救われたあと、その救いを自分の決断へ変えなければ、本当には前へ進めない。
 ――助けてもらったことを恥じる必要はない。
 ――けれど、助けてもらったままで立ち止まるなら、それはいつか自分を小さくする。
 ――だから私は、あの人を忘れるのではなく、あの人に見つけてもらった私を、自分で引き受けて生きる。

 読み終わるころには、響は紙の上の字が少し揺れて見えた。泣いているわけではない。だが、胸のいちばん奥にしまっていたものを、知らない誰かに先に言い当てられた気がした。助けてもらったことを恥じる必要はない。けれど、そのままで立ち止まれば自分を小さくする。まさに自分がいま立っている場所だった。

 「ずるいですよ、ほんと」
 響が言うと、久留巳は苦笑した。
 「ね。最後だけ妙に刺す」
 「私、助けてもらいました」
 「うん」
 「工房も、仕事も、場所も」
 「うん」
 「それなのに、そのまま受け取るのが嫌だった」
 久留巳は頷きながらカップを置いた。
 「嫌だった、で終わらせなくていいんじゃない」
 「……」
 「どう受け取るかを決め直せばいい」
 響は紙を見つめたまま、小さく息を吐く。
 「決め直す」
 「たとえば、戻るなら戻る条件を自分で決めるとか」
 その言葉で、頭の中の霧が少しだけ晴れた。戻るか、戻らないか。その二択で考えていた。だが本当は、そのあいだに「どう戻るか」がある。守られる側として曖昧に引き戻されるのではなく、自分の名前で立てる条件を通した上で戻る。そうでなければ意味がない。

 喫茶室を出たあと、響はしばらく一人で歩いた。山の空気はひんやりしている。木の葉が風で裏返り、遠くで電車の音がした。ここ数日、考えても考えても形にならなかったものが、ようやく言葉へ変わる。
 展示総監修。
 その肩書きが必要だと思った。補助ではなく、曖昧でもなく、自分の判断が展示全体の責任と結びつく名前。解説文にも、ガラ当日の紹介にも、自分の名を入れる。修復だけでなく展示意図まで背負う。その代わり、失敗した時も名前で立つ。守られたままではなく、対等な責任者として戻る。怖い。けれど、そこまでしなければ、戻ってもまた同じところへ戻るだけだ。

 その夜、響は工房で遅くまで書類を作った。必要条件を箇条書きにする。肩書きの明記。解説文と展示クレジットへの記載。ガラ当日の来賓向け紹介での名指し。衣装と展示導線に関する最終判断の記録経路。工房技術の継続雇用に関する中長期計画への組み込み。さらに、自分だけでなく佑里江たち職人の立場も曖昧にされないよう、アーカイブ修復部門の設置案まで書き足した。

 「ずいぶん書いたわね」
 夜遅く、佑里江が背後から紙を覗き込んだ。
 「戻るつもり?」
 「条件が通るなら」
 「強気」
 「強くないと戻れません」
 佑里江は口元をわずかに上げた。
 「やっといい顔になった」
 「怒ってる顔じゃなくて?」
 「怒ってるだけの顔じゃなくて」

 翌朝、響はその書類を持って、再びTRIPHANE HILLへ向かった。車で坂を上る道は数日ぶりのはずなのに、妙に長く感じる。門を抜け、白い校舎とガラス棟が見えた時、胸が詰まった。帰ってきた、という気持ちではない。戦場へ戻るみたいな緊張だった。

 克洋が最初に気づいた。受付棟の前で工程表を持ったまま目を見開く。
 「響さん」
 「おはようございます」
 「……おはようございます」
 彼は一瞬だけ表情を緩めたが、すぐ仕事の顔へ戻った。
 「真叶さんに連絡します」
 「お願いします。ただ、先に会議室を取ってください」
 「会議室」
 「話があります」
 克洋はそれで全部察したらしい。余計なことは言わず、最短で部屋を手配してくれた。

 会議室で待つ間、響は資料を机へ並べた。恋日記の最後の頁の複写。条件一覧。アーカイブ修復部門案。指先はまだ少し冷たい。だが前回ここを出た夜の震えとは違う。怖さの中にも、今ははっきりした輪郭があった。

 扉が開き、真叶が入ってきた。息が少し上がっている。駆けてきたのだろう。だが響はそのことに触れず、席を立たなかった。
 「……来た」
 彼の声は、意外なほど静かだった。
 「はい」
 「追ってない」
 「知ってます」
 「追いたかった」
 「それも知ってます」
 数秒の沈黙。真叶の目が、机の上の書類へ落ちる。
 「話って」
 響は紙を彼の前へ押し出した。
 「戻る条件です」
 真叶はすぐには触れなかった。その紙束自体が、響の覚悟の形だとわかっているように。
 「まず肩書き」
 響は自分で口を開く。
 「展示総監修・響。補助では戻りません」
 真叶の喉が動く。
 「次に、解説文と展示クレジット、ガラ当日の紹介に私の名前を入れること。衣装と展示導線の最終判断は、私の意見が記録に残ること」
 彼は一言も挟まない。
 「それから、玻璃堂の技術を個人頼みで終わらせないために、アーカイブ修復部門を正式に置くこと。私だけじゃなく、工房ごと残す」
 真叶はようやく書類を取り、目を通し始めた。頁をめくる指が少しだけ震えているように見えたのは、たぶん気のせいではない。

 「最後に」
 響は一呼吸置いた。
 「失敗した時も、私は自分の名前で立ちます。もう報告会議から外さないでください」
 その言葉に、真叶は書類から顔を上げた。目の奥に、痛みと安堵が混じっている。
 「……遅い」
 ぽつりとそう言って、彼は笑った。笑ったのに、今にも泣きそうな顔だった。
 「遅かったのはそっちです」
 「たしかに」
 「条件、飲めますか」
 「飲む」
 即答だった。
 「全部」
 「読みました?」
 「読んだ。途中でもう決めた」
 「軽く言わないでください」
 「軽くない」
 真叶は椅子へ深く腰かけ、書類をもう一度見下ろす。
 「ありがとう」
 「何がですか」
 「戻るって、条件つきでも言ってくれたこと」
 響は視線をそらした。嬉しい顔を見せたくなかった。
 「戻るのは、あなたのためだけじゃありません」
 「知ってる」
 「工房のためでも、白鐘のためでも、私のためでもあります」
 「うん」
 「だから」
 「だから?」
 「……勝手に泣きそうな顔しないでください」
 真叶は小さく笑い、それでも目元は少し赤かった。

 その日のうちに、克洋と史隆も交えた臨時会議が行われた。条件は正式な文書へ落とし込まれ、宏哲は広報表記の修正を即日開始した。史隆は資料に目を通し、響を見て短く言う。
 「妥当です」
 それが最大級の賛成だと、今の響にはわかる。
 「戻ってくださるなら助かります」
 克洋は真面目な顔で言い、それからほんの少しだけ笑った。
 「工程表も助かる」
 「そこですか」
 「そこです」
 晏寿は厨房から飛んできて、抱きつきそうになるのを最後の一歩でこらえた。
 「よかった!」
 「まだ仕事始まってません」
 「始まる前からよかった」
 その反応の熱さに、響は少しだけ笑う。

 夕方、展示室へ戻ると、トリフェーンのケースは相変わらず静かに光っていた。裂け跡を残したドレスも、前と同じ場所にある。違うのは、そこへ戻ってきた自分の立ち位置だけだ。真叶が少し離れた場所から言う。
 「響」
 「何ですか」
 「おかえり、って言うのは違う?」
 響は考え、首を横に振る。
 「まだ」
 「まだ、か」
 「でも」
 「でも?」
 「戻るなら、私の名前で」
 真叶はまっすぐ頷いた。
 「わかった。今度こそ消さない」

 その約束の重みを、今度は軽く受け取らなかった。響も、真叶も。二人とも、前より少しだけ痛みを知ったからだ。
 だからこそ、同じ場所へ戻ることが、ただのやり直しではなく「選び直し」になる。
 恋日記の最後の頁は、机の中ではなく、もう響の中へしまわれていた。
【続】

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