私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第18話 買ったのは未来だ
【本文】
 響が去った翌朝、TRIPHANE HILLの空気は目に見えて重かった。誰も何も聞いてこない。だが、聞かなくてもわかる顔をしている。晏寿は厨房で必要以上に音を立てず、克洋は工程表の更新に没頭し、宏哲は朝から会議室へこもって電話をかけ続けていた。現場の中心にぽっかり穴が開くと、人はそこを見ないふりで埋めようとする。

 真叶はその穴の形を正面から見てしまっていた。止められなかったこと。止めなかったこと。自分の守り方が、響の立つ場所を削ったこと。全部わかっている。わかっているのに、すぐ追いかけることだけはしなかった。追いかければ連れ戻せるかもしれない。だがそれは、また自分の力で抱え込むだけだ。昨夜響が言った「あなたが止めると、私はまた自分で決められなくなる」という言葉が、何度も胸の内側で鳴っていた。

 午前中、玻璃堂から佑里江が施設へ来た。補修資料の受け渡しと、今後の工程確認のためだ。真叶は応接室で彼女を迎えたが、挨拶を終える前に佑里江は真正面から言った。
 「追いかけなかったの」
 「追いかけない」
 「今は、でしょ」
 「たぶん」
 佑里江はため息をつき、椅子へ腰を下ろした。
 「一つだけ聞く。あんた、あの子をここへ連れてきたのは、本当に工房のためだけ?」
 真叶は少し考え、正直に答えた。
 「最初は工房の技術のため」
 「最初は、ね」
 「でも実際に会ってからは、それだけじゃなくなった」
 「でしょうね」
 「だから余計に、間違えた」
 佑里江は真叶をしばらく見つめた。責めるというより、測る目だった。
 「響は、助けられる力のある子よ」
 「知ってる」
 「でも助けられるのが上手いからって、助けられるだけの位置へ置くと壊れる」
 その言葉はまっすぐ胸へ刺さる。
 「昨夜、壊した」
 「まだ壊れてない」
 佑里江はきっぱり言った。
 「離れたのは壊れたからじゃない。自分の足で立ち直すため」
 その違いが、真叶には痛いほどわかった。

 昼の会議では、宏哲が訂正記事案と新しい広報方針を持ってきた。肩書き明記、修復チームの紹介記事、展示監修の根拠説明。以前なら響が嫌がりそうだと思った「ストーリー化」も、今度はあくまで仕事の輪郭を前へ出す形に修正されている。
 「遅いけど」
 宏哲が言う。
 「やるしかない」
 真叶は資料を読み、短く頷いた。
 「遅い」
 「わかってる」
 「もっと早くやるべきだった」
 「それもわかってる」
 宏哲は苛立ちを隠さず名刺入れを閉じた。
 「俺、面白く見せることばっかり考えてた」
 「うん」
 「肩書きが曖昧でも、実際の中身があれば後で伝わると思ってた」
 「それが甘かった」
 「甘かった」
 宏哲は珍しく自嘲気味に笑う。
 「彼女の仕事を、俺が削った」
 会議室には誰も慰める言葉を置かなかった。必要ないと全員がわかっていたからだ。

 午後、史隆も再び来た。進行確認のためという名目だが、真叶には別の話があるのがすぐわかった。屋上テラスへ呼び出され、二人きりになる。山から吹く風は冷たい。
 「追わないのか」
 史隆が訊く。
 「追えば戻るかもしれない」
 「でも追わない」
 「追ったら、また俺の判断で囲う」
 史隆は少しだけ目を細めた。
 「やっと学んだな」
 「遅い」
 「遅くても学ばないよりましだ」
 沈黙のあと、史隆は手すりの向こうを見ながら続けた。
 「一つ誤解するな。私は、響さんの起用自体を私情だと言っているわけじゃない」
 真叶は顔を上げる。
 「わかってる」
 「ならいい。あの人は事業の芯だ。昨日の監査でもそれは確認した」
 「……」
 「問題は、お前がその芯を自分ひとりで守ろうとしたことだ」
 風が強く吹き、テラス脇の旗が鳴る。
 「彼女が必要なのは事業であり、工房であり、未来の修復体制だ。個人感情は否定しない。だが混ぜ方を間違えるな」
 真叶はゆっくり息を吐いた。
 「混ぜた」
 「そうだ」
 「でも、感情を切ればいいとも思わない」
 史隆は意外そうに一度だけ眉を動かし、それから頷いた。
 「そこまでわかっているなら、次は手順だ」
 「手順」
 「彼女が自分の名前で戻れる形を作れ」
 その助言は、真叶が昨夜から考えていたことと同じ方向を向いていた。

 夕方、久留巳が恋日記の複写を届けに来た。響がいなくなった資料室は妙に広く見える。久留巳は机へ封筒を置き、真叶を見た。
 「落ち込んでるね」
 「見ればわかる?」
 「かなり」
 「今日は皆それ言う」
 「だって、いつもの半分くらいしか口が回ってない」
 真叶は苦笑した。
 「彼女、最後の頁まだ読んでないよね」
 久留巳が言う。
 「うん」
 「なら、あれはまだ取っておく」
 「どうして」
 「自分で決める時に必要な言葉だから」
 真叶はしばらく封筒を見つめた。
 「俺が届けないほうがいい?」
 「絶対だめ」
 久留巳は即答した。
 「今あんたが届けたら、また『与えられた答え』になる」
 「……」
 「響ちゃんが自分で取りに来るか、私が託すか。その形じゃないと意味がない」
 真叶はゆっくり頷いた。
 「わかった」
 「わかって偉い」
 「褒められても嬉しくない」
 「今日はそういう顔じゃないね」

 その夜、真叶は一人で展示室へ立った。トリフェーンのケース、裂け跡を残したドレス、恋日記の抜粋。響の手が入ったものばかりだ。彼女がいなくても空間は成立している。成立してしまうことが、逆に苦しい。中身は彼女の判断に支えられているのに、そこへ本人の姿がない。

 「俺が買ったのは」
 誰に聞かせるでもなく、真叶は小さく呟く。
 「彼女じゃない」
 石は何も答えない。だが自分が初めて工房の資料を見た日、何を守りたかったのかはもうはっきりしていた。玻璃堂の技術。白鐘から続く手仕事。そこに居場所を持つ人たちの未来。響はその未来の中心に立てる目を持っていた。だから必要だった。必要で、そして好きになった。順番は両方本当だ。

 翌日から、真叶は自分の守り方を少しずつ変え始めた。会議で衣装チームの役割を文書化し、補修判断の承認経路を整理し、展示解説のクレジット案へ「監修者名」を明記する欄を追加する。宏哲には、個人の物語ではなくチームの技術を前へ出す広報へ切り替えさせた。史隆には新しい運営体制案を提出し、工房技術の継続雇用と育成計画を組み込んだ。響が戻るかどうかはわからない。それでも、戻る場所が対等でなければ意味がない。

 レモンは相変わらず温室で騒ぎ、時々「ひびき」と鳴いた。真叶が指を入れても、今日は前みたいに素直に寄ってこない。
 「怒ってる?」
 「ひびき」
 「知ってるよ」
 「すき」
 「それも知ってる」
 鳥相手に苦笑しながらも、真叶は指先をそっと引いた。好きだから抱え込むのではなく、好きだから相手が自分の足で戻れる余白を残す。その難しさを、今さら学び直している。

 響のいない数日は、仕事が減らないぶん余計に長かった。だが、その長さの中でしか見えないものもある。自分が焦るほど手を出したくなること。守るつもりで奪ってしまうもの。必要だと口にするだけでは足りないこと。

 買ったのは未来だ。
 その言葉を、自分がちゃんと証明できるまでは、追いかけない。
 真叶はそう決め、夜の展示室の灯りを一つずつ落としていった。
【続】

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