私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第3話 霧の中の教室で拾った羽
【本文】
初出勤の日、響は予定より一時間早く山へ着いた。九月半ばの朝は、街よりずっと気温が低い。車を降りた途端、湿った冷気が足首にまとわりついた。斜面に沿って建つ旧校舎の周囲には霧がたまり、地面すれすれを白いものがゆっくり這っている。誰かが煙を流したみたいな景色だった。
受付棟はまだ開いておらず、克洋から送られてきた簡易地図を見ながら、響は職員用通路へ回った。工事中の足場、仮設の矢印、養生された床。どこもかしこも途中なのに、不思議と「壊れている」感じはしない。直される途中にある、という空気だけが濃かった。
旧校舎の扉を押すと、木の匂いと、少し古い紙の匂いがした。白鐘女子学園が閉校して十五年。なのに廊下の手すりは磨き直され、教室のドアには真鍮のプレートが残っている。使われなくなった場所が、完全に眠っていたわけではない。誰かが忘れきれず、誰かが手を入れ続けてきたのだとわかる。
廊下の突き当たりで、ぴい、と鋭い声がした。
響は足を止める。もう一度、ぴい。小さく、でも確かに苛立っている鳴き声だ。声をたどると、半開きの教室の中から聞こえてくる。扉をそっと開けると、朝の霧が床を薄く覆った教室の窓際で、黄緑色の小さな影が羽をばたつかせていた。
「……インコ?」
セキセイインコだった。椅子の背に止まろうとして滑り、机へ飛び移り、また滑る。どう見ても野生ではない。どこかから逃げてきたか、捨てられたか。嘴の先に白い粉が少しついていて、まだ保護された餌を食べていた個体だとわかる。
響は鞄から薄いストールを出し、ゆっくり近づいた。
「大丈夫。取って食べたりしないから」
当然、通じない。だが声の調子くらいは伝わるらしい。インコは首をかしげ、次の瞬間にはまた羽をばたつかせた。響はタイミングを見てストールをふわりとかぶせ、両手で包み込む。中でぴぴ、と文句を言う気配がした。
そのとき、机の下に何かが落ちているのが見えた。布で包まれた、文庫本ほどの大きさのもの。響は片手でインコを抱えたまま屈み、そっと拾い上げる。色あせた生成りの布をほどくと、中から現れたのは、角の擦れたノートだった。表紙には小さな字で「恋日記」とだけ書かれている。丸みのある古い筆跡。いま使われている紙より少し厚く、黄ばんだ縁に時間が見える。
勝手に開くのはためらわれた。だが、霧の入る空き教室に、どうしてこんなものが置かれていたのかは気になる。響がノートを見つめていると、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「響?」
振り向くと、扉のところに真叶が立っていた。今日はジャケットなしで、シャツの袖を肘までまくっている。朝の霧の中にいるせいか、いつもより少し輪郭がやわらかく見えた。
「早いですね」
「それ、こっちの台詞。初日に迷子かと思った」
「迷う前に拾い物しました」
響が両手を上げると、真叶の視線がストールの中をのぞき込む。
「うわ」
その第一声だけ、妙に素だった。
「鳥」
「見ればわかります」
「いや、ほんとにいたんだ」
「どういう意味ですか」
「このへんで鳴き声がするって聞いてた。でも現場がうるさくて、みんな気のせいだろって」
「気のせいじゃなかったですね」
「……見せて」
真叶は近づく足を途中で止め、響の反応を待った。昨日までの強引さが少し引っ込んでいる。響が黙ってうなずくと、彼は信じられないほど慎重に指先を伸ばした。
「ごめんねー、びっくりしたよねー」
声音が変わりすぎて、響は思わず二度見した。
「誰ですか、それ」
「いまの俺」
「別人格みたいです」
「ちっちゃいの相手だと、たまに出る」
「気持ち悪いです」
「ひど」
ストールの隙間からインコが顔を出す。真叶がほんの少し口をゆるめると、鳥は逃げるどころか、逆にその指先へ頭を寄せた。
「懐くの早」
「なんでですか」
「俺がいい男だから?」
「朝から元気ですね」
「褒められた」
「褒めてません」
やり取りをしながらも、響は教室の中を見回した。古い机、黒板、壁際のロッカー。掃除はされているが、展示用として開けるにはまだ先なのだろう。窓際には霧が入り込み、床板の上で白くたゆたっている。教室の端に朝の空気が居座っているような、不思議な静けさだ。
「ここ、朝だけ霧が入る教室なんだ」
真叶が言った。
「山側の窓を少し直したら、逆に風の通り道ができてさ。完全に塞ぐのも違う気がして、あえて残してる」
「残してる?」
「欠点じゃなくて、この場所の癖として」
響は霧の向こうに並ぶ机を見た。白い膜の中へ沈む木の色が、かえって輪郭をきれいに見せている。
「……嫌いじゃないです」
「よかった」
真叶の視線が、響のもう片方の手に移る。
「それは?」
「机の下にありました。ノートです。表紙に、恋日記って」
「恋日記」
「そのままです」
「ずいぶん直球」
「勝手に読まないほうがいいですよね」
「たぶん。久留巳に確認しよう」
「誰ですか」
「資料整理を手伝ってる人。元教師の親戚で、この校舎のことに妙に詳しい」
真叶は少し考え、胸ポケットから手袋を出してノートを受け取った。軽く重みを確かめ、表紙の端を指でなぞる。
「古い。でも管理番号はついてないな」
「寄贈漏れですか」
「可能性はある。見つけた場所、覚えてる?」
「机の下。窓側の一番後ろ」
「さすが」
「何がですか」
「君、拾ってもすぐ持ち去らない」
「当たり前です」
「当たり前にできない人、多いよ」
その言葉に、少しだけ力が抜けた。必要以上に褒められるのは嫌いだが、こういう、行動の中身だけを見て言われるのは悪くない。そう思ってしまったこと自体が、また面倒だった。
克洋からの連絡で、インコはとりあえず旧校舎横の温室で保護することになった。響と真叶が教室を出ると、廊下の向こうから作業員が資材を運んでくる。朝の静けさは長くもたない。温室へ向かう途中、真叶はストールごと鳥を抱えたまま、何度も低い声で話しかけていた。
「はいはい、大丈夫。もう誰も取らないよ」
「またその声」
「何」
「鳥相手に甘すぎます」
「君、いま笑った?」
「笑ってません」
「口元」
「気のせいです」
「霧のせいかな」
「便利ですね、その霧」
温室は旧校舎の脇に増設された、ガラス張りの小さな建物だった。保護した観葉植物や、展示予定の季節の花が一時的に置かれていて、朝の光がやわらかく回っている。克洋が簡易ケージを手配してくれ、響は水と餌の位置を確認した。インコはすぐには落ち着かなかったが、真叶が顔を近づけると、不思議なくらい静かになる。
「名前、どうします」
響が訊くと、克洋が書類から目を上げた。
「施設の備品ではないので、仮でいいのでは」
「仮」
「色でレモンとか」
真叶が言った。
響は吹き出しそうになる。
「安直すぎませんか」
「じゃあ君がつける?」
「……レモンでいいです」
「採用」
そうして、インコはレモンになった。
午前中の業務説明を受けながらも、響の頭の隅にはずっとあのノートが引っかかっていた。恋日記。あまりにそのまますぎる題だが、霧の教室で拾ったせいか、ただの忘れ物以上の気配がある。昼前、真叶が打ち合わせから戻るなり、透明の資料袋に入れたノートを見せた。
「久留巳と連絡ついた。たぶん旧学園の寄贈資料の一つ。仮保管する」
「読んだんですか」
「開いてない。君が嫌そうな顔するから」
「嫌そうな顔、便利に使わないでください」
「便利なんだよね、すごく」
「褒められてませんよね」
「今日は褒めてる」
昼食は仮設食堂の簡単な弁当だった。響が席を探していると、晏寿と名乗るパティスリー責任者の女性が声をかけてきた。白衣の袖に粉糖が少しついたままで、目だけが妙にきらきらしている。
「あなたが響さん? 真叶さんが、布の癖まで見る人が来るって」
「そんな言い方だったんですか」
「だいたいそういう言い方。よかった、ちゃんと人間だった」
「何だと思ってたんですか」
「もっと怖い人」
「それは私も思ってました」
「誰が?」
横から真叶が割り込み、二人して同時に「あなたです」と返したので、周囲の何人かが笑った。
現場に笑い声があるのが少し意外だった。もっと尖った場所だと思っていた。だが、尖っているだけではここまで大きなものは動かないのだろう。怒声も飛ぶ。指示も厳しい。それでも、誰かが息をつける隙間を真叶が意識して作っていることに、響は昼を過ぎるころようやく気づいた。
午後、温室へ様子を見に行くと、レモンはケージの中でやっと羽繕いをしていた。真叶が指を見せると、すぐそちらへ寄る。
「完全に気に入られてますね」
「モテるから」
「鳥限定で」
「君にもそのうち」
「絶対ありません」
「絶対って言う人ほど」
「続けると帰りますよ」
「すみませんでした」
謝るのが速い。速いのに、たいして反省していない顔だ。響は温室の外へ視線を逃がした。ガラス越しに校舎の白い壁が見える。朝の霧はすっかり晴れていたが、教室で拾ったノートのことを思うと、胸のどこかにまだ薄い白が残っている気がした。
夕方、帰り支度をしていると、真叶が資料袋を差し出した。
「今日は開かない。でも、保管場所だけ一緒に見て」
「私が?」
「見つけたの君だし。こういうの、どこに置くと湿気を食うか、君のほうが早い」
響は少し迷ってから受け取った。ノートは手の中で意外と温かい。人の手を渡ってきた紙は、物なのに体温を持つことがある。
保管室へ向かう途中、真叶がふと思い出したように言った。
「朝、ありがとう」
「何がですか」
「レモン。拾ってくれて」
「たまたま見つけただけです」
「たまたま見つけたものを、そのまま置いていかなかった」
「……」
「君、そういうところがいい」
まっすぐ言われるのに慣れていない。響は資料袋の端をぎゅっと握った。
「軽く言わないでください」
「軽くない」
「じゃあなおさら、簡単に言わないで」
真叶は少し黙り、それから小さくうなずいた。
「わかった。気をつける」
それだけの返事なのに、不思議と今度は腹が立たなかった。言い負かしたからではない。たぶん、言ったことが届いたとわかったからだ。
その日の帰り、響はもう一度だけ、朝の教室の前へ立ち寄った。扉は閉じられていて、霧もない。なのに、中に入ればまだ白い気配が残っているように思える。机の下にノートがあった場所を見下ろし、誰がここへ置いたのだろうと考えた。恋日記なんて、冗談みたいな題をつけて、それを霧の教室に残した誰か。
過去の誰かの書いたものに、どうしてこんなに心が引かれるのか、自分でもわからない。ただ、あの表紙を見た瞬間、何かがこちらを向いた気がした。遅れて届くものがある。そういう気配だけが、胸の奥に静かに沈んでいく。
廊下の窓から差す夕方の光が、床に長い四角を作っていた。響はそれを踏み越え、そっと扉を閉めた。
明日から、ここでの仕事が本格的に始まる。
拾った羽の軽さと、ノートの重みを、両方まだ手のひらに覚えたままで。
【続】
【本文】
初出勤の日、響は予定より一時間早く山へ着いた。九月半ばの朝は、街よりずっと気温が低い。車を降りた途端、湿った冷気が足首にまとわりついた。斜面に沿って建つ旧校舎の周囲には霧がたまり、地面すれすれを白いものがゆっくり這っている。誰かが煙を流したみたいな景色だった。
受付棟はまだ開いておらず、克洋から送られてきた簡易地図を見ながら、響は職員用通路へ回った。工事中の足場、仮設の矢印、養生された床。どこもかしこも途中なのに、不思議と「壊れている」感じはしない。直される途中にある、という空気だけが濃かった。
旧校舎の扉を押すと、木の匂いと、少し古い紙の匂いがした。白鐘女子学園が閉校して十五年。なのに廊下の手すりは磨き直され、教室のドアには真鍮のプレートが残っている。使われなくなった場所が、完全に眠っていたわけではない。誰かが忘れきれず、誰かが手を入れ続けてきたのだとわかる。
廊下の突き当たりで、ぴい、と鋭い声がした。
響は足を止める。もう一度、ぴい。小さく、でも確かに苛立っている鳴き声だ。声をたどると、半開きの教室の中から聞こえてくる。扉をそっと開けると、朝の霧が床を薄く覆った教室の窓際で、黄緑色の小さな影が羽をばたつかせていた。
「……インコ?」
セキセイインコだった。椅子の背に止まろうとして滑り、机へ飛び移り、また滑る。どう見ても野生ではない。どこかから逃げてきたか、捨てられたか。嘴の先に白い粉が少しついていて、まだ保護された餌を食べていた個体だとわかる。
響は鞄から薄いストールを出し、ゆっくり近づいた。
「大丈夫。取って食べたりしないから」
当然、通じない。だが声の調子くらいは伝わるらしい。インコは首をかしげ、次の瞬間にはまた羽をばたつかせた。響はタイミングを見てストールをふわりとかぶせ、両手で包み込む。中でぴぴ、と文句を言う気配がした。
そのとき、机の下に何かが落ちているのが見えた。布で包まれた、文庫本ほどの大きさのもの。響は片手でインコを抱えたまま屈み、そっと拾い上げる。色あせた生成りの布をほどくと、中から現れたのは、角の擦れたノートだった。表紙には小さな字で「恋日記」とだけ書かれている。丸みのある古い筆跡。いま使われている紙より少し厚く、黄ばんだ縁に時間が見える。
勝手に開くのはためらわれた。だが、霧の入る空き教室に、どうしてこんなものが置かれていたのかは気になる。響がノートを見つめていると、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「響?」
振り向くと、扉のところに真叶が立っていた。今日はジャケットなしで、シャツの袖を肘までまくっている。朝の霧の中にいるせいか、いつもより少し輪郭がやわらかく見えた。
「早いですね」
「それ、こっちの台詞。初日に迷子かと思った」
「迷う前に拾い物しました」
響が両手を上げると、真叶の視線がストールの中をのぞき込む。
「うわ」
その第一声だけ、妙に素だった。
「鳥」
「見ればわかります」
「いや、ほんとにいたんだ」
「どういう意味ですか」
「このへんで鳴き声がするって聞いてた。でも現場がうるさくて、みんな気のせいだろって」
「気のせいじゃなかったですね」
「……見せて」
真叶は近づく足を途中で止め、響の反応を待った。昨日までの強引さが少し引っ込んでいる。響が黙ってうなずくと、彼は信じられないほど慎重に指先を伸ばした。
「ごめんねー、びっくりしたよねー」
声音が変わりすぎて、響は思わず二度見した。
「誰ですか、それ」
「いまの俺」
「別人格みたいです」
「ちっちゃいの相手だと、たまに出る」
「気持ち悪いです」
「ひど」
ストールの隙間からインコが顔を出す。真叶がほんの少し口をゆるめると、鳥は逃げるどころか、逆にその指先へ頭を寄せた。
「懐くの早」
「なんでですか」
「俺がいい男だから?」
「朝から元気ですね」
「褒められた」
「褒めてません」
やり取りをしながらも、響は教室の中を見回した。古い机、黒板、壁際のロッカー。掃除はされているが、展示用として開けるにはまだ先なのだろう。窓際には霧が入り込み、床板の上で白くたゆたっている。教室の端に朝の空気が居座っているような、不思議な静けさだ。
「ここ、朝だけ霧が入る教室なんだ」
真叶が言った。
「山側の窓を少し直したら、逆に風の通り道ができてさ。完全に塞ぐのも違う気がして、あえて残してる」
「残してる?」
「欠点じゃなくて、この場所の癖として」
響は霧の向こうに並ぶ机を見た。白い膜の中へ沈む木の色が、かえって輪郭をきれいに見せている。
「……嫌いじゃないです」
「よかった」
真叶の視線が、響のもう片方の手に移る。
「それは?」
「机の下にありました。ノートです。表紙に、恋日記って」
「恋日記」
「そのままです」
「ずいぶん直球」
「勝手に読まないほうがいいですよね」
「たぶん。久留巳に確認しよう」
「誰ですか」
「資料整理を手伝ってる人。元教師の親戚で、この校舎のことに妙に詳しい」
真叶は少し考え、胸ポケットから手袋を出してノートを受け取った。軽く重みを確かめ、表紙の端を指でなぞる。
「古い。でも管理番号はついてないな」
「寄贈漏れですか」
「可能性はある。見つけた場所、覚えてる?」
「机の下。窓側の一番後ろ」
「さすが」
「何がですか」
「君、拾ってもすぐ持ち去らない」
「当たり前です」
「当たり前にできない人、多いよ」
その言葉に、少しだけ力が抜けた。必要以上に褒められるのは嫌いだが、こういう、行動の中身だけを見て言われるのは悪くない。そう思ってしまったこと自体が、また面倒だった。
克洋からの連絡で、インコはとりあえず旧校舎横の温室で保護することになった。響と真叶が教室を出ると、廊下の向こうから作業員が資材を運んでくる。朝の静けさは長くもたない。温室へ向かう途中、真叶はストールごと鳥を抱えたまま、何度も低い声で話しかけていた。
「はいはい、大丈夫。もう誰も取らないよ」
「またその声」
「何」
「鳥相手に甘すぎます」
「君、いま笑った?」
「笑ってません」
「口元」
「気のせいです」
「霧のせいかな」
「便利ですね、その霧」
温室は旧校舎の脇に増設された、ガラス張りの小さな建物だった。保護した観葉植物や、展示予定の季節の花が一時的に置かれていて、朝の光がやわらかく回っている。克洋が簡易ケージを手配してくれ、響は水と餌の位置を確認した。インコはすぐには落ち着かなかったが、真叶が顔を近づけると、不思議なくらい静かになる。
「名前、どうします」
響が訊くと、克洋が書類から目を上げた。
「施設の備品ではないので、仮でいいのでは」
「仮」
「色でレモンとか」
真叶が言った。
響は吹き出しそうになる。
「安直すぎませんか」
「じゃあ君がつける?」
「……レモンでいいです」
「採用」
そうして、インコはレモンになった。
午前中の業務説明を受けながらも、響の頭の隅にはずっとあのノートが引っかかっていた。恋日記。あまりにそのまますぎる題だが、霧の教室で拾ったせいか、ただの忘れ物以上の気配がある。昼前、真叶が打ち合わせから戻るなり、透明の資料袋に入れたノートを見せた。
「久留巳と連絡ついた。たぶん旧学園の寄贈資料の一つ。仮保管する」
「読んだんですか」
「開いてない。君が嫌そうな顔するから」
「嫌そうな顔、便利に使わないでください」
「便利なんだよね、すごく」
「褒められてませんよね」
「今日は褒めてる」
昼食は仮設食堂の簡単な弁当だった。響が席を探していると、晏寿と名乗るパティスリー責任者の女性が声をかけてきた。白衣の袖に粉糖が少しついたままで、目だけが妙にきらきらしている。
「あなたが響さん? 真叶さんが、布の癖まで見る人が来るって」
「そんな言い方だったんですか」
「だいたいそういう言い方。よかった、ちゃんと人間だった」
「何だと思ってたんですか」
「もっと怖い人」
「それは私も思ってました」
「誰が?」
横から真叶が割り込み、二人して同時に「あなたです」と返したので、周囲の何人かが笑った。
現場に笑い声があるのが少し意外だった。もっと尖った場所だと思っていた。だが、尖っているだけではここまで大きなものは動かないのだろう。怒声も飛ぶ。指示も厳しい。それでも、誰かが息をつける隙間を真叶が意識して作っていることに、響は昼を過ぎるころようやく気づいた。
午後、温室へ様子を見に行くと、レモンはケージの中でやっと羽繕いをしていた。真叶が指を見せると、すぐそちらへ寄る。
「完全に気に入られてますね」
「モテるから」
「鳥限定で」
「君にもそのうち」
「絶対ありません」
「絶対って言う人ほど」
「続けると帰りますよ」
「すみませんでした」
謝るのが速い。速いのに、たいして反省していない顔だ。響は温室の外へ視線を逃がした。ガラス越しに校舎の白い壁が見える。朝の霧はすっかり晴れていたが、教室で拾ったノートのことを思うと、胸のどこかにまだ薄い白が残っている気がした。
夕方、帰り支度をしていると、真叶が資料袋を差し出した。
「今日は開かない。でも、保管場所だけ一緒に見て」
「私が?」
「見つけたの君だし。こういうの、どこに置くと湿気を食うか、君のほうが早い」
響は少し迷ってから受け取った。ノートは手の中で意外と温かい。人の手を渡ってきた紙は、物なのに体温を持つことがある。
保管室へ向かう途中、真叶がふと思い出したように言った。
「朝、ありがとう」
「何がですか」
「レモン。拾ってくれて」
「たまたま見つけただけです」
「たまたま見つけたものを、そのまま置いていかなかった」
「……」
「君、そういうところがいい」
まっすぐ言われるのに慣れていない。響は資料袋の端をぎゅっと握った。
「軽く言わないでください」
「軽くない」
「じゃあなおさら、簡単に言わないで」
真叶は少し黙り、それから小さくうなずいた。
「わかった。気をつける」
それだけの返事なのに、不思議と今度は腹が立たなかった。言い負かしたからではない。たぶん、言ったことが届いたとわかったからだ。
その日の帰り、響はもう一度だけ、朝の教室の前へ立ち寄った。扉は閉じられていて、霧もない。なのに、中に入ればまだ白い気配が残っているように思える。机の下にノートがあった場所を見下ろし、誰がここへ置いたのだろうと考えた。恋日記なんて、冗談みたいな題をつけて、それを霧の教室に残した誰か。
過去の誰かの書いたものに、どうしてこんなに心が引かれるのか、自分でもわからない。ただ、あの表紙を見た瞬間、何かがこちらを向いた気がした。遅れて届くものがある。そういう気配だけが、胸の奥に静かに沈んでいく。
廊下の窓から差す夕方の光が、床に長い四角を作っていた。響はそれを踏み越え、そっと扉を閉めた。
明日から、ここでの仕事が本格的に始まる。
拾った羽の軽さと、ノートの重みを、両方まだ手のひらに覚えたままで。
【続】