私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第5話 温水プールで落ちる前に
【本文】
 TRIPHANE HILLの敷地の中で、響がいちばん居心地の悪さを覚えた場所は、意外にも温水プールだった。展示室や旧校舎は、古いものへ触れる緊張があるぶん、まだ対処の仕方がわかる。だがプールは違う。ガラス張りの空間いっぱいに水の青が揺れ、天井のライン照明がその上を静かに滑る。美しいのに、足元の感覚が狂う。

 夜の導線確認に立ち会うよう言われたのは、開業時のガラでモデルがドレスをまとったままプールサイドを歩く演出があるからだ。水辺の湿気、床材の滑り、照明の映り込み。衣装の裾に関わる問題が多いため、修復側の目で確認してほしいと克洋に頼まれた。

 「昼じゃだめなんですか」
 響が訊くと、克洋は真面目な顔で首を振った。
 「本番は夜です。水面の反射で印象が変わるので」
 「つまり、夜に怖い思いをしろと」
 「怖いんですか」
 「……別に」
 「別に、で押し通せる場所ではないかもしれません」
 その返しに少し笑ってしまった。克洋は真叶ほど人を煽らないが、ときどき妙に正確だ。

 夜八時。作業が一段落したあと、響は資料を抱えてプール棟へ向かった。ガラスの扉を開けた途端、温かな湿気が頬を撫でる。水面には天井の光が長く伸び、まるで液体の鏡だった。昼の喧騒が消えた施設では、水が返す小さな音だけがやけに大きく聞こえる。

 真叶はすでにそこにいた。ジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくり、スタッフへ照明のタイミングを指示している。水面へ落ちる光の角度、音楽の入る位置、モデルが曲がる箇所。彼の声が空間に乗るたび、ガラスと水のあいだで少し柔らかく反響した。

 「来た」
 真叶が気づき、こちらへ手を上げる。
 「遅い」
 「時間ぴったりです」
 「俺の気持ちでは遅い」
 「知りません」
 「冷たいなあ」
 「湿気で十分です」

 響はプールサイドの床材をしゃがんで触った。滑り止め加工はされているが、照明が入ると境目が見えにくい場所がある。さらに、一部の通路では床の下に浅い照明溝があり、ガラスの透明感が強いぶん、足を置く位置が曖昧になる。
 「ここ、見た目は綺麗ですけど、初見だと怖いです」
 「どこ」
 響が立ち上がって示すと、真叶はすぐ隣へ来た。
 「このラインを越えた瞬間に、床が一段薄く見えるんです。実際は同じ高さでも、視界が落ちる感じがして」
 真叶は黙って床を見つめ、それから言った。
 「歩いてみる?」
 「え」
 「感覚を確認したい」
 「私はモデルじゃありません」
 「モデルに見ろって言ってない。現場目線の確認」
 「言い換えても嫌です」
 「じゃあ俺が先」
 そう言うなり、彼は問題の箇所をゆっくり歩いた。迷いなく進み、途中で立ち止まり、振り返る。
 「たしかに、ガラスの境で視界が落ちる」
 「でしょう」
 「でも裾の長い衣装だと、実際の段差より『落ちそう』が先に来るな」
 「そうです」
 「一緒にやる?」
 「聞いてました?」
 「うん。嫌なんだよね」
 「はい」
 「でも君のほうが、モデルの歩幅と裾の流れを想像できる」
 「……」
 「無理やりはしない。手は貸す」

 悔しいが、その条件なら確認しないわけにもいかない。響は資料をベンチへ置き、深く息を吸った。ガラス越しに見える水面は静かなのに、足が一歩目を拒む。真叶が少し前に立ち、手を差し出した。
 「ほら」
 「子供じゃないです」
 「知ってる。でも大人でも怖いものは怖い」
 「……嫌いです、その言い方」
 「いまは好きにならなくていいから」

 結局、響はその手を取った。掌が思ったより温かい。湿気のある空間のせいか、体温が直接伝わる気がした。歩き出すと、確かに三歩目で足がすくむ。床が沈むわけでもないのに、水面の揺れとガラスの反射で、体が勝手に「落ちる」と判断するのだ。

 「そこ」
 真叶が小さく言う。
 「視線、足元だけ見ない」
 「見ないと余計怖いです」
 「じゃあ俺見る」
 「何ですか、それ」
 「君は前」
 響はしぶしぶ顔を上げた。すると、足元の不安は消えないまでも、さっきより歩ける。真叶の手が少しだけ力を入れるたび、足の置き場所が定まる。助けられているのが腹立たしいのに、その腹立たしさすら歩くための支えになるから厄介だった。

 問題の箇所を抜けたところで、響はようやく息をついた。
 「……怖かった」
 「うん」
 「笑ってます?」
 「ちょっとだけ」
 「最低」
 「頑張ったから」
 「褒め方が雑です」
 「じゃあ言い直す。よく歩いた」
 「急にちゃんとしないでください」
 「注文多いなあ」
 「あなたが余計なこと言うからです」

 照明スタッフが、別の角度からライトを当て直した。すると、問題のラインの見え方が変わり、床の境目が少し認識しやすくなる。響はすぐにそこへ気づく。
 「この角度なら、怖さが減ります」
 真叶はスタッフへ合図を送り、設定変更を決めた。
 「導線マーク、もっと控えめな色で入れよう。見せたくはないけど、消しすぎると事故る」
 「あと、ドレスの裾を長く引くモデルはここで一拍置かせたほうがいいです」
 「理由」
 「水面の反射で裾の端が見えにくいので、歩幅を整える間が必要」
 「了解」

 確認がひと通り終わったあとも、響はすぐにはプールから出られなかった。水面の揺れが、なぜか少しずつ気にならなくなっていたからだ。怖い場所は、完全に嫌いな場所とは限らない。そういうところが、いちばん困る。

 「背伸び、できたね」
 隣で真叶が言った。
 「してません。必要確認です」
 「じゃあ、必要なぶんだけ」
 「それで十分です」
 「俺はもう少し見たい」
 「何を」
 「君が知らない顔」

 またそういうことを言う。響は眉を寄せた。
 「軽い」
 「軽くないって、この前言われたから気をつけてる」
 「気をつけた結果がそれですか」
 「難易度高いなあ」
 「私が簡単だと思われるほうが嫌です」

 真叶はその言葉に少し黙った。水面から返る光が彼の横顔に揺れる。昼間の資料室とも、搬入口とも違う顔だった。場を回すときの鋭さが少し引いて、代わりに静かなものが残る。
 「響」
 「何ですか」
 「少しだけ背伸びしろ。落ちる前に拾う」
 冗談めいて聞こえるのに、声だけは妙に真面目だった。

 響は返事に困り、視線を水面へ落とす。自分たちの姿が揺れている。距離が近い。手はもう離れているのに、さっきの体温だけがまだ掌に残っていた。

 そこへ、ガラス扉の向こうから拍手の音がした。
 「いい空気だねえ」
 宏哲だった。いつの間にか視察に来ていたらしい。彼の視線は一瞬で状況を切り取り、意味をつける。
 「代表自らエスコート、画としては強い」
 「仕事の確認です」
 響が言うより早く、真叶が前へ出る。
 「宏哲」
 「わかってる。いま撮ってないよ」
 「そういう話じゃない」
 「なら何」
 「線を越えるな」
 宏哲は肩をすくめる。
 「こわいね。大事にしてるのはわかった」
 その言い方が、響には何より嫌だった。大事にしている、という言葉が、誰かの所有みたいに聞こえるから。

 宏哲が去ったあと、空気が少しだけ冷えた。温室のような湿気に満ちたプール棟で、そこだけ急に乾いたみたいだった。響は資料を抱え直す。
 「帰ります」
 「送る」
 「結構です」
 「夜道、暗い」
 「自分で歩けます」
 「知ってる。でも送る」
 「それを過保護って言うんです」
 「危ないところを把握してるのに放置するほうが、俺には無理」
 「……」
 「怒る?」
 「怒ってます」
 「でも送る」
 「強引」
 「たぶん」

 結局、響は施設入口まで真叶に送られた。短い距離なのに、彼は段差や工事用ケーブルの位置まで先に示し、暗い場所では歩幅を合わせる。そういうところだ、と響は思う。いちいち先回りして、人の隙や危なさを自分の手前で止めようとする。ありがたくないわけではない。むしろ助かる。だがそのぶん、こちらが何もできない人間に見えていないか、不安にもなる。

 別れ際、真叶がふと立ち止まった。
 「今日の導線確認、助かった」
 「仕事ですから」
 「それでも」
 「……どういたしまして」
 珍しく素直に返すと、彼はほんの少し目を細めた。
 「いまの、保存」
 「何を」
 「どういたしまして、って言った顔」
 「気持ち悪いです」
 「褒めてる」
 「だから、それがだめなんです」
 「了解。じゃあ、また明日」
 「また明日」

 山の夜気は、プール棟の湿気と違って冷たかった。坂道を下りながら、響は何度も掌を握ったり開いたりした。怖い場所を歩いたあとみたいな軽い震えが、まだ残っている。あれは床のせいだけではないと、自分でもわかっていた。

 少しだけ背伸びしろ。落ちる前に拾う。
 そんな勝手な台詞、普通なら腹が立つだけのはずなのに、どうしてかその言葉が胸の奥に残ってしまう。夜の水面みたいに、何度も揺れて形を変えながら。
【続】

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