私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第6話 外はサクサク、中はしっとり
【本文】
 週末の朝、施設内パティスリー「GARA」の厨房は、旧校舎の静けさとはまるで違う熱で満ちていた。バターの香り、焼き上がる生地の甘い匂い、泡立て器の金属音、オーブンの開閉音。作業台の上へ並ぶ粉袋や果物の箱は整然としているのに、そこを動く人間のリズムは速い。晏寿は白衣の裾を軽くはためかせながら、焼成時間と温度表を一度に二人へ指示し、その合間に新しい生地の硬さを指先で確かめていた。

 「響さん、こっち」
 呼ばれて近づくと、作業台には紙の切れ端が広げられていた。旧学園に残っていた手書きレシピの断片だという。油の染みた紙に、かろうじて「外」「しっとり」「檸檬皮」と読める字が残っている。
 「これだけで再現するんですか」
 「だから楽しい」
 晏寿は笑った。
 「たぶん当時の焼き菓子。ガラ用の看板商品にできたらいいなって」
 「看板菓子」
 「施設の記憶になる味。展示だけじゃ、お腹が空くでしょ」

 その発想は嫌いではなかった。古いものを飾るだけでなく、食べたり歩いたり触れたりする形で残す。真叶がよく言う「届くように残す」という考え方に近いのだろう。響は手書きの断片を覗き込み、字の流れや材料名の並びを目で追った。
 「これ、バタークッキーだけじゃないです」
 「うん?」
 「『外』のあとに、たぶん『サクサク』って入る。で、その次に別の行で『中』。つまり二層かもしれません」
 晏寿の目が輝く。
 「続けて」
 「檸檬皮が入るなら、香りは表面だけじゃなく中にも残したい。でも全部を軽く焼くと、古い配合だと乾きすぎる。だから外はしっかり、中はやわらかく」
 「外はサクサク、中はしっとり」
 晏寿が口に出すと、厨房の数人が面白そうに振り向いた。
 「それだ」
 「まだ決まってません」
 「でも芯はそれ」
 「……たぶん」

 試作が始まると、厨房はさらに忙しくなった。響は本職ではないので邪魔にならない範囲でしか手を出せないが、香りや焼き色、見た目の質感については遠慮なく意見を求められる。生地を割った断面を見て、焼き上がりの表面を指で軽く叩いて、晏寿と二人で首をかしげる。最初の一回目は表面が強すぎ、二回目は香りが弱い。三回目でようやく、中にしっとりした層が残った。

 「これ、近い」
 晏寿が言った。
 響は割った菓子の断面を見つめた。外側は薄く色づき、縁に細かな亀裂が入っている。だが中央は崩れすぎず、押すと少しだけ戻る。
 「懐かしい、っていう感じがあります」
 「食べたことあるみたいに?」
 「たぶん、ないです。でも」
 「わかる。そういうのある」
 晏寿は嬉しそうに笑い、すぐメモへ焼成時間を書きつけた。

 そこへ真叶が現れた。会食を抜けてきたらしく、ネクタイだけ少し緩んでいる。
 「いい匂い」
 「仕事してたんですか」
 響が言うと、真叶は傷ついたふりをした。
 「してたよ。ちゃんと」
 「ちゃんと仕事してる人は、自分で『ちゃんと』って言いません」
 「今日は厳しいな」
 「いつもです」
 「それもそう」

 晏寿が新しい試作品を差し出す。
 「ちょうどいいところ。味見お願いします」
 真叶は割った菓子を受け取り、一口食べた。さく、と小さな音がして、そのあとに少し黙る。
 「うまい」
 「感想が薄い」
 晏寿が即座に切り返す。
 「仕事で褒めるの得意なくせに、食べると語彙なくなるんです、この人」
 「ほんとにうまいと、まず守りに入る」
 「何を守るんですか」
 響が訊くと、真叶は真面目な顔で答えた。
 「独り占めしたい気持ち」
 「子供ですか」
 「気分は若いって言った」
 「知りません」

 晏寿が大きくため息をつく。
 「ほら、そういうところ。だから皆で食べられる商品にするんです」
 「わかってる」
 「響さん、もっと言ってやって」
 「私は巻き込まれたくありません」
 「もう巻き込まれてるよ」
 「そうですね」
 三人で笑うみたいな空気ができて、響は少しだけ不思議だった。ほんの数日前まで、自分はここで怒ってばかりいたはずだ。怒っているのは今も同じなのに、怒りだけで一日が終わらない瞬間が増えている。

 昼前、真叶が打ち合わせへ戻る前に、晏寿が響へこっそり耳打ちした。
 「ねえ、あの人、あなたの好み把握してるよ」
 「は?」
 「さっきコーヒー頼む時、『響には酸味弱め』って言ってた」
 「聞いてません」
 「だろうと思った」
 「気持ち悪いです」
 「でも外してないでしょ」
 響は答えられなかった。たしかに酸味の強いコーヒーは苦手だ。以前、休憩スペースで何気なく一口飲んで顔をしかめたことがあった。それを覚えていたのだとしたら、観察が細かすぎる。

 昼休憩、休憩室のテーブルへトレイを置くと、そこにはすでに紙コップが二つ並んでいた。ひとつは深煎り、もうひとつは少しだけ香りの柔らかいもの。言わなくても、どちらが自分の分かすぐわかる。響は黙って椅子に座った。
 「どうぞ」
 向かいに座った真叶が当然のように言う。
 「頼んでません」
 「でも飲むでしょ」
 「……」
 「酸味弱め」
 「覚えてたんですか」
 「君、眉間に全部出るから」
 「そんな覚え方、やめてください」
 「便利なんだよ」
 「便利にしないで」

 紙コップを持つ手の熱が妙に気になった。こういう、あまりに自然な先回りが一番困る。大げさに守るより、ずっと奥まで入ってくるから。

 そのとき、休憩室の外から、甲高い声がした。
 「すき! すき!」
 響が咄嗟に立ち上がる。
 「レモン?」
 ガラス窓の向こう、晏寿が温室の点検ついでに連れてきていたらしい。小さなケージの中で、レモンが首をぶんぶん振っている。
 「すき! すき!」
 休憩室が一瞬静まり、それから誰かが吹き出した。
 「タイミング」
 晏寿が腹を抱えて笑う。
 「最高なんだけど」
 「何を教えたんですか」
 響が言うと、晏寿は首を振った。
 「知らない知らない。誰かの口癖じゃない?」
 視線が自然と真叶へ集まる。真叶はコーヒーを飲みながら平然としていた。
 「俺じゃない」
 「本当ですか」
 「たぶん」
 「たぶんって何ですか」
 「レモン相手だと、いろいろ話してるから」
 「気持ち悪いです」
 「二回目」

 周囲の笑い声に紛れて、響まで少しだけ笑ってしまった。笑ったあとで気づき、慌てて口元を引き締める。だが遅かった。真叶が見ている。
 「いま笑った」
 「笑ってません」
 「厨房のみんなも見てた」
 「証人を増やさないでください」
 「減らしたい?」
 「今すぐ」
 「無理だなあ」
 外からまた、レモンの声が響く。
 「すき!」
 今度は晏寿が壁を叩いて笑い転げた。

 午後の試作では、商品名候補まで話が進んだ。響は「仮に長くても、口に出しやすいほうがいい」と意見し、晏寿は「白鐘レモンサブレ」は普通すぎると渋い顔をした。最終的に「外はサクサク、中はしっとり」が、そのまま説明文の核になることだけが決まる。
 「真叶さんって、第一印象は完全に外サクサクですよね」
 晏寿が冗談めかして言う。
 「中もサクサクだったらどうする」
 真叶が返す。
 「それはそれで人気は出る」
 「困ります」
 響が思わず口を挟むと、二人が同時にこちらを見る。
 「何が」
 真叶が訊く。
 「……え」
 「困るって言った」
 「別に、困るでしょう。中身が空っぽなら」
 「俺の中身、気になる?」
 「そういう受け取り方をしないでください」
 「してる顔」
 「顔で会話しないでください」
 晏寿がにやにやしながら泡立て器を振った。
 「いい感じ」
 「何がですか」
 「職場が明るい」
 「私は明るくしてません」
 「でも笑ってる」
 その指摘は、響の抵抗を少し削った。

 夕方、晏寿が試作品を包んで持たせてくれた。帰ってから食べ比べ用だという。紙袋からほんのり甘い匂いがする。施設の坂を下りながら、響はその袋を抱えた。工房と宿の往復だけだった数日前と違い、いまはこの場所で拾うものが増えている。鳥。ノート。石。水辺の光。甘い菓子の香り。どれもばらばらなはずなのに、なぜか同じ物語の端へつながっていく気がする。

 宿舎前で真叶に呼び止められた。
 「それ、一人で全部食べる?」
 「食べます」
 「感想」
 「明日言います」
 「厳選して言って」
 「まずいところも?」
 「もちろん」
 「珍しいですね」
 「君の口から出るなら欲しい」
 その一言に、響は紙袋を抱え直した。
 「……そういうの、ずるいです」
 「何が」
 「仕事の話みたいに言うところ」
 「仕事の話だよ。たぶん半分は」
 「半分」
 「残り半分は、君の声で聞きたい」
 夜風が少しだけ冷たくなっていた。紙袋の中の甘い匂いと、その言葉の温度が混ざって、妙に落ち着かない。
 「明日です」
 響はそれだけ言って、先に宿舎へ入った。扉を閉めても鼓動がすぐには静まらない。試作品をテーブルへ並べると、外見はよく似ているのに、割ったときの音も香りも全部違う。外はサクサク、中はしっとり。
 変な比喩だと思ったのに、頭のどこかで真叶の顔が浮かぶ。

 嫌だ、と呟いてから、ひとつかじる。
 たしかに外は軽く、中にはやわらかな熱が残っていた。
【続】

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