私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第7話 同じ敷地にいるだけで近すぎる
【本文】
九月の終わり、山の天気は急に機嫌を変えた。朝から降り続いた雨が昼過ぎには本降りになり、夕方には施設へ上がる県道の一部で小規模な崩落が起きた。全面通行止めではないが、工事車両と通勤車両の通行時間が制限されるらしい。克洋から共有された工程表には、翌週いっぱいの搬入時間再調整がびっしり赤字で書き込まれていた。
「しばらく通いは厳しいですね」
克洋が会議室で淡々と言った。
「朝夕ともに渋滞が読めません。早朝作業や夜間確認が続く部署は、敷地内滞在へ切り替えたほうが安全です」
その視線が響へ向く。
響はすぐに首を振った。
「私は大丈夫です。朝早く出れば」
「夜の確認後に下山するほうが危険です」
「でも」
「旧教員宿舎に空きがあります」
真叶が横から言った。
「必要な備品は入れておく」
「いりません」
「まだ何も言ってない」
「備品って言葉の時点で嫌な予感がします」
会議室の端で晏寿が肩を震わせて笑っていた。
その日のうちに、話は半ば決まってしまった。安全上の理由。夜間確認への対応。資料や補修道具を毎日持ち運ばなくて済む利点。わかる。理屈はわかる。だが、同じ敷地に泊まるというのは、物理的な距離の問題以上にまずい気がした。真叶がいる現場に、仕事のあとも残ることになる。朝も夜も同じ空気を吸うことになる。近すぎる。
「顔が嫌そう」
荷物をまとめる響へ、佑里江が言った。
「嫌です」
「でも行く」
「仕事だからです」
「そういうことにしておきなさい」
「何ですか、その含み」
「ないわよ。ただ、近くにいると見えることも増えるってだけ」
「見たくないことも増えます」
「それもそう」
旧教員宿舎は、校舎の裏手を少し下った場所にあった。二階建ての小さな建物を改装し、長期滞在用の部屋がいくつか設けられている。外観は素朴だが、玄関や廊下には新しい木材が使われ、窓から見える山の斜面まできれいに整えられていた。克洋が鍵を渡し、必要設備の一覧を説明する。
「寝具、デスク、作業灯、簡易アイロン、救急箱、乾燥機つき洗濯機、裁縫道具の予備」
響は説明の途中で顔を上げた。
「裁縫道具の予備?」
「作業継続に必要と判断され」
「誰が判断したんですか」
「……」
克洋が言葉を選ぶ間もなく、後ろから真叶の声がした。
「俺」
響はその場で振り向く。
「過保護にもほどがあります」
「困る前に整えるのが俺の仕事」
「前にも聞きました」
「じゃあ覚えて」
「覚えたくありません」
「それは残念」
部屋へ入ると、嫌な予感はさらに当たった。机の上には仕事用の拡大鏡つきライト。窓辺には小さな加湿計。クローゼットの中には薄手の羽織りまである。台所の棚には紅茶、ハーブティー、クラッカー、そして晏寿の試作品らしき焼き菓子が一袋。ここまで来ると整えられているというより、監視の行き届いた保護区だった。
「誰がクラッカー置いたんですか」
「晏寿」
「じゃあ羽織りは」
「俺」
「聞いてません」
「山、夜冷えるから」
「私は寒ければ自分で出します」
「そう言うと思ったから、出す前に置いた」
「ほんとに嫌です、その先回り」
「でも使うでしょ」
「……」
「ほら」
言い返せないのが悔しい。
荷解きを終えたころには夕方になっていた。雨はやんだが、空気はまだ湿っている。宿舎から校舎までは歩いて三分もかからない。近い。近すぎる。響は部屋の窓を開け、山の匂いを吸い込んだ。遠くで工事の金属音がする。誰かの笑い声も少し。完全に閉じた場所ではなく、まだ作りかけの生活の中へ放り込まれたような感覚だ。
その夜は、雨でずれ込んだ確認作業が続いた。展示室の湿度調整、プールサイドの照明角度再確認、パティスリーの搬入経路の変更。作業が終わり宿舎へ戻るころには、日付が変わる直前だった。響はシャワーを浴び、ようやくベッドへ腰を下ろした。静かだ。街の音がない。木が擦れる音と、遠くの排水の音だけが聞こえる。
それから十分ほど経ったころ、突然、外から甲高い声が響いた。
「ぎゃっ、ぎゃっ、すき! すき!」
レモンだ。
響は慌てて上着を羽織り、廊下へ出た。停電だった。宿舎の照明が落ち、非常灯だけが薄く光っている。窓の外では、施設全体の一部が暗く沈んでいた。たぶん山側の系統トラブルだろう。レモンのいる温室方向から、ばさばさと羽音がする。
「レモン!」
響が外へ出ようとした瞬間、玄関の向こうから足音が近づいた。
「響」
真叶だった。手には懐中電灯。濡れていないところを見ると、校舎側からまっすぐ来たのだろう。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないです。レモンが」
「温室は克洋が行ってる。俺はこっち」
「こっち?」
「君、暗いの平気じゃない顔してたから」
その言い方が悔しいほど当たっていて、響は一瞬言葉を失った。暗いのが苦手だ。特に、知らない場所の停電は落ち着かない。だがそれを言うより先に、真叶は懐中電灯を玄関へ置き、宿舎内のブレーカー位置を確認していた。
「宿舎だけじゃないな。五分くらいで復旧すると思う」
「どうしてわかるんですか」
「こういうの、経験値」
「何の」
「現場責任者の」
非常灯の薄明かりの中で、彼の横顔はいつもより静かに見えた。ふざける余裕が消え、代わりに手が速い。まず安全確認。次に連絡。最後に、人の顔色を見る。順番が体へ入っているのだとわかる。
「部屋、戻って」
「でも」
「レモンは大丈夫。君が転ぶほうが困る」
「私は転びません」
「暗い床でコード踏んだら転ぶ」
「……」
「ほら、こっち」
懐中電灯の明かりが、床の上の延長コードを照らした。見えていなかった。響は唇を噛む。
「だから嫌なんです」
「何が」
「そうやって、先に見つけるところ」
真叶は少しだけ目を丸くし、それから笑わずに言った。
「見えるんだから仕方ない」
「見えなくていいところまで見てそう」
「君のこと?」
「そうやってすぐ言葉にするの、やめてください」
「ごめん」
素直に謝られると、それ以上怒れない。
ほどなくして電気は戻った。廊下の照明がつき、宿舎の静けさが一気に日常へ戻る。外から克洋の声が聞こえ、レモンも落ち着いたらしい。真叶は玄関のところで立ち止まった。
「もう大丈夫」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
以前と同じ返しなのに、今回はふざけた色が少ない。響は少しだけ視線を上げた。
「真っ先に来たんですか」
「うん」
「どうして」
「怖がってるかもと思ったから」
「決めつけ」
「決めつけ」
「ひどい」
「でも当たってた」
「それは」
言い返したいのに、言葉が出ない。真叶はその沈黙を急かさず、ドアノブへ手をかけた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「レモンより先に寝て」
「無理です。あの子たぶん夜更かしです」
「それもそう」
ドアが閉まり、足音が遠ざかる。響はしばらく玄関に立ち尽くしていた。助かった。ありがたかった。認めるしかない。だが同時に、それが当たり前のように行われることがやはり怖い。誰かが先に気づいて、先に来て、先に守る。その行為の温かさに慣れてしまったら、自分の足が鈍る気がするからだ。
部屋へ戻ると、机の上のライトが白く光っていた。さっきまで「余計」としか思えなかった備品の数々が、今は少しだけ違って見える。過剰だ。うっとうしい。けれど、困る前に整えてあるから助かる。その事実を否定できない。
窓の外では、雲の切れ間から月が少しだけ覗いていた。敷地のあちこちに小さな明かりが戻り、作りかけの施設が夜の中でかすかに息をしている。響はベッドへ腰を下ろし、膝の上へ両手を重ねた。掌には何もないのに、懐中電灯の光で示された床の線や、先に来た足音の速さがまだ残っている。
同じ敷地にいるだけで、近すぎる。
そう思うのに、今夜のようなとき、その近さに救われてもしまう。
それがいちばん困るのだと、響は毛布へ潜り込んでからも長く眠れなかった。
【続】
【本文】
九月の終わり、山の天気は急に機嫌を変えた。朝から降り続いた雨が昼過ぎには本降りになり、夕方には施設へ上がる県道の一部で小規模な崩落が起きた。全面通行止めではないが、工事車両と通勤車両の通行時間が制限されるらしい。克洋から共有された工程表には、翌週いっぱいの搬入時間再調整がびっしり赤字で書き込まれていた。
「しばらく通いは厳しいですね」
克洋が会議室で淡々と言った。
「朝夕ともに渋滞が読めません。早朝作業や夜間確認が続く部署は、敷地内滞在へ切り替えたほうが安全です」
その視線が響へ向く。
響はすぐに首を振った。
「私は大丈夫です。朝早く出れば」
「夜の確認後に下山するほうが危険です」
「でも」
「旧教員宿舎に空きがあります」
真叶が横から言った。
「必要な備品は入れておく」
「いりません」
「まだ何も言ってない」
「備品って言葉の時点で嫌な予感がします」
会議室の端で晏寿が肩を震わせて笑っていた。
その日のうちに、話は半ば決まってしまった。安全上の理由。夜間確認への対応。資料や補修道具を毎日持ち運ばなくて済む利点。わかる。理屈はわかる。だが、同じ敷地に泊まるというのは、物理的な距離の問題以上にまずい気がした。真叶がいる現場に、仕事のあとも残ることになる。朝も夜も同じ空気を吸うことになる。近すぎる。
「顔が嫌そう」
荷物をまとめる響へ、佑里江が言った。
「嫌です」
「でも行く」
「仕事だからです」
「そういうことにしておきなさい」
「何ですか、その含み」
「ないわよ。ただ、近くにいると見えることも増えるってだけ」
「見たくないことも増えます」
「それもそう」
旧教員宿舎は、校舎の裏手を少し下った場所にあった。二階建ての小さな建物を改装し、長期滞在用の部屋がいくつか設けられている。外観は素朴だが、玄関や廊下には新しい木材が使われ、窓から見える山の斜面まできれいに整えられていた。克洋が鍵を渡し、必要設備の一覧を説明する。
「寝具、デスク、作業灯、簡易アイロン、救急箱、乾燥機つき洗濯機、裁縫道具の予備」
響は説明の途中で顔を上げた。
「裁縫道具の予備?」
「作業継続に必要と判断され」
「誰が判断したんですか」
「……」
克洋が言葉を選ぶ間もなく、後ろから真叶の声がした。
「俺」
響はその場で振り向く。
「過保護にもほどがあります」
「困る前に整えるのが俺の仕事」
「前にも聞きました」
「じゃあ覚えて」
「覚えたくありません」
「それは残念」
部屋へ入ると、嫌な予感はさらに当たった。机の上には仕事用の拡大鏡つきライト。窓辺には小さな加湿計。クローゼットの中には薄手の羽織りまである。台所の棚には紅茶、ハーブティー、クラッカー、そして晏寿の試作品らしき焼き菓子が一袋。ここまで来ると整えられているというより、監視の行き届いた保護区だった。
「誰がクラッカー置いたんですか」
「晏寿」
「じゃあ羽織りは」
「俺」
「聞いてません」
「山、夜冷えるから」
「私は寒ければ自分で出します」
「そう言うと思ったから、出す前に置いた」
「ほんとに嫌です、その先回り」
「でも使うでしょ」
「……」
「ほら」
言い返せないのが悔しい。
荷解きを終えたころには夕方になっていた。雨はやんだが、空気はまだ湿っている。宿舎から校舎までは歩いて三分もかからない。近い。近すぎる。響は部屋の窓を開け、山の匂いを吸い込んだ。遠くで工事の金属音がする。誰かの笑い声も少し。完全に閉じた場所ではなく、まだ作りかけの生活の中へ放り込まれたような感覚だ。
その夜は、雨でずれ込んだ確認作業が続いた。展示室の湿度調整、プールサイドの照明角度再確認、パティスリーの搬入経路の変更。作業が終わり宿舎へ戻るころには、日付が変わる直前だった。響はシャワーを浴び、ようやくベッドへ腰を下ろした。静かだ。街の音がない。木が擦れる音と、遠くの排水の音だけが聞こえる。
それから十分ほど経ったころ、突然、外から甲高い声が響いた。
「ぎゃっ、ぎゃっ、すき! すき!」
レモンだ。
響は慌てて上着を羽織り、廊下へ出た。停電だった。宿舎の照明が落ち、非常灯だけが薄く光っている。窓の外では、施設全体の一部が暗く沈んでいた。たぶん山側の系統トラブルだろう。レモンのいる温室方向から、ばさばさと羽音がする。
「レモン!」
響が外へ出ようとした瞬間、玄関の向こうから足音が近づいた。
「響」
真叶だった。手には懐中電灯。濡れていないところを見ると、校舎側からまっすぐ来たのだろう。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないです。レモンが」
「温室は克洋が行ってる。俺はこっち」
「こっち?」
「君、暗いの平気じゃない顔してたから」
その言い方が悔しいほど当たっていて、響は一瞬言葉を失った。暗いのが苦手だ。特に、知らない場所の停電は落ち着かない。だがそれを言うより先に、真叶は懐中電灯を玄関へ置き、宿舎内のブレーカー位置を確認していた。
「宿舎だけじゃないな。五分くらいで復旧すると思う」
「どうしてわかるんですか」
「こういうの、経験値」
「何の」
「現場責任者の」
非常灯の薄明かりの中で、彼の横顔はいつもより静かに見えた。ふざける余裕が消え、代わりに手が速い。まず安全確認。次に連絡。最後に、人の顔色を見る。順番が体へ入っているのだとわかる。
「部屋、戻って」
「でも」
「レモンは大丈夫。君が転ぶほうが困る」
「私は転びません」
「暗い床でコード踏んだら転ぶ」
「……」
「ほら、こっち」
懐中電灯の明かりが、床の上の延長コードを照らした。見えていなかった。響は唇を噛む。
「だから嫌なんです」
「何が」
「そうやって、先に見つけるところ」
真叶は少しだけ目を丸くし、それから笑わずに言った。
「見えるんだから仕方ない」
「見えなくていいところまで見てそう」
「君のこと?」
「そうやってすぐ言葉にするの、やめてください」
「ごめん」
素直に謝られると、それ以上怒れない。
ほどなくして電気は戻った。廊下の照明がつき、宿舎の静けさが一気に日常へ戻る。外から克洋の声が聞こえ、レモンも落ち着いたらしい。真叶は玄関のところで立ち止まった。
「もう大丈夫」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
以前と同じ返しなのに、今回はふざけた色が少ない。響は少しだけ視線を上げた。
「真っ先に来たんですか」
「うん」
「どうして」
「怖がってるかもと思ったから」
「決めつけ」
「決めつけ」
「ひどい」
「でも当たってた」
「それは」
言い返したいのに、言葉が出ない。真叶はその沈黙を急かさず、ドアノブへ手をかけた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「レモンより先に寝て」
「無理です。あの子たぶん夜更かしです」
「それもそう」
ドアが閉まり、足音が遠ざかる。響はしばらく玄関に立ち尽くしていた。助かった。ありがたかった。認めるしかない。だが同時に、それが当たり前のように行われることがやはり怖い。誰かが先に気づいて、先に来て、先に守る。その行為の温かさに慣れてしまったら、自分の足が鈍る気がするからだ。
部屋へ戻ると、机の上のライトが白く光っていた。さっきまで「余計」としか思えなかった備品の数々が、今は少しだけ違って見える。過剰だ。うっとうしい。けれど、困る前に整えてあるから助かる。その事実を否定できない。
窓の外では、雲の切れ間から月が少しだけ覗いていた。敷地のあちこちに小さな明かりが戻り、作りかけの施設が夜の中でかすかに息をしている。響はベッドへ腰を下ろし、膝の上へ両手を重ねた。掌には何もないのに、懐中電灯の光で示された床の線や、先に来た足音の速さがまだ残っている。
同じ敷地にいるだけで、近すぎる。
そう思うのに、今夜のようなとき、その近さに救われてもしまう。
それがいちばん困るのだと、響は毛布へ潜り込んでからも長く眠れなかった。
【続】