私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第9話 恋日記、最初の一頁
【本文】
 十月に入ると、山の朝はさらに白くなった。旧校舎の窓際には薄い霧が溜まり、床板の古い艶をぼかす。響は出勤前、習慣のように一度あの教室へ立ち寄るようになっていた。最初にレモンとノートを見つけた、窓側の教室。今では資料保全のために施錠されているが、鍵を預かっている久留巳が同席できるときだけ、中へ入ることが許される。

 その久留巳は、初対面の印象がとても不思議な人だった。紅茶色のカーディガンを羽織り、昼休みのようなゆるい顔で現れるのに、資料箱の位置や旧学園の人名になると驚くほど細かい。元教師だった叔母から学園資料の整理を託され、いまは簡易展示の監修も手伝っているらしい。

 「恋日記、気になる?」
 初めてまともに会った日に、久留巳はそう訊いた。
 響が正直にうなずくと、彼女は肩をすくめる。
 「だよね。題が強いもん」
 「勝手に読んでいいものかわからなくて」
 「読んでいい。というより、読まれる前提で残されたものかもしれない」
 「え」
 「完全な私記なら、もっと隠す場所あるでしょ。あの机の下って、見つけてって感じがする」

 そう言われるとたしかにそうだ。霧の入る教室の、窓際の後ろの机の下。隠しているようでいて、誰かが気づく余地を残している。

 久留巳は手袋をはめ、透明ケースへ入れた恋日記を机の上に置いた。
 「寄贈資料の目録には載ってない。でも、叔母が昔『展示企画の子が書いてたノートがどこかにある』って言ってた」
 「展示企画」
 「白鐘の卒業展示。題が『秋と少女とこころ変わり』」
 響は目を見開く。
 「それ、今度の展示タイトル候補と同じ」
 「でしょ。たぶん元ネタ」

 久留巳の許可を得て、響は初めてノートを開いた。紙は予想以上にしっかりしている。インクはところどころ薄いが、丸い字はまだ読み取れた。冒頭には日付ではなく、ただ短くこう書かれている。

 ――卒業まで、あと少し。
 ――秋は、なんでも遅れて来るものをきれいに見せる。

 響は息を止めた。最初の二行で、もう好きだと思ってしまった。上手いとか下手とかではない。言葉が、まっすぐ胸へ入ってくる。

 読み進めると、書き手は学園の卒業を控えた少女らしかった。将来が決まりきらず、周囲の友人たちが次々と進路を定めていく中で、自分だけが遅れているように感じている。教師への淡い憧れのような記述もある。だが中心にあるのは恋そのものではなく、「何者にもなれない自分」への焦りだった。
 ――誰かを好きになるより先に、私は何になるのだろう。
 ――このままでは、何にもならずに秋だけが終わってしまう。

 響はページをめくる指を止めた。隣で久留巳がそっと紅茶の蓋を閉める音がする。
 「痛い?」
 「……ちょっと」
 「わかる」
 久留巳は笑わなかった。

 そこへ真叶が遅れて教室へ入ってきた。朝の会議を終えたばかりらしく、ネクタイを少し緩めている。
 「始まってる?」
 「静かに」
 久留巳が指を立てる。
 「恋日記だから」
 真叶が素直に小声になったのがおかしくて、響は少しだけ肩の力を抜いた。

 次のページには、展示企画の準備の話が出てきた。古いドレスの選定、窓に吊るす布の色、教室へ差し込む午後の光。少女は誰かに評価されるためではなく、「いまの自分がいちばんきれいだと思うもの」を並べたいと書いている。まだ未熟でも、迷っていても、その迷いごと飾る展示にしたい、と。

 「この人」
 響はぽつりと言った。
 「好きです」
 真叶がすぐ横を向く。
 「誰を」
 「日記の書き手です」
 「そっか」
 返事が妙に短い。響が顔を上げると、真叶は少しだけ面白くなさそうな顔をしていた。
 「何ですか」
 「別に」
 「別にの顔じゃないです」
 「今の会話で、俺が割り込める余地あった?」
 久留巳が吹き出した。
 「すごい。生きてる嫉妬って感じ」
 「嫉妬じゃない」
 「そういうことにしとこう」
 久留巳のゆるさは、ときどき真叶すら押し切る。

 ノートの中盤近く、響の目はある一文で止まった。
 ――遅すぎた出会い、という言葉があるなら、それはきっと悲しい意味ではない。
 ――遅れて来たからこそ、ちゃんと見えるものもある。

 響はその行を指でなぞった。紙に直接触れないよう手袋越しに。遅すぎた出会い。言葉の形が、胸のどこかへ沈んでいく。自分にはもう遅いと思っていたことが、実はただ「まだ来ていなかった」だけかもしれない。そんなふうに読み替えられてしまう。

 「そこ、いいよね」
 久留巳が言う。
 「叔母も好きだったみたい。よく口にしてた」
 真叶が机の端へ手をつき、ノートを覗き込んだ。
 「遅すぎた出会い、か」
 「何ですか、その顔」
 響が訊くと、真叶は少しだけ笑う。
 「いや。使えそうだなって」
 「広報に?」
 「違う。自分に」
 それ以上は言わない。その含みが、逆に響を落ち着かなくさせた。

 資料保全の観点から、ノートは長時間開いておけない。久留巳はページごとに撮影し、文字起こしも進めることにした。その手配を真叶がすぐ整えたのはいつも通りだが、今日はそれが押しつけがましく見えなかった。響が「紙が乾きすぎると割れます」と言えば、翌日には適切な保湿ケースが届く。必要なものを言えば、物が来る。単純だがありがたい。

 「過保護」
 ケースを見た響がつぶやくと、真叶は片眉を上げた。
 「資料に対して?」
 「半分は」
 「残り半分は」
 「言いません」
 「言って」
 「言いません」

 昼休憩のあと、響は一人でノートの文字起こしを見直した。書き手は最後まで名前を名乗っていない。けれど、紙の上の揺れや迷いが、なぜか実在の体温を持って迫ってくる。学園を卒業して、未来へ出ていく前の不安。好きになることより先に、自分の輪郭を欲しがる切実さ。その全部が、いまの自分と無関係ではないと感じてしまう。

 夕方、真叶が資料室へ顔を出した。
 「まだ読んでる」
 「気になるので」
 「俺より?」
 「比べる対象が変です」
 「負けた感じがする」
 「誰に」
 「昔の女子生徒」
 「本気で言ってます?」
 「半分」
 「その半分が厄介です」

 真叶は笑いながらも、机の上に細長い箱を置いた。
 「これ」
 「何ですか」
 「保全用ケース。今日届いた」
 「早い」
 「必要だったから」
 「……ありがとうございます」
 「どういたしまして」
 「今回はちゃんとお礼です」
 「知ってる。だから嬉しい」
 また、そういうことを自然に言う。

 ケースへ移す作業を終えたとき、窓の外はもう薄暗かった。教室の床へ夕方の影が長く伸び、霧はないのに白い余韻だけが残る。久留巳がノートを抱えて立ち上がる。
 「続きはまた今度ね。最後まで一気に読まないほうが、この子に合う気がする」
 「この子、って」
 「書いた子」
 「会ったことあるんですか」
 「ない。でも紙から滲んでるタイプはわかる」
 久留巳は本当に、のんびりしているようで目がいい。

 帰り際、響はあの一文をもう一度思い出した。
 遅すぎた出会い。
 言葉ひとつで、人は勝手に救われる。そんなの都合がいいとわかっている。それでも、仕事のあとに宿舎へ戻る坂道の途中で、響は何度もその語感を口の中で転がしてしまった。

 山の空気は冷え、木の葉が少し色づき始めている。遅れて来るものがきれいに見える季節。もし本当にそうなら、いま自分の目の前へ増えてきたものたちにも、あとから意味がつくのだろうか。ノートの言葉。石の光。水辺の揺れ。そして、会うたびに距離感をおかしくしてくる男の視線まで。

 答えはまだいらない。
 けれど、知りたくはなっていた。
【続】

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