私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第10話 ドレスの裾が破けても
【本文】
 十月最初の金曜日、展示用に保存していた白いドレスの移送作業が行われた。旧学園時代の卒業記念衣装で、絹とレースを幾層にも重ねた一着だ。保存状態は比較的良いと判断されていたが、響は前日からほんの少しだけ不安を覚えていた。布地の光り方が、写真で見たときより乾いている。保管中の湿度変化か、あるいは目に見えない劣化か。断定するには弱い。だが嫌な予感だけが残る。

 移送は慎重に進んだ。マネキンへの着付けも、手袋を替えながら三人がかりで行う。肩、脇、腰までは問題なかった。裾を整える段になって、響が床へ膝をつき、最後のひだを持ち上げた瞬間だった。

 ちいさく、紙を裂くような音がした。

 世界が一瞬、そこだけで止まる。響の手の中で、ドレスの裾の一部がふわりとほどけた。大きくはない。だが「いま裂けた」とわかるには十分な傷だった。

 「……っ」
 息が詰まる。周囲の空気が硬くなる。誰も責めていないのに、体だけが先に冷えた。自分がもっと早く乾き具合を見抜けていれば。移送前に補強を提案していれば。頭の中で、たくさんの「先に」が一気に膨らむ。

 「動かさないで」
 真叶の声がした。いつの間にかすぐ後ろへ来ていたらしい。
 響はその場で止まる。真叶はしゃがみ込み、響の手元と裂け目を交互に見た。
 「誰の不注意でもない。劣化」
 「でも、私」
 「いま自己申告の反省会いらない」
 「……」
 「まず状態確認」

 克洋が周囲のスタッフを下げ、余計な視線を切った。真叶は響へ手袋を替えるよう促し、自分でも補助ライトを持つ。響は震えそうになる指先を押さえ込み、裂け目を確認した。表層だけではない。繊維自体が乾ききって脆くなっている。ここだけを綺麗に戻しても、別の箇所が次に裂けるかもしれない。

 「読み切れなかった」
 響は低く言った。
 「昨日、少し違和感があったのに」
 真叶はすぐには慰めなかった。その代わり、裂け目の周囲へ光を当てたまま訊く。
 「いまから取れる選択肢は」
 響は呼吸を整え、仕事の声を出した。
 「完全補修は危険です。負荷が別へ移ります。応急なら、裏打ちを最小限にして、裂けた事実を見せる方向で整える」
 「見せる?」
 「傷を消そうとすると、今度は布の時間が消えます」
 真叶の目がわずかに細くなる。
 「残った時間を見せる展示に変える」
 響は顔を上げた。自分が考えたことと、ほぼ同じ言葉だったからだ。
 「できますか」
 「君がやるなら」
 「……やります」
 「じゃあそれで行こう」

 周囲には驚きもあった。裂けたドレスを、あえて「無傷ではないもの」として見せる。普通なら事故隠しより難しい。だが響は、裂けた箇所を見つめながら逆に腹が据わっていくのを感じた。綺麗だった時間まで消すような補修はしたくない。ここまで残ってきた布が、最後に無理な若作りをさせられるのは違う。

 その日の午後、展示チームとの緊急調整が行われた。裂けを隠すのではなく、「越えてきた時間の痕跡」として解説文へ落とし込む案。補修箇所を近くで見せるための拡大写真。保存上無理のない角度での着付け。響はひとつひとつ説明し、必要な処置を整理した。
 「失敗をなかったことにするより、越えた証を見せたい」
 自分で口にして、その言葉が思った以上に自分自身へ返ってくる。

 会議後、真叶は展示室で試しに照明を落とし、裂けのある裾へだけやわらかな光を足した。傷を隠すのではなく、静かに見せる角度。響が驚いていると、真叶は言う。
 「ごまかすと、見抜く人にはすぐわかる」
 「今日みたいに?」
 「うん。あと、君が嫌がる」
 「よくわかってますね」
 「だいぶ」
 「勝手に分析しないでください」
 「分析じゃない。観察」
 「余計だめです」

 夕方、作業が一段落したころ、響は一人で補修室へこもった。裂けた裾へ裏打ちを入れ、負荷を逃がし、表からは最低限の調整だけをする。完璧に戻すのではなく、これ以上壊さないために支える。針を入れるたび、自分の中の焦りが少しずつほどけていく。

 そこへ真叶が、ノックも軽く入ってきた。
 「差し入れ」
 机の端へ置かれたのは温かいスープと、小さなパンだった。
 「いりません」
 「嘘。お腹鳴ってる」
 その通りで、響は悔しく黙った。
 「怒ってる?」
 「自分に」
 「それは長引くやつ」
 「でも、もし私が昨日もう少し強く言っていれば」
 「『もし』で仕事すると、今日の手元が死ぬ」
 真叶は椅子を引いて座り、作業を邪魔しない距離から続ける。
 「君が違和感を覚えてたのも事実。今日、すぐ選択肢を出したのも事実。そこまでは消すな」
 「……」
 「全部を自分の責任にすると、判断が雑になる」
 その言い方は、たぶん自分にも向けているのだと響は思った。

 針を置くと、真叶がスープの蓋を開けた。湯気がふわりと上がる。
 「食べて」
 「命令ですか」
 「お願い」
 「そう言えば通ると思ってます?」
 「半分」
 「ほんとに」
 「でも残り半分は、君が倒れると困るから」
 「私より展示では」
 「違う」
 切るように言われ、響は顔を上げた。真叶はスープを持ったまま、まっすぐ見ていた。
 「君がいないと、展示の意味が変わる」
 その重さに、響は何も返せなくなる。

 結局、スープは飲んだ。塩気がちょうどよくて、身体の奥へ静かに落ちていく。ひと口ごとに、自分が張り詰めすぎていたことがわかるのが嫌だった。真叶は食べ終わるまで余計なことを言わず、ただ補修の手元を見ていた。

 「この裂け」
 しばらくして響が言う。
 「見せるなら、説明文が要ります」
 「どんな」
 「『完全であることだけが美しさではない』って方向」
 「いいね」
 「まだ途中です」
 「途中でもいい」
 「……途中でも、いいんですか」
 「途中だから見たいものもある」
 その返事に、また妙な沈黙が落ちる。真叶はいつも、軽口と本音を同じ口から出す。そのせいで受け止める側が疲れる。けれど今日は、その疲れの奥に少しだけあたたかいものも混じっていた。

 夜遅く、補修を終えた裾は、裂けた事実を消さないまま落ち着いていた。布の流れも無理がない。響はライトを落とし、少し離れて眺めた。傷がある。けれど、壊れたままではない。越えた痕跡としてそこにある。

 「ドレスの裾が破けても」
 響が無意識に口にすると、真叶が繰り返した。
 「いい言葉」
 「まだ続きはありません」
 「そのうちつく?」
 「たぶん」
 「楽しみにしてる」
 そう言って、真叶は補修台の脇へそっと寄りかかった。

 ドレスの裾が破けても、終わりではない。
 手を入れ方さえ間違えなければ、傷は物語になる。
 その考え方が、なぜか布だけの話に思えなかった。
【続】

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