あと30日で、他人に戻るふたり
キーボードの音が、今日はやけに大きく聞こえた。


一定のリズムで鳴っているはずなのに、 どこか揃っていない気がする。

電話の呼び出し音も、 誰かの笑い声も、 全部が少しだけ耳についた。


自分のデスクについて、パソコンを立ち上げる。

起動音をぼんやり聞き流したあと、いつも通りにメールを開いて、 上から順に目を通していく。


……“いつも通り”、のはずだった。


同じ文章を 二回読んでいることに気づいて、途中で指が止まる。


「あれ……」

小さくつぶやいて、スクロールを戻す。

さっき、ここはちゃんと読んだはずなのに。
内容がうまく頭に入ってこない。

もう一度最初から読むと、きちんと理解はできる。
なんの問題もない。

それでも、 どこか一拍遅れる。


────私、どうしちゃったの?


まだ仕事は始まったばかりだというのに自分の集中力が途切れているんだと分かり、ついため息が漏れてしまった。


肩が少しだけ重い気がする。

マウスを持ったまま、 数秒だけ動けなかった。


頭の奥に、 ふっと何気なく言われた朝の言葉が浮かんだ。

『朝が楽しみになった』

……なんで今それ思い出すの。


でもこれだけ私が揺れているのは、絶対あの言葉のせいだと思う。

理由は分かっているのに、考えないようにしてキーボードに手を置いた。


文章を整えて、 必要な情報を丁寧に確実に並べていく。

いつもならもう少し迷わずに打てるけれど、今日はひとつひとつ確かめるみたいに進んでいく。


また指が止まりかけて、小さく息を吐いて気を取り直してから画面に視線を戻す。


キーボードの上で、 指が一瞬だけ迷った。
それでも、その迷いを打ち消すようにそのまま押す。

小さな音が鳴った。

いつもの動作、いつもの光景。それで終わりのはずなのに、 胸の奥になにかが引っかかったま残る。


椅子にもたれて、視線を上げる。

隣の席の人が誰かと笑っていたり、向こう側の人達は仕事とは関係のない他愛もない話をしていたりする。
もちろん、神妙な顔つきで電話をしている人もいた。


なにも変わらない、会社でのひと幕。

……それなのに、少しだけ自分ひとりが違う場所にいるみたいだった。


「……」

何も言わずに、 また画面に向き直った。

やることは、 まだ残っている。


再び私は仕事モードへ気持ちを切り替えてキーボードを叩き始めた。




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