あと30日で、他人に戻るふたり
いつもなら一緒にキッチンでできるはずの会話がないことが寂しくて、野菜を刻みながらカウンター越しに話しかけた。
「さっき、帰りに篠原さんに会ったんです」
「奥さんの方?」
「はい」
必要な具材を切ってザルに分けて、フライパンに油を入れる。
「今日は篠原さんちはお惣菜らしいです」
「あそこ、旦那さん忙しそうだもんね」
不意に私は見たことのない篠原さんの旦那さんの話題になって、ちょっと驚いた。
あまりに自然に彼の口から出たことにびっくりだ。
「えっ、会ったことあるんですか?」
「うん。でも、挨拶程度」
この人って案外ちゃんとそういうところはしっかりしてるんだよな、と思う。
初めて篠原さんに会った時もそうだったけれど、家で見せるめんどくさそうな顔や、だるそうな態度を外では出さないようにしているのかもしれない。
マンションの他の住人とすれ違っても、意外としっかり挨拶しているんだろうか。
野菜をフライパンに投入して、ある程度炒めてからうどんも入れる。
めんつゆで味付けして、塩コショウで整えたら完成だ。
案外あっという間に出来てしまった。
「もう出来たんですけど、運んでもいいですか?」
「やるよ」
立ち上がる気配がして、大地さんがキッチンに踏み込む。
盛り付けたお皿をふたつ手に取ると、そのままそれをリビングへ持っていってくれた。
「大地さんって、けっこう外ではコミュニケーションとるタイプですか?」
箸を渡しながら尋ねると、彼は少し考えるみたいに首をかしげる。
「うーん…、人による」
「あー、なんか、それっぽい」
めちゃくちゃ人を見て判断しそう。
テーブルの端に寄せて重ねられた書類を、あまり見ないようにしながら「いただきます」と声を揃える。
出来たてのうどんから、湯気が立つ。
それを箸でつかんで、ふたりで口に運んだ。
「うまっ。これ味付けなに?」
「めんつゆです」
「へぇ。めんつゆってこういうのにも使うんだ」
いつもと変わらずどうでもいい話をしながら、テレビに視線を送る。
テレビの向こうでは、芸能人たちが高級レストランで美味しそうなおしゃれなディナーを食べていた。
こっちの庶民的な焼きうどんのビジュアルといったら。
それでも、彼が普通に言ってくれる“うまい”はどこか私の気持ちをほどいてくれる。
「そういえば篠原さんち、今度娘さんのところに遊びに行ってくるって」
「───え?」
篠原さんの話題がまだ続いていたことにも目を丸くしたけれど、今はそこじゃない。
「ど、どこからそんな詳細情報を?」
「どこって、ご本人から聞いた。奥さんの方」
「えーっ!めっちゃ仲良くなってるじゃないですか!」
「そう?」
私なんてお子さんがいることさえも知らなかったのに。
なんだかそれもショック。
「社会人の一人っ子の娘さんが、北海道に住んでるところまでしか聞いてない」
「……それ、じゅうぶん深掘ってます」
焼きうどんを食べながら、私たちは結局最後まで篠原さん夫婦の話をしていた。
“引っ越し”という言葉は、一度も出なかった。
けれどテーブルの端に積まれた書類だけが、静かに現実を突きつけてくる。
それを見ないふりをしたまま、私はぬるくなったお茶をひと口飲んだ。
「さっき、帰りに篠原さんに会ったんです」
「奥さんの方?」
「はい」
必要な具材を切ってザルに分けて、フライパンに油を入れる。
「今日は篠原さんちはお惣菜らしいです」
「あそこ、旦那さん忙しそうだもんね」
不意に私は見たことのない篠原さんの旦那さんの話題になって、ちょっと驚いた。
あまりに自然に彼の口から出たことにびっくりだ。
「えっ、会ったことあるんですか?」
「うん。でも、挨拶程度」
この人って案外ちゃんとそういうところはしっかりしてるんだよな、と思う。
初めて篠原さんに会った時もそうだったけれど、家で見せるめんどくさそうな顔や、だるそうな態度を外では出さないようにしているのかもしれない。
マンションの他の住人とすれ違っても、意外としっかり挨拶しているんだろうか。
野菜をフライパンに投入して、ある程度炒めてからうどんも入れる。
めんつゆで味付けして、塩コショウで整えたら完成だ。
案外あっという間に出来てしまった。
「もう出来たんですけど、運んでもいいですか?」
「やるよ」
立ち上がる気配がして、大地さんがキッチンに踏み込む。
盛り付けたお皿をふたつ手に取ると、そのままそれをリビングへ持っていってくれた。
「大地さんって、けっこう外ではコミュニケーションとるタイプですか?」
箸を渡しながら尋ねると、彼は少し考えるみたいに首をかしげる。
「うーん…、人による」
「あー、なんか、それっぽい」
めちゃくちゃ人を見て判断しそう。
テーブルの端に寄せて重ねられた書類を、あまり見ないようにしながら「いただきます」と声を揃える。
出来たてのうどんから、湯気が立つ。
それを箸でつかんで、ふたりで口に運んだ。
「うまっ。これ味付けなに?」
「めんつゆです」
「へぇ。めんつゆってこういうのにも使うんだ」
いつもと変わらずどうでもいい話をしながら、テレビに視線を送る。
テレビの向こうでは、芸能人たちが高級レストランで美味しそうなおしゃれなディナーを食べていた。
こっちの庶民的な焼きうどんのビジュアルといったら。
それでも、彼が普通に言ってくれる“うまい”はどこか私の気持ちをほどいてくれる。
「そういえば篠原さんち、今度娘さんのところに遊びに行ってくるって」
「───え?」
篠原さんの話題がまだ続いていたことにも目を丸くしたけれど、今はそこじゃない。
「ど、どこからそんな詳細情報を?」
「どこって、ご本人から聞いた。奥さんの方」
「えーっ!めっちゃ仲良くなってるじゃないですか!」
「そう?」
私なんてお子さんがいることさえも知らなかったのに。
なんだかそれもショック。
「社会人の一人っ子の娘さんが、北海道に住んでるところまでしか聞いてない」
「……それ、じゅうぶん深掘ってます」
焼きうどんを食べながら、私たちは結局最後まで篠原さん夫婦の話をしていた。
“引っ越し”という言葉は、一度も出なかった。
けれどテーブルの端に積まれた書類だけが、静かに現実を突きつけてくる。
それを見ないふりをしたまま、私はぬるくなったお茶をひと口飲んだ。