恋から逃げるのには理由(わけ)があって
第1話 始まりはプロポーズ
その夜、チャイムが鳴った。
一人暮らしの部屋で、私、風早向日葵は片手にコンビニの割り箸、もう片手に半額シールつきの冷やし中華を持ったまま、玄関のほうを見た。
ピンポーン。
もう一度、鳴った。
「……」
私は息を吸って、チェーンをかけたままドアを少しだけ開けた。
玄関を開けると、王子姿の顔面国宝が隙間の向こうでこちらを見ていた。
長いまつげ。
すっと通った鼻筋。
薄く笑みを含んだ唇。
照明の安っぽい蛍光灯に照らされているのに、なぜか映画のワンシーンみたいに見える輪郭。
男は、私を見て、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「風早向日葵。迎えに来た」
男は、まっすぐに言った。
いや、知らない男ではない。
その顔を、私は知っている。
知っているどころじゃない。街の巨大広告にも、映画館の予告にも、海外ブランドの公式動画にも、ニュースサイトの見出しにも、たびたび現れる。
大空太陽――世界的俳優。日本を飛び出して、海外の映画賞のレッドカーペットで笑っている人。雑誌の表紙で「アジアの至宝」とか、本人が聞いたらどう反応するのかわからない二つ名を背負わされている人。
そして。
私が、小学生のころまで毎日のように一緒にいた幼馴染。
「……太陽くん」
「久しぶり、向日葵」
太陽は、昔みたいに私の名前を呼んだ。
向日葵、の「ひ」のところを少しやわらかく発音する癖。子どものころは気づかなかったのに、今はなぜか耳に残る。
「……久しぶり、です」
なぜ敬語。
自分で自分に突っ込んだ。
世界的俳優が、しかも王子姿で、しかも夜中に自宅のドア前に立っていたら、人はとりあえず敬語になる。たぶん法律で決まっている。
幼馴染の太陽は、私の敬語にほんの少しだけ笑った。
その笑顔だけで廊下の照度が三段階くらい上がった気がする。蛍光灯、仕事しなくていい。もう帰って。
「急に来てごめん」
「本当に急ですね」
「連絡先、持ってなかったから」
「そりゃそうでしょうね、十数年ぶりなので」
口が勝手に動いた。
こういう時、黙って可憐に驚ける人間でいたかった。だが今の私の可憐は事情があって在庫切れである。
太陽は、私の返しに困った様子もなく、まっすぐ私を見続けていた。
その目が、やけに真剣だった。
「太陽くん、どうしてここが」
「調べた」
「怖い」
「合法的に」
「なお怖い」
「向日葵のお母さんに聞いた」
「お母さん!」
裏切り者。
私は額を押さえた。
チェーン越しに王子姿の世界的俳優を眺めながら、母の個人情報管理について説教する未来が見えた。
「……何の用ですか」
「向日葵に会いに来た」
「それは、わかりました」
「迎えに来た」
「それは、さっき聞きました」
「結婚しよう」
沈黙。
廊下のどこかで、エアコンの室外機が低く唸った。
遠くの道路を、バイクが一台通り過ぎていく音がした。
私の部屋の中では、さっき置いた冷やし中華と割り箸の袋がかすかに鳴った気がした。
世界は動いている。
なのに、私だけが止まった。
「……確認なんですけど」
「うん」
「これは撮影ですか?」
「違う」
「ドッキリ番組」
「違う」
「新手の詐欺」
「向日葵」
「はい」
「俺、ずっと決めてたから。君と結婚するって」
即答だった。
ずっと。
私は視線を逸らした。
廊下の壁に貼られた古い掲示物が目に入る。ゴミ出しルール。騒音注意。自転車の無断駐輪禁止。あまりにも現実的な文字列が、王子姿の太陽の横で虚しく主張していた。
「向日葵」
また、名前を呼ばれた。
静かな声だった。
「君と結婚するために、俺は今まで生きてきた。だから、今夜君を迎えに来たんだ」
私は、右手でドアノブを握りしめた。
冷たい金属の感触が、かろうじて現実につなぎ止めてくれる。
「無理です」
やっと出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
太陽くんの目が、少し揺れた。
「向日葵」
「無理です。結婚とか、迎えに来たとか、そういうの、無理です。帰ってください」
そう言って、ドアを閉めた。
一人暮らしの部屋で、私、風早向日葵は片手にコンビニの割り箸、もう片手に半額シールつきの冷やし中華を持ったまま、玄関のほうを見た。
ピンポーン。
もう一度、鳴った。
「……」
私は息を吸って、チェーンをかけたままドアを少しだけ開けた。
玄関を開けると、王子姿の顔面国宝が隙間の向こうでこちらを見ていた。
長いまつげ。
すっと通った鼻筋。
薄く笑みを含んだ唇。
照明の安っぽい蛍光灯に照らされているのに、なぜか映画のワンシーンみたいに見える輪郭。
男は、私を見て、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「風早向日葵。迎えに来た」
男は、まっすぐに言った。
いや、知らない男ではない。
その顔を、私は知っている。
知っているどころじゃない。街の巨大広告にも、映画館の予告にも、海外ブランドの公式動画にも、ニュースサイトの見出しにも、たびたび現れる。
大空太陽――世界的俳優。日本を飛び出して、海外の映画賞のレッドカーペットで笑っている人。雑誌の表紙で「アジアの至宝」とか、本人が聞いたらどう反応するのかわからない二つ名を背負わされている人。
そして。
私が、小学生のころまで毎日のように一緒にいた幼馴染。
「……太陽くん」
「久しぶり、向日葵」
太陽は、昔みたいに私の名前を呼んだ。
向日葵、の「ひ」のところを少しやわらかく発音する癖。子どものころは気づかなかったのに、今はなぜか耳に残る。
「……久しぶり、です」
なぜ敬語。
自分で自分に突っ込んだ。
世界的俳優が、しかも王子姿で、しかも夜中に自宅のドア前に立っていたら、人はとりあえず敬語になる。たぶん法律で決まっている。
幼馴染の太陽は、私の敬語にほんの少しだけ笑った。
その笑顔だけで廊下の照度が三段階くらい上がった気がする。蛍光灯、仕事しなくていい。もう帰って。
「急に来てごめん」
「本当に急ですね」
「連絡先、持ってなかったから」
「そりゃそうでしょうね、十数年ぶりなので」
口が勝手に動いた。
こういう時、黙って可憐に驚ける人間でいたかった。だが今の私の可憐は事情があって在庫切れである。
太陽は、私の返しに困った様子もなく、まっすぐ私を見続けていた。
その目が、やけに真剣だった。
「太陽くん、どうしてここが」
「調べた」
「怖い」
「合法的に」
「なお怖い」
「向日葵のお母さんに聞いた」
「お母さん!」
裏切り者。
私は額を押さえた。
チェーン越しに王子姿の世界的俳優を眺めながら、母の個人情報管理について説教する未来が見えた。
「……何の用ですか」
「向日葵に会いに来た」
「それは、わかりました」
「迎えに来た」
「それは、さっき聞きました」
「結婚しよう」
沈黙。
廊下のどこかで、エアコンの室外機が低く唸った。
遠くの道路を、バイクが一台通り過ぎていく音がした。
私の部屋の中では、さっき置いた冷やし中華と割り箸の袋がかすかに鳴った気がした。
世界は動いている。
なのに、私だけが止まった。
「……確認なんですけど」
「うん」
「これは撮影ですか?」
「違う」
「ドッキリ番組」
「違う」
「新手の詐欺」
「向日葵」
「はい」
「俺、ずっと決めてたから。君と結婚するって」
即答だった。
ずっと。
私は視線を逸らした。
廊下の壁に貼られた古い掲示物が目に入る。ゴミ出しルール。騒音注意。自転車の無断駐輪禁止。あまりにも現実的な文字列が、王子姿の太陽の横で虚しく主張していた。
「向日葵」
また、名前を呼ばれた。
静かな声だった。
「君と結婚するために、俺は今まで生きてきた。だから、今夜君を迎えに来たんだ」
私は、右手でドアノブを握りしめた。
冷たい金属の感触が、かろうじて現実につなぎ止めてくれる。
「無理です」
やっと出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
太陽くんの目が、少し揺れた。
「向日葵」
「無理です。結婚とか、迎えに来たとか、そういうの、無理です。帰ってください」
そう言って、ドアを閉めた。