恋から逃げるのには理由(わけ)があって
ばたん、という音は思ったより小さかった。
チェーンが揺れて、金属音が玄関に残る。

私はドアノブから手を離せなかった。

世界的俳優で、十数年ぶりに再会した幼馴染で、王子姿で、私に「結婚しよう」と言った男を、私は締め出した。

背中をドアに預けると、膝から力が抜けた。
ずるずると座り込みそうになって、慌てて踏ん張る。玄関マットの上で崩れ落ちるには、まだ理性が残っている。残っていると思いたい。

心臓がうるさい。
耳の奥で、自分の鼓動が鳴っている。

私はゆっくり息を吐いた。
落ち着け。落ち着くのだ、向日葵。

その時、ドアの向こうで、かすかな衣擦れの音がした。

まだ、いる。

私は息を止めた。
帰っていない。足音もしない。エレベーターの音も、階段を下りる音もない。

そして、静かな声がした。

「向日葵」
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