恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――それから数日、世界はさらに少しずつ歪んでいった。

駅のホームでは、壁際に立つようになった。
人の気配が背中に近づくたび、肩が跳ねた。
会社では、給湯室の声が止まる瞬間が増えた。
机の上には、二度目の封筒が置かれていた。

『いつになったら別れるの?』

丸い文字。
かわいらしい便箋。
だから余計に気味が悪かった。

私はそれを見つめ、手が震えるのを必死に抑えた。

誰が。
どうして。
どこまで知っているの。

問いかけは頭の中をぐるぐる回ったけれど、答えはどこにもなかった。

スマホを握りしめる。
太陽に電話しようと思った。
今すぐ声を聞きたいと思った。

でも、画面には彼のスケジュールが表示されていた。

今日は大事なシーンの撮影日。
深夜までかかるかもしれないと、朝、彼は少し申し訳なさそうに言っていた。

『帰り、遅くなる。先に寝てて』

『ちゃんと食べて』

『あと、駅で転ばないように』

いつものメッセージ。
最後の一文に、私は少し笑ったはずだった。

なのに今は、その文字を見ただけで涙が出そうになる。

大丈夫。
大丈夫だから。

そう言い聞かせて、私は封筒をバッグの奥に押し込んだ。
< 100 / 179 >

この作品をシェア

pagetop