恋から逃げるのには理由(わけ)があって
鏡の中の私は、目の下にうっすら影を作っていた。
世界的俳優に求婚された女、というより、世界的俳優に睡眠時間を奪われた女である。ロマンスの欠片もない。

顔を洗い、髪をまとめ、玄関を見る。

昨日、太陽が立っていた場所。

そこには何もない。
当たり前だ。
帰ったのだから。

「よし」

私は深呼吸した。

今日からいつも通り、私の地味で安全な生活に戻る。

太陽は遠い世界の人。
映画館のスクリーンの中。
雑誌の表紙の上。
ネットニュースの見出しの向こう。

そこにいてくれればいい。
そこにいてくれれば、あなたを守れる。

そう思った瞬間。

ピンポーン。

私は固まった。

いやいやいやいや。
まさか。
昨日の今日で来るほど、いくらなんでも非常識では――。

ピンポーン。

非常識だった。

私はゆっくり玄関へ向かった。
チェーンをかけたままドアを少し開ける。

隙間の向こうに、黒いキャップと黒いマスクの男が立っていた。
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