恋から逃げるのには理由(わけ)があって
――その日の夕方、仕事からの帰宅中にスマホが震えた。

画面に表示された名前を見た瞬間、胸が変な音を立てる。

大空太陽。

『ごめん。今日は会いに行けない』

私は眉をひそめた。

いや、会いに来る予定をこちらは承認していない。
予定表に存在しない予定をキャンセルされても困る。勝手にイベントを立てないでいただきたい。

そう打とうとしたところで、次の文が届いた。

『少し熱がある。寝てれば治ると思う』

指先が、止まった。

熱。

その一文字で、周りの空気が少しだけ冷たくなる。
病院の白い廊下。消毒液の匂い。春までは難しい、という大人の声。
それから、一度目の人生の、あの夜。

私は息を吸った。
今の太陽は大人だ。昔の病気とは違う。風邪くらい誰でも引く。世界的俳優も人類である以上、ウイルスには平等に襲われる。

落ち着け、向日葵。

私は慎重に返信を打った。

『病院には行きましたか』

すぐに既読がついた。

『マネージャーに連絡した。薬もある。大丈夫』

大丈夫。

病人の大丈夫ほど信用できない単語もない。

『体温は?』

『三十八度五分』

高い。

『食べましたか』

少し間が空いた。

『水は飲んだ』

食べていない。

私は冷蔵庫の中身を思い返した。中には牛乳、卵、苦めのカラメルのプリン、半端な野菜。風邪の男を救済するには心許ないラインナップだった。

行かない。
行かないぞ。
ここで行ったら、私は完全に太陽の生活圏に足を踏み入れることになる。

けれど、スマホの画面には三十八度五分の文字。

気づいたら、私は自宅とは別方向に向かっていた。

「これは人道支援」

恋ではない。
未練でもない。
災害時に水を配るのと同じである。対象が世界的俳優で、駅前高級マンション在住で、私に求婚してきた幼馴染なだけだ。
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