恋から逃げるのには理由(わけ)があって
太陽は玄関へ向かった。
靴を履く動きまで静かで、丁寧で、腹が立つくらい綺麗だった。

ドアを開ける前、彼は振り返った。

「向日葵」

「……何ですか」

「冷やし中華、ちゃんと食べて」

「今それ言います?」

「食べないと、明日しんどいだろ」

そんなことまで覚えていなくていい。
私は昔、緊張すると食べられなくなる子どもだった。遠足の前の日も、発表会の朝も、太陽はいつも「食べて」と言った。

どうして今も、同じことを言うの。

「……帰ってください」

「うん。また来る」

「来ないでください」

「考えておく」

「考えなくていいです」

太陽は小さく笑って、今度こそドアを開けた。
廊下の冷たい空気が、部屋に流れ込む。

白いジャケットの背中が、古いアパートの廊下に出ていく。
映画の王子様みたいな格好なのに、その後ろ姿はなぜか少しだけ寂しそうに見えた。

ドアが閉まる直前、彼はもう一度だけ言った。

「向日葵。俺は、まだ諦めてないから」

ばたん、とドアが閉まった。

鍵をかける。
チェーンをかける。
今度こそ、私はドアの前に立ち尽くした。

足音が遠ざかっていく。
一歩ずつ、私から離れていく。

その音を聞きながら、私は唇を噛んだ。

嫌いになれたらよかった。
本当に、心の底から、迷惑だと思えたらよかった。

私は閉じたドアの向こう、もう見えない白い背中に向かって、小さくつぶやいた。

「私は、あなたとの恋から逃げるって決めたから」
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