恋から逃げるのには理由(わけ)があって
太陽が近づいてくる。
白いジャケットの刺繍が、蛍光灯の下で淡く光る。香水なのか、撮影現場の空気なのか、清潔で少し甘い匂いがした。

心臓が、嫌な音を立てる。

怖いわけじゃない。
いや、怖いのかもしれない。
でも、それは太陽が怖いんじゃない。

近づかれると、思い出してしまうからだ。

あたたかかった手。
必死に私を見た目。
何かを言いかけた唇。
届かなかった声。

私は無意識に、右手首を左手でつかんだ。

「向日葵?」

太陽くんの眉が、かすかに寄る。

「どうしてそんな顔するの」

「どんな顔ですか」

「泣きそうな顔」

していない。
していないはずだ。

私は逃げるようにドアのほうへ身体を向けた。

「帰って。お願いだから」

玄関へ向かおうとした瞬間、太陽の手が私の横を通り過ぎた。

とん、と壁に手がつく音。

私は動きを止めた。

目の前には太陽の胸。
横には彼の腕。
背中には壁。

これは。

これはまさか。

壁ドンって、フィクションじゃなかったの?

いや、待て。現実の壁ドンは思ったより圧がある。少女漫画だと花びらが舞っていた気がするけど、現実で舞うのは私の寿命である。ひらひら散っている。主に心臓周辺で。

「向日葵」

「……通報していい?」

私が真顔で言うと、太陽は一瞬固まった。

そして、すぐに手を引いた。

「ごめん」

彼は一歩、はっきりと距離を取った。

その速さに、私は逆に言葉を失った。
強引に詰めてきたくせに、私が本気で嫌がった瞬間、ちゃんと下がる。その線引きで彼の本気度がますますわかってしまう。

「怖がらせたかったわけじゃない」

「壁、叩かないでください。薄いんで」

「そこ?」

「大事なことです」

太陽が、ほんの少しだけ笑った。
昔と同じ笑い方だった。困ったように、でも嬉しそうに、目元だけがやわらかくなる。

胸が、また痛んだ。

「向日葵は変わらないね」

「変わりましたよ」

「そう?」

「変わりました」

声が強くなった。

私は自分の右手首から手を離した。
指先が冷たい。

「もう、子どもの頃みたいにはいられません。太陽くんがどれだけ昔のことを覚えていても、どれだけ本気でも、私は……私は、あなたとは」

言葉が詰まる。

あなたとは恋をしない。
あなたとは結婚しない。
あなたの隣には行かない。

そう言わなきゃいけない。
言わなきゃ、守れない。

なのに、喉がうまく動かない。

太陽は黙って待っていた。
急かさない。責めない。ただ、まっすぐ私を見る。

その優しさが、いちばん困る。

「とにかく、今日は帰ってください」

私はどうにか言った。

「これ以上いられたら、私、本当にどうしていいかわからなくなります」

太陽の表情が変わった。
ほんの一瞬だけ、傷ついた子どもみたいな顔になった。

けれどすぐに、彼は大人の顔に戻った。

「わかった。今日は帰る」

今日は。

その言葉に引っかかった私を見て、太陽は苦く笑った。

「言っておくけど、諦めたわけじゃない」

「そこは諦めてください」

「無理だ」

「即答しないでください」

「向日葵が即答で断ったから、俺も即答で返した」

「張り合うところじゃないです」

「まだ諦めてない」

低い声だった。
でも、怖くはなかった。

ただ、まっすぐすぎた。
こちらが逃げ道を探しているのに、彼は逃げ道ごと見つけてしまいそうな目をしていた。
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