有罪愛
 傷付いていると自覚してしまえば、きっと立ち直れなくなる。

 十九歳になった春佳は、ようやく自分の母が〝普通〟とは違うと理解した。

 毎日のように怒鳴られ、友達とろくに遊べない自分が〝可哀想〟なのも分かっている。

 けど、それを自覚したとしてどうなる?

 虐待されていると分かっても、母の状態が良くなる訳ではない。

 大学の講師も『人は三十五歳を超えたら大きく変わる事はできない』と言っていた。

 母がいつから病んだのか分からないが、ある日突然すべてが改善する訳がない。

 精神科に通って病名がつき、自立支援医療を受け、障碍手帳も持っている彼女が、いきなり薬を不必要とし、元気に働き始めるなどあり得ない。

 実現しない未来なんて、思い描くだけ無駄だ。

 兄も常々言っていた。

『他人と過去だけは変えられない。だから人に期待するだけ無駄だ。他人に〝こうやってほしい〟と期待するから、叶わなかった時にガッカリする。そんな事を続けて疲弊するぐらいなら、最初から他人に幻想を持たなければいい。家族であってもだ』

 兄の考えを聞いた時は、『随分冷たい考え方をするんだな』と思った。

 その時は『ふーん』と受け流したが、心の底には留め置いていた。

 そのあと人と衝突した時にフッと兄の言葉を思い出し、少しずつ納得していった。

(お母さんに劇的に良くなってほしいとか、怒らないでほしい、打たないでほしいと望むだけ無駄なのかもしれない)

 冬夜のように不要な感情を切り捨てられたら、もっと楽に生きられるだろう。

 だが涼子は毒親であろうがたった一人の母親だし、父が亡くなった今、できるだけ親孝行したい。

 ――と、〝表面〟のいい子の自分は思っている。

 けれどコインの裏側の自分は、感情の起伏が激しい母から逃れ、素直に「疲れた」「悲しい」「誰かにもっと褒められたい」と弱音を吐きたがっていた。

 しかし出会いのない春佳には、優しく受け入れて褒めてくれる彼氏はいない。

 それに千絵以外の友達には、あまり家庭の事情を話さないようにしている。

 高校生の時に友人に母の愚痴を言ったら、『それって毒親じゃん』と言われ、何となく嫌な気持ちになってしまった。

 事実でも、母を悪く言われたくなかったからだ。

 友人に『毒親から離れたほうがいいよ』と言われても、春佳には生活能力がない。

 次第に、母の愚痴を言う割には何も行動しない春佳に、友人たちもなんと声を掛ければいいか分からなくなったらしい。

 そのうち悩みを話そうとしたら、話題を避けられるようになってしまった。

 そんな友人の態度を見て、兄の言葉が脳裏で蘇る。

『人に期待するだけ無駄だ』

 ――そうだね。そうなのかもしれない。

 納得したあとは、双方のために本音を話さない事を選択した。

〝理解〟した春佳には、兄と千絵以外、まともな相談相手がいなかった。

「お母さんの好きなプリン買ってきたから、食べようか」

 心の痛みを押し殺した春佳は、努めて微笑んで冷蔵庫を開けた。




**




 父の死から半月経ち八月に入った頃から、母は頻繁に外に飲みに行くようになり、飲み屋で意気投合したらしい岩淵(いわぶち)という男を家に連れ込むようになった。

 岩淵は五十代半ばで、経営コンサルタントをしているらしい。

 家庭を持っているかは聞いた事がないが、春佳と同じぐらいの子供がいてもおかしくない歳だ。

 なのに、そんな大人がだらしなく他人の家に入り浸っているのがとても嫌だった。

 岩淵は洒落た服装をしているが、それを見ると『胡散臭い』と感じてしまう。

 彼が瀧沢家に入り浸るようになってから、春佳のささやかな平和が壊された。

 母は岩淵とリビングで飲み交わし、さほど面白くないテレビを見て馬鹿笑いする。

 ノーブラでしどけなく岩淵にしなだれかかる母の姿を見ると、正視していられなかった。

(ちょっと前まで、この家にはお父さんがいたのに)

 そう思うものの、母は岩淵に甘える事で夫を失った悲しみを誤魔化していると分かっている。

 気持ちは理解できるが、嫌で堪らなかった。

 岩淵は他人の家にいるのに遠慮がなく、冷蔵庫を平気で開けるし、我が家のように風呂場を使う。

 そんななか、何回か風呂場で岩淵とニアミスし、ヒヤッとした事もあった。

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