有罪愛
壊れゆく母、事件
「ただいま」
小石川にあるマンションに帰った春佳は、小さな声で帰りを告げる。
玄関ドアを開けた時から酒の匂いがし、彼女は母がまた際限なく缶ビールや日本酒、焼酎のボトルを空けている事を知って溜め息をつく。
リビングダイニングに向かうと、あちらこちらに空き瓶、空き缶が散乱し、ソファにはTシャツにリラックスパンツ姿の母が横になり、いびきをかいて眠っていた。
その様子を見て息を吐いた春佳は、つけっぱなしになっていたテレビを消し、買ってきたコンビニスイーツを冷蔵庫にしまってから、散らかった室内を片づけ始めた。
すすいだ物の水を切ってゴミ袋に入れていると、母が目を覚ましたようだった。
母――涼子は緩慢な動作で起き上がり、ソファに座って胡乱な目で春佳を見ている。
「ただいま。コンビニスイーツ買ってきたから、一緒に食べようか」
春佳はあえて明るく言ったが、涼子はいきなり怒鳴り始めた。
「あんた、昨晩どこに行ってたの! 男とホテルに泊まってたの!?」
一方的に決めつけられるのも、もう慣れている。
「合コンの途中で帰って、お兄ちゃんのマンションに泊まらせてもらったよ。連絡したと思うけど」
「うるさいっ! 言い訳するな! 合コンなんかに行くなって言ったでしょ!」
涼子は春佳の言葉に被せるように怒鳴り、眦をつり上げる。
昔の写真で見た涼子は、春佳と似た面差しの大人く優しそうな女性だった。
だが今はすっかり人相が変わり、猜疑心が表情にこびりついている。
「一体、二人で何してたんだか……」
「兄妹で何かある訳ないでしょ」
本当は匂わせ程度の事はあったが、自分は実の兄とどうかなるつもりはない。
(家族三人、お父さんの死を受け入れられずに、どこかおかしくなってしまっただけ。きっと時間が経ったら、みんな元に戻る)
母はそのうち深酒は良くないと悟ってくれるはずだし、兄だって今は空虚感から寂しさを感じているだけで、誰かに縋りたくなっただけだろう。
妹をからかって憂さ晴らしをし、自分を慰めただけに決まっている。
(今は歯車がかみ合わないだけ)
母に憎々しげに睨まれても、そう思ってやり過ごすしかない。
「お母さん、あんまりお酒を飲むの良くないよ」
「うるさい! 指図するな!」
ヒステリックに叫んだ涼子は、近くにあったティッシュの箱を掴み、春佳に投げつけてきた。
とっさに顔を庇って横を向いたが、ティッシュの箱は春佳の肩に当たって落ちる。
無言でそれを拾いキッチン台に置いた春佳は、悲しげな眼差しで母を見た。
その視線を受け、涼子はますます怒りに顔を歪ませる。
「……庸一さんじゃなくて、お前が死ねば良かったんだ」
吐き捨てるように言った言葉が、ザクリと胸を刺した。
(いつも言われているから大丈夫)
春佳は自分に言い聞かせ、慰める。
母は昔から感情的になると、すぐに娘を傷つける事を言う人だった。
そのくせとても過保護で、春佳が友達と遊びに行くというと異様に心配し、少しでも遅くなれば怒鳴って叱った。
だから春佳は周囲から「つまらない」と言われようが、必死に門限を守り続けた。
春佳は常に母の機嫌を窺い、繊細な母が悲しまないように気を遣って生きている。
友達の話を聞いた時、〝普通〟の母親はそんな事を言わないと知ってショックを受けた。
――どうやら自分の母親は〝毒親〟と呼ばれるものかもしれない。
そう思い始めたのは、高校生頃だ。
でも春佳にとって母は〝繊細だけどいい人〟で、自分さえルールを守れば怒られる事はない。
怒っていない時の母は穏やかで、優しい人だからだ。
父は相談事をしても答えをくれない人だったが、母は機嫌のいい時なら助言してくれた。
だからいま母が荒れているのは、夫を喪った上に、娘が外泊して心配をかけたからだ。
『お前が死ねば良かった』と言ったのだって、母は父をとても愛していたのだから理解できる。
自分の子供より夫を大切に思う母親がいても、まったくおかしくない。
――私が我慢すればいいだけ。
春佳は自分に言い聞かせ、柔らかな心にグサグサと言葉の刃が刺さり、血が滴っても気づかぬふりをし続けた。
小石川にあるマンションに帰った春佳は、小さな声で帰りを告げる。
玄関ドアを開けた時から酒の匂いがし、彼女は母がまた際限なく缶ビールや日本酒、焼酎のボトルを空けている事を知って溜め息をつく。
リビングダイニングに向かうと、あちらこちらに空き瓶、空き缶が散乱し、ソファにはTシャツにリラックスパンツ姿の母が横になり、いびきをかいて眠っていた。
その様子を見て息を吐いた春佳は、つけっぱなしになっていたテレビを消し、買ってきたコンビニスイーツを冷蔵庫にしまってから、散らかった室内を片づけ始めた。
すすいだ物の水を切ってゴミ袋に入れていると、母が目を覚ましたようだった。
母――涼子は緩慢な動作で起き上がり、ソファに座って胡乱な目で春佳を見ている。
「ただいま。コンビニスイーツ買ってきたから、一緒に食べようか」
春佳はあえて明るく言ったが、涼子はいきなり怒鳴り始めた。
「あんた、昨晩どこに行ってたの! 男とホテルに泊まってたの!?」
一方的に決めつけられるのも、もう慣れている。
「合コンの途中で帰って、お兄ちゃんのマンションに泊まらせてもらったよ。連絡したと思うけど」
「うるさいっ! 言い訳するな! 合コンなんかに行くなって言ったでしょ!」
涼子は春佳の言葉に被せるように怒鳴り、眦をつり上げる。
昔の写真で見た涼子は、春佳と似た面差しの大人く優しそうな女性だった。
だが今はすっかり人相が変わり、猜疑心が表情にこびりついている。
「一体、二人で何してたんだか……」
「兄妹で何かある訳ないでしょ」
本当は匂わせ程度の事はあったが、自分は実の兄とどうかなるつもりはない。
(家族三人、お父さんの死を受け入れられずに、どこかおかしくなってしまっただけ。きっと時間が経ったら、みんな元に戻る)
母はそのうち深酒は良くないと悟ってくれるはずだし、兄だって今は空虚感から寂しさを感じているだけで、誰かに縋りたくなっただけだろう。
妹をからかって憂さ晴らしをし、自分を慰めただけに決まっている。
(今は歯車がかみ合わないだけ)
母に憎々しげに睨まれても、そう思ってやり過ごすしかない。
「お母さん、あんまりお酒を飲むの良くないよ」
「うるさい! 指図するな!」
ヒステリックに叫んだ涼子は、近くにあったティッシュの箱を掴み、春佳に投げつけてきた。
とっさに顔を庇って横を向いたが、ティッシュの箱は春佳の肩に当たって落ちる。
無言でそれを拾いキッチン台に置いた春佳は、悲しげな眼差しで母を見た。
その視線を受け、涼子はますます怒りに顔を歪ませる。
「……庸一さんじゃなくて、お前が死ねば良かったんだ」
吐き捨てるように言った言葉が、ザクリと胸を刺した。
(いつも言われているから大丈夫)
春佳は自分に言い聞かせ、慰める。
母は昔から感情的になると、すぐに娘を傷つける事を言う人だった。
そのくせとても過保護で、春佳が友達と遊びに行くというと異様に心配し、少しでも遅くなれば怒鳴って叱った。
だから春佳は周囲から「つまらない」と言われようが、必死に門限を守り続けた。
春佳は常に母の機嫌を窺い、繊細な母が悲しまないように気を遣って生きている。
友達の話を聞いた時、〝普通〟の母親はそんな事を言わないと知ってショックを受けた。
――どうやら自分の母親は〝毒親〟と呼ばれるものかもしれない。
そう思い始めたのは、高校生頃だ。
でも春佳にとって母は〝繊細だけどいい人〟で、自分さえルールを守れば怒られる事はない。
怒っていない時の母は穏やかで、優しい人だからだ。
父は相談事をしても答えをくれない人だったが、母は機嫌のいい時なら助言してくれた。
だからいま母が荒れているのは、夫を喪った上に、娘が外泊して心配をかけたからだ。
『お前が死ねば良かった』と言ったのだって、母は父をとても愛していたのだから理解できる。
自分の子供より夫を大切に思う母親がいても、まったくおかしくない。
――私が我慢すればいいだけ。
春佳は自分に言い聞かせ、柔らかな心にグサグサと言葉の刃が刺さり、血が滴っても気づかぬふりをし続けた。