有罪愛
 ずっと気になっていたパソコンの前に座ったのは、十一月半ばの事だ。

(街はクリスマス一色になっているのに、私、何やってるんだろう)

 クリスマスイブはかき入れ時のため、アルバイトの予定が入っている。

 だがその前の週末には千絵と女子会をするし、イブは冬夜の誕生日なので、彼にプレゼントを買うつもりでいた。

 千絵とのクリスマス女子会ではイタリアンのランチコースを予約し、冬夜への贈り物を買うのに付き合ってもらう予定だ。

 涼子とはいまだ面会しておらず、さすがに冬夜に『お見舞いに行きたい』と言ったが、『絶対にやめておけ』と言われている。

 だが、自分でも分かっていた。

 本気で母に会いたいなら入院先の病院は知っているから、「娘です」と言って面会させてもらえばいい。

 なのに冬夜に言われた言葉が春佳の足を止めている。

『〝自分がいなきゃ駄目なんだ〟と思ったら、お前はまたかいがいしく母親の世話をするだろう。それじゃあ、同じ事の繰り返しだ』

 兄の言葉は正しい。正しいからこそ、母と顔を合わせたらまた罵倒されないか、依存されないか……と不安になってしまう。

 実家で母と暮らしていた時の事を思いだすと、胸の奥をギュッと掴まれたような感覚になり、呼吸が苦しくなる。

 安全な環境で生活するようになって、ようやくこれが母によって長年刻まれた呪い、トラウマなのだと理解した。

 今だって、すべてから解放されたわけではない。

 街中を歩いていて大きな声を聞くと、必要以上に驚き、酷い時は動けなくなってしまう。

 普通に友達と話していても、怒らせないように、不機嫌にさせないように、とても気を遣って言葉を選んでいる。

 それでも、ささやかな平和は掴めた。

 いつ人に嫌われるか、怒られるか、ビクビクしながらも、春佳は精一杯〝普通〟のありがたみを味わっている。

 今の生活を愛しむからこそ、牢獄の中にいたような〝昔〟の象徴である母に会うのがとても怖かった。

 そんな彼女を一人で守り、支えているのが冬夜だ。

 今、春佳は兄のもとで、とても幸せな生活を送っている。

 思い出に苛まれる事はあっても、現実の春佳を害する者は誰もいない。

(何をやってるの。お兄ちゃんは幸せの象徴。それを疑って、パソコンの中身を見ようとするなんて……)

 ロック画面には京都の嵐山らしき、竹林の写真がある。

 春佳は自分を責めながらも、震える手でエンターキーを押した。

 するとPINコードを求める画面が現れ、彼女の思考は一時停止する。

 四桁の数字と言われても、無限の組み合わせがある。

 一つずつ数字を変えてロック解除しようとするなど、時間が幾らあっても足りない。

 パソコンの詳しい事は分からないが、何回も間違えたら開けられなくなるかもしれず、そんな事態になれば自分のした事がバレる。

 チラッと時計を見ると二十時前だ。

 ここ数日、冬夜は仕事が忙しいらしく、いわゆるデスマーチ状態にある。

 家に帰ってきてもシャワーを浴びて着替え、すぐ会社に戻ったり、深夜に帰って早朝まで寝てからすぐ出社している。

 倒れてしまわないか心配だが、その案件さえ乗り越えればもとの生活に戻れるらしく、疲労の濃い顔で『頑張る』と言っていた。

 だから春佳は少しでも手伝いたいと思い、夜のうちに弁当を作っていた。

 朝起きるとダイニングテーブルの上に『弁当ありがとう。○○が美味しかった』と感想があり、作りがいがある。

 冬夜が一生懸命働いているのを知っているからこそ、彼の不在時にパソコンを覗き見している自分が嫌で堪らない。

(……お兄ちゃんに隠し事はないって確認したいだけ)

 小村の件さえなければ、春佳は何も疑わずに今の幸せを甘受していただろう。

 だが、世間知らずの春佳とて、兄を盲信している訳ではない。

 気に入らない女の言う事だとしても、彼女の言葉が真実である可能性はあるのだ。

 そして、なぜ兄が自分に嘘をついたのかを知りたい。

 嘘をつかれていると言っても、実害はないと言っていい。

『職場の女性の先輩に迫られて困っている』

 それぐらいの嘘なら、誰でもつく可能性がある。

 だからこそ違和感があるのだ。

(お兄ちゃんは黙っていてもモテるし、妹の私にそんな嘘をつくメリットがない)

 常識的な自分が結論を出し、もう一人の自分が馬鹿みたいな事を思いつく。

 ――私に嫉妬してほしかった?

(まさか)

 春佳は内心で突っ込み、溜め息をつく。

(お兄ちゃんが私に嫉妬してほしいと思っている? 私の事を好き? 確かに大切にされてはいるけど、まさかそんな……)

 ありえないと思いながら、ある事を思いついた春佳はテンキーを押す。

〝0303〟と打った途端、パッと画面が変わった。

「……嘘でしょ……」

 春佳は嘆くように呟き、両肘をデスクにつき顔を覆った。

 打ち込んだ数字は、春佳の誕生日――、三月三日だった。

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