有罪愛
 春佳は俺にとっての、たった一つの聖域だった。

 妹を守る事で脆く崩れそうな自分を保てたし、彼女と将来一緒に住む夢を持っていたから、どんな事があっても負けずにいられた。

『なのに……っ』

 マンションの寝室で、俺は涙を零し打ち震える。

『待ってろ春佳。俺が害虫駆除して、居心地のいい人生を用意してやるから』

 俺は涙を流し充血した目で、暗い部屋に落ちる闇を睨む。

 父親さえ排除すれば、精神を病んだ母親を追い込むのは簡単だ。

『あと少し、この世を謳歌しろ』

 計画が実行される七月半ばには、蝉が鳴いているだろう。

 ――これは蝉の復讐だ。

 長いあいだ土の中で耐え忍び、地上に出たあと、それまでの鬱憤を晴らすかのように精一杯声を響かせる。

 この殺人は俺の声なき叫びだ。

 あと少しでこの苦悩が終わると思うと嬉しくて堪らず、俺は一筋の涙を流す。

 仮に殺人がバレても、妹のために捕まるなら後悔はない。

 警察には『異常性愛者から妹を守るために殺しました』と言ってやる。

 それでも世間が俺を犯罪者と誹るなら、この世界はその程度という事だ。






 七月になり、俺は連休の一週間前の週末に京都へ行き、金、土、日曜日をかけてあちこち駆けずり回り、証拠写真を撮りためた。

 さほど使っていないSNSアカウントがあるので、一週間後になればスケジュール通り写真を投稿していけばいい。

 あらかじめスマホのExif情報はオフにし、これで、ネット上の写真から撮影日時を割り出す事は不可能になる。

 俺は連休が始まる金曜日に新幹線に乗って京都へ向かい、予約していた大型ホテルにチェックインしてぶらついたあと、日曜日の夕方に持ってきた荷物で女装した。

 京都に行っているはずの俺が、父親が殺された日に東京にいてはまずい。

 この日のためにあらかじめ脱毛サロンに行って無駄毛を処理し、〝背の高い女〟と見られるようにしておいた。

 ロングヘアのかつらを被った俺は、パッドの入ったブラジャーをし、マキシ丈のワンピースに大きめのカーディガンを羽織り、帽子を被ってサングラスを掛けた。

 カーディガンは肩幅や体格を隠すためもあるし、腕には子供の頃に父親に抵抗した時、痣になった痕があるので、普段から長袖で過ごす習慣があった。

 このご時世、夏場でもマスクをしている人は大勢いるし、百七十三センチの女性だって珍しくないだろう。

 京都は世界中から観光客が押し寄せるし、東京には多種多様な人がいる。

 少し身長が高い女がいても、そう目立つ事はない。

 ホテルも宿泊客が大勢いる所にしたし、男が変装したと思われないだろう。

 俺は女性物のバッグを持って夕方に出ると、京都駅から東京行きの新幹線に乗った。

 前日の夜、父親にメールを入れておいた。

【話があるから、日曜日の夜は家にいてくれ】

【分かった】

 それだけのやり取りだが、向こうも三月にあれだけ煽ったのだから、俺がなんらかのアクションを起こすと分かっているはずだ。

 このメールはあいつを殺したあとに削除すれば問題ない。

 東京駅に着いたあとは三田線に乗って実家に向かう。

 サングラスの奥から周囲の人に注目されていないか窺ったが、新幹線でも駅構内でも、特に注目を浴びてはいないようだ。

 ――思っていたより、別人になるのは簡単かもしれない。

 俺は列車に揺られながらそんな事を考える。

 何度この人生をやめて、別の人間として歩みたいと思ったか分からない。

 あんな両親のもとに生まれたくなかったし、もっとまともで愛情溢れる親がいる家庭で育ちたかった。

 だが今の人生を否定すれば、俺のたった一つの希望である春佳をも否定する事になる。

 ――春佳を守るためなら……。

 俺はテーマパークで楽しく過ごしている妹を思い、目を閉じて静かに拳を握った。





 女装した理由は、マンションのエントランスに防犯カメラがついているからだ。

 だが古めのマンションのため、エレベーターや廊下にはついていない。

 だから夜遅くにマンションに入った俺が、何階で下りたかは誰も分からないだろう。

 夕方以降は管理人室のシャッターは下りているし、ファミリー層が住むマンションなので、二十一時を過ぎたあとに建物内で人とすれ違う確率は低い。

 久しぶりに実家前に立った俺は、異様に高鳴る胸を必死に落ち着かせる。

 そして捨てるつもりだった実家の鍵を手にし、鍵穴に挿し込んで回す。

 ガチャリと鈍い音がしたあと、俺は目を閉じてゆっくりと息を吐き、バッグから薄手のゴム手袋を出して嵌め、さらにその上に軍手をつけた。

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