シンデレラ・ララバイ
六時半に起きて、まず自分の支度をする。それから心の朝食の準備。
気づけばそれが当たり前になっていた。
少ししてから起きてくる徹にも、自分用に作るついでに、朝食をいつの間にか用意するようになった。
「おはよう心、今日もプリチーだね」
「パパ、一花せんせえおはよう〜」
炊飯器から上がる真っ白な湯気を見ながら、卵を溶く規則的な音が耳に飛び込んでくる。
「おはよう心ちゃん、パパと顔洗っておいで」
一花は、じゅう、とフライパンに卵が流れていくのを見ながら、心に向かって声をかけた。
寝ぼけた心に直接関わるのは、徹がいる時はできるだけ徹に任せることにしている。
一花は食事を出したり、園バッグに持ち物を詰めたりと補助に留めるが、徹が朝からいない時などは一花が全て行う。
「僕は今日朝からちょっと行かなきゃなので、一花さんお願いします!心行ってきます!保育園楽しんでね」
「うん、パパ行ってらっしゃい〜!」
「行ってらっしゃい」
行ってらっしゃい、と保護者を見送る時の普段の言葉だが、徹にそういう時、たまに家族のような、まるで新婚夫婦のような気恥ずかしさを感じてしまう。お父さん、ではなく、徹さん、と呼ぶようになったからだろうか。
きっちり締められたネクタイの結び目や、微かに漂うシトラス系の香水の匂い。
園で保護者を見送るのとは違う、もっと近くて生々しい距離に、少しだけ心拍が上がる。
「心ちゃん、制服は自分で着れるかな?」
「うん、見ててー!」
心の残りの支度をし、八時半になったら心を保育園に連れていく。
一度帰宅して、軽く掃除と買い物。夜ご飯の仕込みをして、徹が在宅の日は昼も簡単に用意する。
徹は、それは業務範囲外だからそれなら家政婦さんを週二にするし、エステにでも行っていてくださいと言ったが、丁重にお断りして、業務契約書の「子どもの生活管理・社長の生活基盤サポート」の一環ですと言い張り、不本意そうな徹に認めさせた。ほとんどあの広くて快適な自宅で、テレビをつけながらゴロゴロさせてもらっているので、さすがにそれくらいはさせていただく。
十五時半になったらお迎えに行き、公園に寄ったり、雨の日は室内遊び場に寄ったりして帰宅する。
作っておいた夕食を温めて食べさせて、お風呂に心と一緒に入る。
最初は園児に裸を見せるのも、と躊躇していたが心がゴネたので折れた。
親子揃って、ゴネ出すと非常に執念深いと学んだ。
お風呂から出て、心が塗り絵やお絵描きなどを楽しんでいると徹が帰ってくる。最近は早く帰宅する日も増えたように思う。徹が帰ってきてからは、一花はまた補助に徹するようにしていて、徹が寝かしつけを行うこともしばしば。
「今日は時間かかりました…」
「帰りに寄った、室内遊び場でも体を動かさずにおもちゃで遊んでいましたから、あんまり疲れてなかったのかもしれないです」
「なるほど…体力がついてきたんでしょうか」
「それもありますね」
徹が風呂に入っている間に、徹用に作っておいた夕食を温めてテーブルの上に用意しておく。そこで一花も向かいに座って、今日の出来事を話す。
「今日はエステ行きました?」
「だから、行かないですって」
「行けばいいのにー、せっかく僕あのホテルの会員なのに勿体ないです」
「徹さんが行けばいいじゃないですか」
「僕は時間ないんですもんー」
「じゃあ会員辞めればいいじゃないですか」
「付き合いなんですよー」
「じゃあもう知らないです」
徹とは、何かを言ってもそれを上回る言葉で返ってくるので、面倒くさそうな気配を感じたら一花はあまり相手にしない。
時間ないんですもん、とか言う五歳年上の男性にまともに返しても自分が損するだけだ、と割り切っている。
「そういえばディズニープラスにも加入したので、観てていいんですよ」
「またそうやって、色んな方法で私を堕落させようとして」
「堕落じゃないです、息抜きです、嫌ならエステ行ってくれればいいんですけど」
「どういう理論ですか」
今日は豚肉が安かったのでピカタにしてみた。安かったと言っても近所のオーガニックスーパーの豚肉なので高いは高い。
別に節約しろなんて一度も言われていないし、何なら目の前の男は金を使わせようとしてくるが、そこは染みついた貧乏根性でどうしようもない。
「最近は、僕もできるだけ調整して帰るようにしていて、心とお風呂に一緒に入れる日が増えたのも、一花さんのご飯を食べるのも楽しみです」
徹が黄金色に焼けたピカタを頬張りながら、にこりと笑ってそう言った。
湯気と一緒に、卵と肉の香ばしい匂いが広がる。
美味しそうに咀嚼する彼の喉が上下するのを、一花は視線を外しながら見つめる。
「調整…してるんですか?」
「ええ、心が寝た後に仕事はしていますが…」
それは知っている。
夜、水を飲みにキッチンへ行く時、彼の部屋のドアの隙間から漏れる青白いLEDの光を思い出す。
最近、帰宅時間が早いとは思っていたが、やはりそれは、徹の采配で調整していたのだと分かる。
「……」
「一花さん?…どうしました?」
初めて、ここにきた日のことを、一花はまだ覚えている。
広いリビングは、きれいに片付けられていて生活感が薄い。
おもちゃも全て備え付けの棚の中に入れられていて、きちんと整頓されたそれは、外部の人間によるものだとすぐにわかった。
誰も迎えに来てくれなくて、気丈に振る舞う心の姿。
毎日シッターさんにご飯と風呂と、寝かしつけをしてもらって。
徹はあの時、毎日シッターさんと顔を合わせるわけではないと言っていた。
それは、もし心が起きた時に、誰もいないということだ。
もし、そこで何かあったり、事故があったらどうするんだろう。
そう思った記憶は、まだ消えない。
「じゃあ…あの日も、調整してくれていれば…」
「……」
「っすみません、私、出過ぎたことを、」
「…一花さん」
椅子が床と擦れる、乾いた音が響く。徹が立ち上がった気配がした。
でも、顔を上げられなかった。
つい、この居心地のいい空間と、徹の柔らかい雰囲気に慣れて、思ったことが口からついて出た。目の前の徹の顔は見られない。でも動きが止まっていることはわかる。
自分の指先が、冷えたグラスの表面をなぞって震えている気がする。
「っ、すみません、私、」
「いいんですよ」
「あっ、明日はお休みですし、私、家に、帰ります…っ」
徹は何も言わなかった。表情は、見ていないので分からない。
彼がどんな顔をしているのか、見るのが怖い。
大理石のテーブルの、無機質な冷たさだけが手のひらから伝わる。
逃げ帰るようにして徹の家を後にし、久しぶりに電車を使った。
家に着いて鍵を回すと、ガチャンという音が、静まり返った玄関に響いた。
金属が擦れる、安っぽい音だった。久しぶりに聞いたかもしれない。
よくある壁紙が貼られた白い壁に、淡いベージュの木の板のフローリング。
自動で開くドアも、防音性の高い壁も大理石のテーブルもここにはない。
放置した部屋は、どこか埃っぽくて、自分が脱ぎ捨てた生活の匂いが充満していた。
一花は少しざらついた綿のシーツに顔を埋めて、無理やり目を閉じた。