あの人が来ると、空気が変わる―正論では、人は動かない―

■第1話 やりなさい”では動かない

夕方。

「宿題終わったの?」

キッチンから声をかけると、リビングのソファに寝転んだまま、恒一がちらっとこちらを見た。

「…まだ」

「まだって、もうこの時間だよ?」

テレビの音だけがやけに大きく響く。

陽菜は、スマホのインカメラを見ながら、前髪を指でくるくるといじっている。
小さく首をかしげて、角度を変えてはまた見つめる。

まるで、鏡とにらめっこしているみたいに。

湊は床に座ってゲーム。

誰も、動かない。

「ねえ、やることやってからにしようって言ってるよね?」

少し強めに言うと、

「わかってるって」

返事はする。
でも、動かない。

――なんで?

なんでこんな簡単なことができないの?

「宿題して、そのあとプラスアルファの勉強もやらないとでしょ?」

そう言った瞬間、

「……何それ」

恒一が顔をしかめた。

「プラスアルファって何やるの?」

言葉が詰まる。

「それは……自分で考えて……」

「何すればいいかわからんのに、やれって言われても無理やろ」

ピタッと空気が止まった。

正論だった。

でも――

「やらなきゃいけないでしょ!」

思わず強く言ってしまう。

その瞬間、空気が冷えた。

「……もういい」

恒一は目をそらして、またソファに沈んだ。

陽菜も、湊も、何も言わない。

ただ、誰もこちらを見なくなった。

――あぁ、まただ。

言えば言うほど、離れていく。

どうしたらいいの?

その時だった。

「ちょっといい?」

ふいに、玄関の方から声がした。

振り向くと、ひとりの女性が立っていた。

ラフな服装で、どこか柔らかい雰囲気。
でも、目だけはまっすぐだった。

「え…どちら様…?」

「たまたま通りかかっただけ」

にこっと笑う。

「なんかさ、“やれって言われてるのに動けない空気”だったから」

ドキッとした。

見抜かれてる。

女性は、子どもたちの方を見る。

「今のさ、“プラスアルファやりなさい”ってやつ」

子どもたちが少しだけ顔を上げる。

「何やればいいか分からんよね?」

恒一が、小さくうなずいた。

「ママもさ、正直決めれてないでしょ?」

「……はい」

思わず、素直に出た。

女性はふっと笑った。

「それなのに“やれ”って言われたら、そりゃ動けないよね」

誰も否定しない。

静かに、言葉が入っていく。

「ねえ」

女性は少ししゃがんで、子どもたちと目線を合わせた。

「勉強ってさ、“増やすこと”が目的じゃないんだよ」

みんなが、彼女を見る。

「“できることを増やす時間”」

一瞬、空気が止まった。

「だからさ、何するか分からんままやるのって、一番しんどい」

恒一の表情が、少しだけ変わる。

「じゃあどうするか」

女性は軽く手を叩いた。

「決めればいいんだよ。みんなで」

「……え?」

「今日、自分がやること。1個だけ」

子どもたちが顔を見合わせる。

「できるかどうかじゃなくて、“やりたいこと”でいい」

「やりたいこと…?」

「そう。例えば、計算でもいいし、漢字でもいいし、本でもいい」

少しずつ、空気が動き始める。

「じゃあ…」

恒一がぼそっと言った。

「計算のやつやる」

陽菜が、スマホから目を離して、少しだけ顔を上げる。

さっきまで自分の世界にいたはずなのに、今はちゃんとみんなの方を見ている。

「じゃあ私は…本読む」

湊が、

「ぼく、漢字書く」

小さく言った。

その瞬間――

さっきまで動かなかった空気が、ふっと変わった。

女性は美咲の方を見た。

「ね?」

その一言だけだった。

でも、全部伝わった。

――やらせるんじゃない。

――決めさせるんだ。

気づいた時には、

「それ、いいやん」

自然とそう言っていた。

子どもたちは、それぞれ自分の場所に行き始める。

さっきまであんなに動かなかったのに。

女性は立ち上がった。

「どうせやるなら、楽しい方がいいでしょ」

そう言って、くるっと背を向ける。

「ちょっと待って!」

思わず呼び止めた。

「あなた、誰なんですか?」

女性は振り返らずに、軽く手を振った。

「ただの、お助けマン」

玄関のドアが閉まる。

静かになったリビングで、

鉛筆の音だけが、コツコツと響いていた。
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