あの人が来ると、空気が変わる―正論では、人は動かない―

■第10話 間にいるだけじゃ、何も変わらない

オフィス。

パソコンの画面に向かいながら、悠斗は小さく息をついた。

「これ、今日中な」

上司が資料を置く。

「あとで後輩にも振っといて」

「…はい」

短く返事をする。

デスクに戻ると、後輩が声をかけてきた。

「これ、どうやればいいですか?」

「えっと…」

言葉に詰まる。

上司のやり方と、自分のやり方。

どっちで伝えるべきか、迷う。

「とりあえず…これやっといて」

曖昧に答える。

「…分かりました」

でも、その顔は少し困っていた。

しばらくして。

「すみません、これ違いますか?」

やり直し。

また説明。

またズレる。

(なんでうまくいかないんだ…)

上司の言うことをそのまま伝えてもダメ。

自分で考えて伝えてもズレる。

板挟み。

「ちゃんとやれよ」

上司の一言が刺さる。

「すみません…」

でも、何をどうすればいいのか分からない。

その時だった。

「ちょっといい?」

聞き覚えのある声。

振り向くと、オフィスの端に、あの女性が立っていた。

「……」

もう、驚かない。

女性は、ゆっくりと近づいてくる。

「今のさ」

静かに言う。

「上司の言葉、ちゃんと伝えた?」

「…伝えました」

「後輩、理解してた?」

「……」

答えられない。

「ねえ」

少しだけ優しく言う。

「“伝えた”と、“伝わった”は違うよ」

――あ。

どこかで聞いた言葉。

「上司は、“結果”を見てる」

「後輩は、“やり方”を知りたい」

一拍おく。

「で、悠斗さんは?」

まっすぐ見る。

「“間にいるだけ”になってる」

言葉が刺さる。

「じゃあどうするか」

女性は続ける。

「つなげる」

「……つなげる?」

「上司に、“何をどうしてほしいか”聞く」

「後輩に、“どう考えてるか”聞く」

シンプルだった。

でも、それだけだった。

悠斗は、少し考えて、

上司の方へ向かう。

「すみません」

「ん?」

「この資料、どこを一番重視したいですか?」

上司は少し考えて、

「ここだな」

と指をさす。

「ここがズレると意味ない」

「分かりました」

次に、後輩の元へ行く。

「今、どうやろうとしてる?」

「えっと…こうですかね」

「じゃあ、この部分だけ意識してみて」

指をさす。

「ここが一番大事らしい」

「…あ、なるほど」

後輩の顔が変わる。

「分かりました、やってみます」

しばらくして。

「できました」

見せてもらう。

さっきとは違う。

ちゃんと、揃っている。

「いいじゃん」

自然とそう言葉が出る。

胸の奥が、少し軽くなる。

――あぁ。

間にいるんじゃなくて、

つなげるんだ。

顔を上げると、

女性の姿はなかった。

でも、

さっきまでの空気とは、明らかに違っていた。



その夜。

リビング。

それぞれが、それぞれの時間を過ごしている。

でも――

どこか、前とは違う。

美咲は、ふと思う。

(あの人が来ると…)

悠斗も、仕事のことを思い出しながら感じる。

(空気が変わる)

恒一は、教室でのことを思い出していた。

(ちゃんとするんじゃなくて…)

陽菜は、友達とのやりとりを思い返す。

(合わせるんじゃなくて…)

湊は、小さくつぶやく。

「ちゃんとって、人によって違うんや」

それぞれの中で、

少しずつ、何かが変わっている。

誰かに言われたわけじゃない。

でも、確かに残っている。

――あの人が来ると、空気が変わる。

ふと、

同じ言葉が浮かぶ。

そして、もう一つ。

強くじゃなくていい。

押しつけなくていい。

ただ、

分かる形にするだけでいい。

――正論では、人は動かない。

静かな夜の中で、

それぞれが、同じことを思っていた。
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