僕の秘密と、彼女の嘘
「ありがとうね、響」

母がそう言うのも、めずらしい。

「奏には、少し優しくしてあげて」

「……分かってる。ピアノ以外では、ちゃんと優しいつもり」

小さく苦笑がこぼれる。

母は不器用だ。
音楽にまっすぐすぎて、人の心まで同じ強さで引っ張ってしまう。

話はそれで終わりかと思った。

けれど――

「で?」

「……何?」

母の目が、ほんの少しだけ真剣さを帯びる。

「奏の歌は、あなたから見てどうなの?」

急に教師の顔になった。

「上手いと思うよ。声量もあるし、音程も安定してる。なにより……歌うのが好きだって伝わる」

「……そう」

その短い返事の奥で、母の中の何かが動いたのが分かった。

「声楽、か」

ぽつりと呟く。

嫌な予感、というよりは――
新しい扉が開く音がした。

「なるほど、声楽もいいわね。声楽科の先生ってどんな人がいたかしら……」

ああ。

母の目が、完全に"見つけた顔"になっていた。

奏、僕は余計なことを言ったかも。
たぶん、次のレッスンからはピアノだけじゃなく、声楽(スパルタ)が始まってしまう。
まだぶつぶつと考え込んでいる母を残して、
僕は逃げるように防音室を出た。
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