ぼくの裾が揺れる春

第18話 ぼくの裾が揺れる春(完)

 玄関に立つと、靴の先より先に、膝の裏が落ち着かなかった。

 説明会の封筒は、昨日のうちに何度も開いて閉じた。申込書も、持ちものの紙も、時間の書かれた案内も、順番まで覚えてしまうくらい見たのに、朝になるとまた足りないものがある気がする。母は食卓の上で封筒の角をそろえ、「これ入れた?」「上履き袋は?」といつもの調子で確認した。父はコートを着たまま、腕時計を一度だけ見ている。

 ぼくは返事の前に、鞄の持ち手を握り直した。

「……うん」

 母が近づいてきて、ぼくの肩口を少し払う。何もついていないはずなのに、そうしたかったみたいな手つきだった。それから、言うかどうか迷う顔を一瞬して、結局「寒いから、体育館なら上着脱がなくていいか聞いてからにしなさい」とだけ言った。

 父は玄関の鍵を取る。

「行くぞ」

 低い声で、それだけだった。

 家を出ると、空気はまだ冬のほうに近い。日差しはあるのに、風だけが細く冷たい。駅までの道で、母は説明会の開始時間のことをもう一度確認して、父はうなずくだけにした。ぼくは歩道の白い線を見て歩いた。鞄の中で封筒の角が、歩くたびに小さく当たる。前みたいに背中へ刺さる感じではない。けれど、軽いとも言えなかった。

 中学の体育館には、もうかなり人が集まっていた。

 入り口のガラス戸を開けると、ワックスの匂いが少し冷たく鼻に入る。床の木目は広くて、蛍光灯の白さがやけにまっすぐだった。折りたたみ椅子が何列も並び、前のほうには制服の見本がマネキンに着せられている。紺の上着。白いシャツ。細いリボン。スラックス。スカート。遠くから見ても、プリーツの折り目だけははっきりしていた。

 保護者の声が、体育館の高い天井で少し薄く広がっている。受付の机、資料を配る先生、列を作る新入生。みんなただ説明会に来ているだけの顔をしているのに、ぼくだけが、その中に一枚別の紙を混ぜてしまったみたいだった。

「相沢くん」

 声のしたほうを見ると、ひよりが母親らしい人の隣に立っていた。紺のコートの前を押さえたまま、こっちへ小さく手を上げる。蓮はその少し後ろで、もう椅子に座る前から落ち着かなさそうに周りを見ていた。真帆は受付でもらった紙を半分に折らず、そのまま持っている。

 三人がいるだけで、胸の奥の固さが全部なくなるわけじゃない。ただ、どこに立てばいいかわからない感じだけは少し減った。

 ひよりが近づいてくる。

「大丈夫?」

 聞き方は軽くなかった。でも、深くも聞かない。

 ぼくはすぐに答えられず、マネキンのスカートの折り目を見てから言った。

「……たぶん」

 蓮が横から入る。

「たぶんって言ってる時点で大丈夫じゃないやつじゃん」

「うるさい」

 ひよりが即座に返すと、蓮は「いや、でも事実だろ」と言いながら鼻の頭をこすった。真帆だけは少し遅れてこっちへ来て、ぼくの鞄の持ち手を見た。

「手、白い」

 言われて初めて、強く握りすぎていたことに気づく。

 ぼくは力をゆるめた。

「……うん」

 真帆はそれ以上言わない。ただ、前みたいに半歩ずれた位置へ立つ。その立ち方のまま、小さく言った。

「決めたこと、変わってないなら、それでいいよ」

 父と母は少し後ろで受付を済ませていた。父はこっちを見ていたけれど、近くまでは来ない。母は書類の入った封筒を腕に抱え、何か言いたそうにして、結局言わなかった。

 説明が始まると、椅子の並んだ列へ順番に座った。

 学校生活の話。持ちものの説明。部活動のこと。体育館の床から冷えがじわじわ上がってくる。前の席の子の上着の襟が少し曲がっているのが見えた。隣の列では、誰かの保護者が資料をめくるたびに紙の音がする。校長先生の話は半分も頭に入らなかった。耳に入るのは、次に制服採寸と申込確認がある、というところだけだった。

 その言葉が出た瞬間、喉の奥がまた乾く。

 椅子を立つ音が一斉にする。ざわめきが少しだけ近くなる。体育館の横には長机が並べられていて、上着、シャツ、セーター、スラックス、スカートの見本がそれぞれ掛けられていた。採寸用のメジャーを首から下げた先生たちが何人かいて、順番に案内している。

 スカートは、思っていたより近いところにあった。

 紺の布。硬すぎない厚み。ひざ下まで届くくらいの丈。折り目はきれいで、まっすぐだった。家で持っていた水色のワンピースとも、真帆の家の鏡の前で何度も見た裾とも違う。制服のかたちをした、毎日の布だった。

 列が前へ動く。

 上着のサイズを見られる。シャツの首回りを見られる。先生の手は仕事の手つきで、そこまではただの採寸だった。ぼくも返事をして、袖を通して、脱いで、たたんで渡す。

 その先に、下衣の机がある。

 左にスラックス。
 右にスカート。

 たったそれだけの並びなのに、足もとの感覚が急に薄くなる。ここまでは流れに乗って来られたのに、最後の二歩だけは、自分で決めて出さなきゃいけない。

「次の人、下衣どうぞ」

 女の先生が言った。

 声は事務的だった。けれど、その一言でまわりの音が少しだけ変わる。保護者のざわめきが遠のくかわりに、近くの息づかいばかりが耳へ入る。だれかが見ている。見ている気がする、じゃなくて、今はたぶん本当に見ている。

 ぼくは右を見た。

 スカートのほうへ一歩出る。

 それだけで、空気が小さく引っかかった。

 近くの列の子が、何かを言いかけて止まる。少し離れたところで、保護者らしい人のひそひそ声が重なる。目の前の先生が、手元の申込書を見て、それからぼくの顔を見た。

「……相沢湊くん?」

「はい」

 自分の声が、自分の喉を通っていないみたいに薄い。

 先生は紙をもう一度見る。

「下衣、スカートで申請?」

 まわりに聞こえないようにしたかったのかもしれない。でも、体育館のざわめきの中では、その確認の仕方自体が逆に浮いた。

「……はい」

 今度は前より少し小さくなる。

 先生は困ったように、隣の机の先生を見る。そこから先の視線の動きで、もう何人かに伝わったのがわかった。

「え、男子で?」
「規定では選べるけど……」
「いや、でもそれは」
「おかしいでしょ」

 声は全部、大きくはない。だから余計に逃げにくい。体育館のざわめきに混ざっているのに、そこだけ輪郭がある。

 ぼくの足は、その場から動けなくなった。

 右に出したはずの一歩が、次へつながらない。床の冷たさだけが、上履きの底からはっきり上がってくる。手の中の申込書が少し湿っている。目の前の紺のプリーツは、さっきより急に遠かった。

「前例、ありますか」
「こういうのはちょっと困るわね」
「気持ち悪い……」

 最後の声は、どこから来たのかわからなかった。先生だったのか、後ろの保護者だったのか、同じ新入生だったのか。わからないのに、その曖昧さごと胸へ入ってくる。

 もう一度だけ、母に言われた昔の声がよみがえる。
 男の子が女の子の服を着るのはおかしい事よ。

 あのときと同じように、身体のほうが先に小さくなりかける。

 そのときだった。

「いいじゃん」

 ひよりの声が、思っていたより近くで聞こえた。

 振り向くと、ひよりは自分の母親の少し前へ出ていた。顔は赤くも強張ってもいない。ただ、いつも服を見るときと同じ目で、机の上のスカートとぼくを見比べている。

「その形のほうが湊くんに合うよ」

 体育館のざわめきの中で、その声だけが変に澄んでいた。

「いいじゃん、似合うよ」

 胸の奥が、そこで一回だけ動く。

 蓮もすぐ前へ出た。表情はうまく作れていない。たぶん怒っているのと、緊張しているのと、両方混ざっていた。

「規定なんだろ」

 誰に向けて言ったのかはっきりしないまま、少し大きめの声で言う。

「選べるなら別にいいじゃん。笑うほうがおかしいだろ」

 言い終わりだけ、少しかすれた。でも、引かなかった。

 真帆はぼくのすぐ斜め後ろまで来ていた。

「止まらなくていい」

 小さい声だった。

 けれど、いま必要なのはその大きさだった。

「このために来たんでしょ」

 その言い方は、慰めじゃない。前に決めたことを、そのまま返してくる言い方だった。

 ぼくは申込書の端を持ち直した。

 それでも、まだ足の裏は動かなかった。

 その場のざわめきの向こうから、急に別の声が割って入る。

「なんだなんだ、朝から人だかり作って」

 体育館の端にいた大きな人が、こちらへ歩いてきた。

 最初に目に入ったのは、腕だった。ジャージの袖の下から出た前腕が太くて、毛が濃い。首も肩も大きい。胸に下げた笛が、歩くたびに小さく揺れる。顔つきまで怖いわけじゃないのに、近づいてくるだけで周りの人が半歩ぶん空く。

 その先生は、周囲を見るより先に、ぼくを見た。

 正確には、ぼくの顔より少し下、止まった足と、握りすぎた紙と、今にも引きそうな肩を見た。

「おまえ」

 声は大きいのに、向きはまっすぐだった。

「着たいのか」

 周りのざわめきが、一瞬だけ薄くなる。

 聞かれたのは、それだけだった。

 理由でも、説明でも、言い訳でもない。

 ぼくは唇を閉じて、それから開く。喉の奥はまだ乾いていた。けれど、ひよりの「似合うよ」と、真帆の「このために来たんでしょ」と、父の「それでもか」が、一度にそこへ集まる。

「……着たい」

 やっと出た声は、十分大きくはなかった。

 でも、その先生にはちゃんと届いたらしい。

 先生はそこで、急に大きく笑った。

 体育館の天井へぶつかって返ってくるくらい、遠慮のない笑い声だった。

「なら、着ればいいだろうが」

 机の向こうの先生たちも、ざわついていた保護者も、その声に一度だけ黙る。

「好きに理由は要らないんだからな」

 短かった。

 ほんとうに、それだけだった。

 説教みたいな長さも、きれいな理屈もない。ただ、その先生は周りじゃなく、ぼくを見たまま言った。だから、その言葉は空気へ向けて投げられたというより、先にぼくの足もとへ落ちた。

 誰かが息をのみ、誰かが目をそらす。さっきまで聞こえていたひそひそ声は、なくなったわけじゃない。けれど、同じ形では続けにくくなったのがわかった。

 父がそのとき、ようやく一歩前へ出た。

 大きな動きじゃない。ただ、ぼくの少し後ろへ立つ。その立ち位置だけで、ひとりじゃないことが背中のほうから伝わる。母は封筒を抱えたまま、強く口を結んでいた。その顔はまだ困ってもいたし、緊張もしていた。でも、ぼくを引こうとはしなかった。

 机の向こうの先生が、咳払いをひとつした。

「……では、サイズを合わせます」

 さっきまでとは少し違う、固い声だった。

 ぼくはやっと前へ出る。

 スカートが机の上から持ち上げられる。紺の布は近くで見ると少しだけ光を吸って、折り目の谷だけが濃く見えた。先生が差し出したそれを、ぼくは両手で受け取る。

 思っていたより、ちゃんと重い。

 軽い飾りの服じゃない。毎日着るための布の重さだった。指先にざらつきがあり、折り目の線はきれいで、裾の端はまっすぐだった。家で初めて持ち上げた水色のワンピースとも、五つ隣の町へ持って行った手さげ袋の中の服とも違う。これは隠すためのものじゃない。

 ぼくが選んだものだった。

 採寸のあいだ、周りの視線が消えたわけじゃない。肩のあたりが熱くなる瞬間もあったし、離れたところでまた何か言われていたかもしれない。でも、もうさっきみたいに、その一言で全部が止まる感じではなかった。

 ひよりが少し離れたところで親指を立ててみせて、蓮がそれを見て「それは違うだろ」と小さく突っ込んでいる。真帆はそんな二人の横で、こっちがちゃんと立っているかだけを見ていた。大きな先生は、もう別の列の子に「上着の袖、そこ長いぞ」と言っていて、さっきの一言を引きずる様子もなかった。

 帰り道、駅までの風はまだ冷たかった。

 でも、体育館の中で止まっていた空気よりはずっとましだった。母は行きより少し静かで、父は歩幅を合わせることだけをしていた。駅前の信号で止まったとき、母がようやく口を開く。

「……お昼、帰ったら何か温かいのにしようか」

 それだけだった。

 ぼくはうなずく。

 父は前を向いたまま言う。

「決めたな」

 短い声だった。

「……うん」

 返事をすると、信号が青になった。

 家へ戻ると、母はほんとうに台所へまっすぐ入って、鍋に火をかけた。湯の立つ音が、居間の静けさに細く混じる。父は脱いだコートを椅子の背に掛け、食卓の端へ説明会の封筒を置いた。ぼくは鞄を下ろして、その封筒の角を見る。朝より少し折れていた。

 昼は、あたたかいうどんだった。

 湯気が上がって、白いねぎが少し揺れる。ぼくは箸で麺を持ち上げながら、体育館の机の上にあった紺のプリーツを思い出していた。父も母も、その場のことを細かくは言わない。母は「熱いから気をつけて」と言い、父は七味の瓶を一度だけこちらへ寄せた。いつもの家の昼だった。なのに、さっきまで会場で聞こえていた声の形だけが、まだ耳の奥に残っている。

 食べ終わったあと、母が封筒の中から控えの紙を出した。

 注文したサイズ、受け取りの日、入学式までの日付。黒い字が、食卓の木目の上にまっすぐ並ぶ。

「なくさないようにしないとね」

 母はそう言って、冷蔵庫の横に紙をはさんだ。父は「受け取りの日、俺もいる」とだけ言った。

 ぼくはその紙を見たまま、少しだけ息を吐く。

 会場で選んだことは、もうその場の勢いじゃなかった。家の中の壁に貼られた時点で、それはちゃんとこの家へ入ってきていた。

 それから数日して、制服の箱が届いた。

 玄関で宅配の人から受け取った段ボールは、思っていたより大きくなかった。母がカッターでテープを切る。箱を開けると、新しい布の匂いと、薄い紙の匂いが一緒に上がった。上着、シャツ、リボン。その下に、きれいにたたまれた紺のスカートがある。

 ぼくはすぐには触れなかった。

 採寸の会場では、先生から渡される布だった。今はもう、相沢と書かれた紙が留めてある。誰かの見本じゃなく、ぼくのぶんだった。

「出してみれば」

 母が言う。

 急かす声ではなかった。ぼくは箱の前にしゃがんで、両手でそっと持ち上げる。紺の布は、採寸のときに受け取った一瞬より、もう少しだけ重く感じた。折り目はまっすぐで、指を沿わせると硬い線がある。裾の端はきれいにそろっていて、学校で毎日着るものの顔をしていた。

 父が後ろから一度だけ見て、「ちゃんとしてるな」と言った。

 それだけなのに、胸の奥へ静かに残る。

 母はハンガーを持ってきて、食卓の椅子の背に掛けた。

「入学式までに変な皺つけないでよ」

 言いながら、前の一枚だけ指でなぞって整える。ぼくはその手つきを見ていた。小さいころ、襟を直されたときと似ている。似ているのに、今は触れている場所が違った。

 その日の夜、箱はもう玄関の近くには戻されなかった。

 ぼくの部屋の壁際に置かれて、上に上着とスカートの入ったカバーが掛かった。寝る前に一度だけ布の端を見て、電気を消す。暗くなっても、そこにあることだけはわかった。

 入学式の朝、玄関の鏡の前で、ぼくは制服の裾を見ていた。

 紺の上着。白いシャツ。胸の前のリボン。ひざのあたりで落ち着くプリーツ。家の中の明かりの下でも、折り目はきれいだった。

 母が後ろから来て、何も言わずに前の一枚を指で直した。

 少しだけめくれていたのを、下へなぞるみたいに整える。

 その手つきは、小さいころに襟を直されたときと似ていた。似ていたのに、今は触れている場所が違う。ぼくは鏡の中の母を見たけれど、母はすぐには目を合わせなかった。

「そこ、折れてたから」

 言い訳みたいに言って、それだけで離れる。

「……うん」

 ぼくが答えると、母は小さく息をついて、「写真、帰りに撮らせてよ」とだけ言った。

 父は玄関で待っていた。

「行くぞ」

 やっぱり同じ言い方だった。

 外へ出ると、春の風はもう冷たくなかった。校門の桜は、満開より少し手前で、それでも枝じゅうが明るい。花びらはまだ散りきらず、風が吹くたびに二、三枚だけ先に離れる。

 中学の門の前には、新しい制服の子たちが何人もいた。スラックスの子も、スカートの子もいる。その中で、自分だけが特別に見えている気が、一瞬だけまた戻る。

 でも、そこで止まる前に、ひよりが見つけた。

「湊くん」

 校門の近くで、ひよりが手を振る。自分のスカートの裾を押さえるでもなく、当たり前みたいに立っている。真帆はその横で、鞄の肩紐の位置を直していた。蓮は少し離れたところから「おまえ来るの遅い」と言って、それからぼくの姿を見て、ちょっとだけ言い直すみたいに鼻をこすった。

 ひよりが近づいてくる。

 今度は迷わない目で、上着、リボン、裾、靴まで一度見る。

「うん」

 それから笑う。

「似合ってる」

 前にも何度かもらった言葉なのに、今日は少し違った。

 鏡の前でも、真帆の家でも、体育館でもなく、春の光の下で言われると、それはどこにも隠れなくてよかった。ぼくはたぶん、その瞬間にようやくちゃんと息を吸った。

「……うん」

 返事をしてから、自分でもわかるくらい、口元がほどける。

 蓮がすぐ横から入る。

「ほらな、別にいいじゃん」

「自分が最初に言ったみたいな顔しないで」

 ひよりが言うと、蓮は「いや言ったし」と返す。真帆は少しだけ笑って、それからぼくを見る。

「今日は裾、持ってないね」

 言われて、自分の手を見る。本当に、今日はそこへ行っていなかった。

 少し離れたところでは、母がこちらを見ていた。写真を撮る前の、まだ声をかけない顔だった。父はその横で、門のほうを向いて立っている。近づいてくるでも、何か言うでもない。ただ、いる。説明会の日に後ろへ立っていたときと同じ距離だった。

 校門の向こうでは、新しい生徒たちが順番に吸いこまれていく。体育館で聞いたざわめきとは違う、始まりの音だった。緊張がなくなったわけじゃない。これから先、何も言われない保証もない。見る目が全部やさしいとも思っていない。

 それでも、今日は隠れていない。

 五つ隣の町の駅のトイレで鍵をかけたことも、鏡の前で裾をつまんでいたことも、押し入れの奥へバッグを押し込んだことも、もうなくなるわけじゃない。あれはたしかにぼくの時間だった。こわくて、息を止めながら、それでも手放せなかった時間だ。

 その先に、今がある。

 母に言って、父に言って、真帆に聞かれて、ひよりに見てもらって、蓮が普段通りみたいな顔で隣に立って。会場では足が止まりかけて、それでも止まりきらなかった。だれかに入れてもらったわけじゃない。今日ここへ来たのは、自分で選んだからだ。

 風が吹く。

 プリーツが、ひざのまわりでふわりと揺れた。

 その動きを見た瞬間、幼稚園のころに遠くから見ていた制服の裾が、胸の奥で静かにつながった。ずっと前に手が届かなかったものが、いまは自分の膝のすぐ近くで揺れている。

 理由なんて、きっと今でもうまく言えない。

 それでも好きで、着たくて、ここまで来た。

 それでいいんだと思う。

 ぼくは裾を持たないまま、顔を上げた。桜の薄い色の下で、門の向こうへ続く道は、まだ新しいままだった。知らないことはたくさんある。たぶん、楽なことばかりでもない。

 けれど今日は、知らないだけの道じゃない。

 ひよりが先に半歩出る。蓮が「ほら、行くぞ」と言い、真帆は急かさずに並ぶ。ぼくも、その間へ足を出す。

 上履きの底が、門の向こうの地面を踏む。

 そのまま、みんなと一緒に校門をくぐった。
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