ぼくの裾が揺れる春

第17話 好きに理由は要らない

 父に話す、ということだけが、家の中に残っていた。

 母に言った夜のあと、食器棚の上には中学の説明会の封筒が置かれたままだった。母はそれを急かさなかった。朝になればいつも通り弁当箱を出して、夜になれば洗濯物をたたむ。ただ、ぼくが返事をするまで待つ間だけが、前より長くなった気がした。

 木曜日の夜、夕飯のあとに父がテレビを消した。

 居間の明かりが急に静かになる。ローテーブルの上には湯のみが二つ、少し離して置かれていた。父は仕事のシャツの袖をひと折りしたまま、ソファの端に座っている。真正面じゃなく、少し斜めに体を向けていた。

「湊」

 呼ばれて、喉の奥が細くなる。

「座れ」

 ぼくはソファじゃなく、ラグの上に座った。膝を立てるのも変な気がして、正座に近い形になる。母は台所でやかんを火にかけていて、その細い音だけが聞こえた。

「母さんから、少し聞いた」

 父はそう言って、湯のみには触れなかった。

「でも、俺はおまえの口から聞きたい」

 ごまかしのない言い方だった。

 ぼくはテーブルの木目を見た。そこを見ていないと、声が出る気がしない。

「……中学の制服」

 最初に出たのは、それだけだった。

 父はうなずきもしない。急かしもしない。ただ待っている。

「スカート、選びたい」

 言ってしまうと、前に母へ言ったときより音が固かった。もう一度言い直したくなる。けれど父はそのまま聞いていた。

「前から、ずっと」

 膝の上で指を組み直す。ほどいて、また組む。

「小さいころから、そういうの見てて。今も、変わってなくて」

 言葉が途切れるたび、台所のほうで小さな皿の触れる音がした。

「女の子になりたい、っていうのと同じかって言われると、たぶん違う。ただ、スカートが好きで。制服でも、そうしたい」

 父の顔は大きくは変わらなかった。眉の間が動く。叱る前の顔ではない。考えているときの顔だった。

「家で着るのと同じじゃないぞ」

 低い声で、父が言う。

「学校で着るなら、毎日だ。見られる。言われる。笑うやつもいるだろうな」

 ぼくはうつむいたまま、ラグの毛を指先でつぶした。

「先生でも、面倒を避けたがるのはいるかもしれん。友達だって、全員が同じ顔するとは限らん。俺が学校の中まで入って、先に全部片づけることもできん」

 現実の形だけが、順番に置かれていく。大きい声じゃないのに、逃げ道がない。

「……うん」

 それしか言えなかった。

 父はそこで一度、顎を指で触った。

「怖いか」

 聞かれて、喉がつかえた。

 怖い。

 その一言を認めたら、そのまま何も言えなくなりそうだった。でも黙ると、それも違う気がした。

「……こわい」

 やっと出した声は、自分でも驚くくらい小さい。

 父は「だろうな」とだけ言った。

 それから、もう一度こっちを見る。

「それでもか」

 湯のみの湯気が、もうほとんど見えなくなっていた。台所では、母が水を止める音がした。家の中は静かなのに、胸の中だけがうるさい。

 それでもか。

 その聞き方は、賛成でも反対でもない。逃げるなら今のうちだと言われているみたいでもあるし、本当に自分で決めろと言われているみたいでもあった。

 ぼくは膝の上の指を強く組んだ。

「……怖いけど」

 言ってから、一度息を吸う。

「着たい」

 言葉にした瞬間、急に何かが軽くなるわけではなかった。むしろ胸の奥は前よりはっきり重い。ただ、その重さの形だけは、さっきよりわかった気がした。

 父はしばらく黙っていた。

 それから、背もたれに寄りかからずに言う。

「そうか」

 短い声だった。

「なら、着たいなら着ればいい」

 顔を上げる。父はまだ真っ直ぐには見てこない。少し斜めのまま、言葉だけをこっちへ置く。

「ただ、楽なほうは選べん。嫌なことを言われる日もある。途中で面倒になっても、急に何もかも軽くなるわけじゃない」

 父の指が、湯のみの脇を一度だけなぞる。

「代わりにはなれん。けど、ひとりで勝手に決めたことにもしない」

 その言い方は、手放しの肯定じゃなかった。いいな、と軽く持ち上げてもくれない。そのかわり、聞かなかったことにもされなかった。

「……うん」

「説明会の日は、俺も行く」

 その一言が、いちばん最後に来た。

 ぼくはすぐには返事ができなかった。うれしい、と言うには喉の奥がまだ詰まっている。安心した、と決めるには、これからのことが白すぎる。それでも、封筒の角が前より遠くなく見えた。

「……うん」

 やっと言うと、父はそれ以上何も足さなかった。

 母がそこで居間へ戻ってきて、冷めかけた湯のみを見て「入れ直す?」とだけ聞いた。父は「いや、いい」と答える。いつもの家の会話だった。なのに、そのいつもの音の下に、さっきまでなかったものがひとつ増えている気がした。

 翌日の学校で、ランドセルの中の封筒は前の日より重くなかった。

 軽いわけでもない。ただ、背中に当たる角の意味が変わっていた。

 三時間目が終わった休み時間、ひよりが自分の席で説明会の紙を見ていた。蓮は横から「もう採寸とかあんの」と覗きこんで、真帆は封筒の端をきれいに揃えてから鞄へしまっている。前と同じ景色のはずなのに、ぼくだけがその紙を違う目で見ていた。

 放課後、帰りの会が終わってみんなが立ち上がるより少し早く、ぼくは声を出した。

「……ちょっと、話したい」

 自分で言ってから、自分の声じゃないみたいに聞こえた。

 蓮がいちばん先に振り向く。

「え、なに。珍し」

 ひよりは鞄の口を閉じる手を止めた。真帆だけが、あまり驚いた顔をしない。

 四人で渡り廊下まで出る。冬の終わりの風は弱いのに、窓の隙間から入る冷たさだけはまだ細かった。金網の向こうに見える運動場は、夕方の色へ寄っている。

「父さんにも話した」

 最初にそう言うと、ひよりの目が動いた。蓮は「お」と小さく言って、そこで黙る。真帆は手すりのそばで待つ形のままだった。

「それで」

 そこから先のほうが、本当は言いたかったことだった。

「中学、ぼく……スカート、選びたい」

 渡り廊下は外より静かで、自分の声だけが薄く響いた。

 蓮が先に口を開いた。

「制服で?」

「……うん」

「毎日?」

 聞き方は率直で、少しだけひるむ。でも蓮は変に笑わなかった。ただ本当にそこを確かめたかっただけの顔をしている。

「そりゃ、すげえな」

 言ってから、蓮はすぐ鼻の頭をこすった。

「いや、変な意味じゃなくて。毎日って、家で着るとか遊びで着るとかと、全然ちがうじゃん」

「うん」

「……でも、規定で選べるんだろ」

「たぶん」

「なら、別にいいじゃん」

 言い終わりは、前に秘密を打ち明けたときと同じだった。軽いのに、手を離す軽さじゃない。

「楽とは言わねえけど」

 蓮はそこだけ声を落とす。

「俺、当日いるし。変な空気になっても、普通に隣歩くから」

 その言い方が蓮らしくて、ぼくは息を吐いた。

 ひよりは腕を組まずに、まっすぐぼくを見ていた。それから、ぼくの手にある封筒へ視線を落とす。白い紙の角、指で押さえているところ、開きかけた口元。そこを見てから言う。

「私は、いいと思う」

 最初に置かれたのはそれだった。

「というか、選べるのに空気で選べなくなるほうが変でしょ」

 言い方はやわらかいのに、芯だけ細く固い。

「湊くん、前に着てたときも、スカートの落ち方、ちゃんと似合ってたし」

 その言葉で、胸の奥が熱くなる。ひよりは慰めるときの声じゃなかった。前に真帆の家で鏡の前に立ったときみたいに、見たままを言う声だった。

「制服だからって急に似合わなくなるわけじゃないよ」

 ひよりは前髪を耳にかける。

「むしろ制服のほうが線きれいかも。プリーツの幅とか、長さとか、ちゃんと見たい」

 最後のところだけ、いつものひよりに戻る。その具体さに、肩の力が抜けた。

 真帆は間を置いてから言った。

「それで、湊くんはもう決めてる?」

 いつかと同じ聞き方だった。慰める前に、まずこっちへ返してくる。

 ぼくは手すりの白い塗装の剥げたところを見た。そこを見ていると、自分の声の出る場所が少しわかる。

「……父さんにも、同じこと聞かれた」

「うん」

「怖いかって」

 ひよりも蓮も黙っていた。真帆だけが、急かさない顔で待っている。

「怖い」

 今度は前より、ほんの少しまっすぐ言えた。

「でも」

 言葉が止まりそうになって、それでも止めたくなかった。

「怖いけど、着たい」

 渡り廊下の向こうで、どこかの教室の戸が閉まる音がした。遠くでボールの跳ねる音もする。その全部のあいだに、自分の言った一言だけが残る。

 真帆は小さくうなずいた。

「じゃあ、それで十分だと思う」

 短い声だった。

「当日、一人で立つ必要はないよ」

「うん」

「必要なら、先にどう動くか考えよう。誰がどこにいるかとか、何を言われたらどうするかとか」

 真帆らしい言い方だった。気持ちだけで包まずに、困る場所を先に減らそうとする。

 蓮がすぐに乗る。

「それな。説明会の会場とか、たぶん変にざわつくやついるし」

「いる前提なんだ」

 ひよりが言うと、蓮は肩をすくめた。

「いや、いるだろ。世の中そういうのいるじゃん」

 雑な言い方なのに、そこで目を逸らさない。

「だから先に決めといたほうがいい。俺、笑われたら普通に腹立つし」

「うん、私も」

 ひよりが言う。

 それから、さっきより近い声で続けた。

「でもさ、たぶんその日いちばん大事なの、周りの顔より、湊くんがちゃんと自分で選ぶことだよ」

 その言い方が、胸の中のどこかへ静かに入る。

 似合う、も、いいと思う、も、うれしかった。けれど今の一言は、それより深い場所に落ちた。

 ぼくは封筒の角を指で押さえた。白い紙のざらつきが、指先にかすかに残る。

「……うん」

 それしか言えなかったけれど、さっきまでの「うん」とは違った。

 帰り道、三人はいつも通りの話をした。蓮は腹が減ったと言い、ひよりはそれなら家まで我慢しなよと言い、真帆は横で静かに笑っていた。空はもう夕方の薄い色で、風はまだ少し冷たい。制服なんてまだ着ていないのに、歩きながら、頭の中ではプリーツの幅ばかり思い浮かんだ。

 家に帰ると、説明会の封筒は居間の棚の上に出ていた。

 ぼくは手を洗ってから、それを自分の部屋へ持っていく。机の前に座って、封を開ける。申込書を一枚ずつ取り出す。上着、シャツ、セーター。その下に、下衣の欄がある。

 スラックス。
 スカート。

 白い四角が、ふたつ並んでいた。

 前は、その白さを見るだけで喉が乾いた。遠くて、勝手に決まるものみたいに見えていた。

 ぼくはスカートの横の四角に、指先をそっと置いた。

 紙は少し冷たくて、かすかにざらついている。まだ丸はつけない。説明会も、その先の会場も、まだ来ていない。それでも、その場所だけはもう他人のものじゃなかった。
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