ぼくの裾が揺れる春

第08話 教室の居場所

 月曜日の朝、ぼくは教室の戸を開ける前に一度だけ息を止めた。

 昨日、電車の窓ごしに見えた背中が、まだ頭のどこかに残っている。紺のランドセル。少しだけ外へはねた髪。ほんとうにクラスの誰かに似ていただけなのか、それとも似ているだけではなかったのか、考えても答えは出ない。

 廊下には、上履きの底がこすれる乾いた音が続いていた。教室の中からは、椅子を引く音と笑い声が混ざって聞こえる。そのふつうさの中へ入っていくのが、今日は少しだけこわい。

 でも、戸を開けても何も変わらなかった。

 窓ぎわの列には朝の光が斜めに落ちていて、黒板の上の時計はいつも通り少しだけ進んでいる。前の席の子は筆箱を振って中身を確かめているし、後ろではだれかが昨日見たテレビの話をしている。ぼくが入っても、何人かが顔を上げるだけですぐ元に戻った。

 それだけで、肩の奥の固さが少しゆるむ。

 席に着いて、ランドセルから連絡帳を出す。机の上に置いた指先が、思っていたより冷たかった。自分だけが何かを抱えてここへ来たみたいに思っていたのに、教室はそんなことに少しも付き合ってくれない。ただ朝のにおいがある。消しゴムの粉と、開けたばかりのノートの紙と、だれかのシャンプーみたいなにおい。

「おはよ。今日、なんか静かじゃない?」

 横から声が落ちてきて、ぼくは顔を上げた。

 宮下蓮が、椅子の背に片手をかけたままこっちを見ている。前髪が少し立っていて、たぶん走ってきたばかりなんだろうと思う。

「まだ月曜の顔してる。寝たりなかった?」

「……別に」

「その返事で別にだったこと、あんまないんだよな」

 そう言いながら、蓮はもう笑っていた。追いかけてくるみたいな聞き方のくせに、返事が短くても気にしていない顔だ。そのままぼくの机の端にあったプリントを一枚持ち上げる。

「これ今日出すやつ?」

「たぶん」

「たぶんで生きてんなあ」

 言って、蓮は自分の席に戻っていった。からかわれたはずなのに、嫌な感じは残らない。ぼくはプリントの端をそろえながら、小さく息を吐いた。

 一時間目の前、先生が漢字の小テストを回収しようとして、列ごとに前へ出せと言った。ぼくは自分のぶんを前の席へ渡して、それから何となく斜め前を見た。

 朝倉ひよりが、机の上のハンカチをたたみ直していた。

 薄い色の布に細い縁取りがついていて、端の折り方まできれいだった。見ていたつもりはなかったのに、目がそこへ止まる。ひよりはすぐに気づいたらしく、ハンカチを机の中へしまいながらこっちを見た。

「相沢くん、これ後ろ回して」

 渡されたのは、連絡袋に入ったプリントの束だった。ぼくはあわてて受け取る。

「……うん」

「落とさないでよ。順番ばらけるから」

 言い方はきつくないのに、妙にてきぱきしている。ぼくが一枚ずつ後ろへ回していくあいだ、ひよりは前を向いたまま、髪を耳にかけた。白いブラウスの袖口が、グレーのカーディガンから少しだけのぞいている。そういうところが目に入る自分に気づいて、ぼくはすぐプリントへ視線を戻した。

 二時間目は図工だった。

 廊下に出ると、絵の具箱の金具があちこちで鳴る。特別棟までの道も、前ほどは迷わなくなった。けれどみんなの歩く速さに合わせるのはまだ少し苦手で、列の後ろにずれる。

「相沢、また遅い」

 蓮が後ろ歩きのまま言う。

「速く行くと席なくなるぞ」

「席あるでしょ」

「いい席な」

 いい席ってなんだろうと思ううちに、蓮はもう前を向いていた。図工室の窓際には、紙粘土の見本や絵の具の見本帳が並んでいる。今日は色紙と糊で花を作るらしかった。先生が見本を黒板の横に貼る。桃色、黄色、水色。花びらの端が少しだけ丸く切ってあって、それだけで紙なのにやわらかく見えた。

「先生、その見本、ちょっとかわいすぎない?」

 ひよりが前のほうで言うと、近くの子たちが笑った。

「また言ってる」

「だって、最初から完成してるとつまんないじゃん」

 先生まで笑って、「じゃあ朝倉さんは完成してない春を作ってください」と返す。ひよりは「考えます」とだけ言って、はさみを取った。

 ぼくはそのやりとりを聞きながら、自分の机の上の色紙を見た。水色の紙が一枚ある。花を作るには少し冷たい色の気もするのに、手の中で角度を変えると、光の返り方がきれいだった。

「相沢くん、それ、水色のにするんだ」

 静かな声がして、ぼくは肩を上げかけた。

 隣の列の白石真帆が、はさみを持ったままこっちを見ている。目が合うと、すぐに追いつめる感じではなく、ただそこに置いたみたいな視線だった。

「なんとなく、目が止まってたから」

「……うん」

「べつに、いいと思う」

 それだけ言って、真帆は自分の花びらを切る作業へ戻った。はさみの音が、規則正しく続いていた。

 ぼくは少し遅れて、紙を半分に折った。

 真帆の言葉は大きくないのに、なぜかあとに残る。見透かされたというほどでもない。ただ、止まっていた手を見られた感じだけが残る。

 給食の時間になると、教室の空気はまた別の音に変わる。金属の食器が触れる音、牛乳瓶の底が机に当たる音、だれかがスープをこぼして騒ぐ声。ぼくは配膳の列の端でトレーを受け取り、席へ戻る。

 向かいの席に座った蓮が、コッペパンをちぎりながら言った。

「相沢、体育得意?」

「ふつう」

「ふつう好きだな」

「ほんとにふつうだから」

「じゃあ今度ドッジ入れよ。人数足りないときだけでいいから」

 人数足りないときだけ、という言い方が妙に具体的で、ぼくは少しだけ笑いそうになった。たぶん蓮は、その顔を見逃さなかった。

「いま笑ったじゃん」

「……笑ってない」

「笑ったって」

 向こうの席から、ひよりがスプーンを置く音がした。

「そんなにうるさいとパン取るよ」

「なんでだよ」

「うるさいから」

 蓮が「横暴」と言いながらパンを守るみたいに腕を引く。そのやりとりが、教室のあちこちにあるほかの会話と同じ速さで流れていく。だれも特別じゃない。ぼくも、その端に少しだけ引っかかっている。

 それが、不思議と楽だった。

 昼休み、外は風が強くて、何人かが校庭へ出たあとすぐ戻ってきた。窓の外で桜の残りがひとひらだけ飛んで、すぐ見えなくなる。ぼくは席で連絡帳を開いたまま、校庭を見ていた。

 ふとガラスに自分の顔が薄く映る。

 電車の窓に映った顔とは違う。ワンピースも、靴も、何もない。ただ水色のシャツの肩と、少し固い口元だけが見える。その顔を見たところへ、ひよりの声が横から来た。

「相沢くん、消しゴム落ちた」

 机の脚のそばに転がっていたのを、ひよりが先に拾っていた。ぼくは受け取ろうとして、指先が少しぶつかる。

「ありがと」

「どういたしまして」

 ひよりはそのまま行ってしまうかと思ったのに、机の横で一度だけ立ち止まった。こっちの顔を見る。正面からじゃなく、少しだけ斜めから。

「相沢くんって、もっと笑えばいいのに」

 それだけ言って、自分の席へ戻っていった。

 ぼくは消しゴムを持ったまま動けなくなる。

 笑っていないつもりはなかった。朝も返事をしたし、給食のときだって、少しは普通にしゃべった。ひよりの言い方にも責める感じはない。ただ、見たままをそのまま口にしただけみたいだった。

 だから余計に残る。

 もっと笑えばいいのに。

 窓ぎわのガラスに、また自分の顔が重なる。さっきより少し近い。口元はたしかに動いているのに、目のあたりが固い。なにか隠している人の顔だ、と不意に思った。

 その考えに、胸の奥が小さく揺れる。

 ぼくは笑っていないんじゃなくて、隠しているのかもしれない。

 教室で。家で。だれにも知られないように外へ出るときみたいな顔を、そのまま学校にも持ってきているのかもしれなかった。

 掃除の時間、ぼくは黒板の溝にたまったチョークの粉を集めた。白い粉が指先につく。蓮はほうきを振り回して女子に怒られている。ひよりは机を運ぶ列の先で、「そこぶつかる」と声を出している。真帆はぞうきんを絞ったあと、水道の蛇口をきちんと閉め直していた。

 その三人を、ぼくは順番に見た。

 だれにも、本当のことは話していない。

 それなのに、この教室の中では、ときどき呼吸が少しだけ深くなる。全部を隠したままでも、完全にひとりではない気がする。そのことに救われる自分がいて、同時に、そんなふうに思っていいのかためらう自分もいた。

 掃除が終わって、机を戻す音が続く。夕方の光が黒板の端へ斜めにのびる。

 帰る支度をしながら、ぼくは連絡帳をランドセルへしまった。消しゴムも、定規も、忘れないように順番に入れる。いつも通りの手つきなのに、ひよりの言葉だけがまだ残っていた。

 もっと笑えばいいのに。

 帰りの会が終わって立ち上がるとき、前の席の真帆が振り向いた。

「相沢くん」

「……なに」

「プリント、今日出したよね」

「出した」

「ならいい」

 それだけ言って、真帆は鞄の口を閉じた。確認しただけみたいな顔だった。けれど、その短いやりとりまで、今日は少しだけやわらかく感じた。

 廊下へ出ると、蓮がもう靴箱のほうから手を振っている。ひよりは友達と何か話しながら、それでも歩く前に一度だけこっちを見た。ほんの一瞬だ。けれど、見られたと思った。

 見られているのに、外の町のときほど苦しくない。

 ぼくは下駄箱の扉を開けながら、その違いを考えた。うまく言葉にはできない。ただ、ここで向けられる目は、まだぼくを決めつけていない。笑うかどうか、宿題を出したかどうか、図工でどの色紙を選んだか、そのくらいの目だ。

 それだけで、ずいぶん違った。

 校門を出るころ、風が少しだけ強くなった。前を歩く子のカーディガンの裾がひるがえって、すぐ戻る。ぼくはその揺れを見て、それから自分のシャツの裾へ目を落とした。

 教室でも、ぼくは何かを隠している顔をしている。

 でも、だから終わりという感じはしなかった。

 むしろ、その顔のままでも座っていられる場所が、少しだけできはじめている気がした。
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