ぼくの裾が揺れる春
第09話 あぶない遭遇
金曜日の帰りの会が終わって、教室の空気が少しだけほどけたころだった。
ぼくはランドセルに連絡帳をしまいながら、机の上の下じきを持ち上げた。角のところに細いひびが入っている。いつからだったのか、自分でもわからない。指でなぞると、そこだけ少し白く見えた。
「相沢くん、それ、割れてる」
顔を上げると、ひよりが係の紙を持ったままこっちを見ていた。
「……ほんとだ」
「手切るとやだから、替えたほうがいいよ。駅前の文具店、たしか安かったはず」
言い方はいつも通りで、気をつかわせないのに、見ているところはちゃんと見ている。ぼくが下じきを机に戻すと、今度は蓮が横からのりを持ち上げた。
「相沢、これ借りてたやつ。助かった」
「朝から返してなかったの」
「返したつもりだったんだけどな」
「返してないから今ここにあるんでしょ」
真帆が前の席から静かに言うと、蓮は「正論」と笑った。真帆はそれ以上何も言わず、自分のノートの端をそろえる。ぼくは受け取ったのりを筆箱の横に置いて、小さく息をついた。
大きなことじゃない。
朝にのりを貸して、帰りに返されて、下じきのひびに気づかれる。それだけだ。
それだけなのに、この町へ来たばかりのころより、教室の空気が少しだけ近くなった気がした。
その感じを、なくしたくないと思った。
土曜日の朝、ぼくは手さげ袋の中身を、いつもより長く確かめた。
水色のワンピース。白い靴下。黒い靴。今日はクリーム色のカーディガンも入れる。袋の底に靴を寝かせて、その上に畳んだ服を重ね、いちばん上に図書館の本を二冊のせた。ほんとうに返す日じゃないけれど、何も持たずに出るよりはましだった。
昨日の教室のことを思い出すと、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
同時に、その感じを失うのが前よりこわかった。
「図書館?」
玄関で靴を履いていると、母が台所から顔を出した。
「……うん。本、返すから」
「お昼までには戻ってきてね」
「たぶん」
余計なことを言わないようにしたつもりなのに、最後の一言だけが余った。母はそれ以上聞かなかった。父は新聞をめくりながら「気をつけろ」と言っただけだった。
駅までの道は、もう何度か通った嘘の道だった。
改札を抜け、五つ隣の町まで行く。だれでもトイレの鍵をかける。Tシャツを脱ぐ。靴下を引き上げる。ワンピースを頭からかぶる。今日はカーディガンも羽織った。黒い靴のベルトを留め、鏡の前で肩を指で直す。
家の鏡より、駅の鏡のほうが少し冷たい。
それでも、前みたいには手が止まらなかった。
改札を出る。駅前を渡る。人の流れにまぎれる。だれもじっとは見ない。その普通さに、少しずつ慣れてきていた。本屋の前を通り過ぎ、薬局の角を曲がる。ガラスに映った自分を見ても、今日はすぐには目をそらさなかった。
悪くない、と思いかけて、すぐその考えを押し戻す。
通りの反対側に、小さな文具店が見えた。色紙やノートが店先まで並んでいる。入口の横にはキャラクターのついた鉛筆がぶら下がっていて、風が吹くたびに細く揺れた。
下じき、ここならあるかもしれない。
学校で使うものを、この格好で買う。そんなことまでできたら、少し違うかもしれないと思った。ひよりに言われた、あの角のひびを思い出しながら、ぼくは信号が変わるのを待った。
そのときだった。
文具店の前にいた男の子が、ふいに横を向いた。
先に顔ではなく、動きが目に入った。少し前かがみの立ち方。首の傾け方。笑う前に、肩が先に動く癖。教室のどこかで何度も見たような、あの感じ。
学校のだれかに似ている、と思った。
顔はちゃんと見えていない。ランドセルもない。土曜日のこんな町で会うはずがない、とも思う。
それでも、その考えより先に、身体のほうが逃げた。
反射みたいに顔を背ける。文具店へ向いていた足を、そのまま横へずらして人の多いほうへ出る。視線を上げたら目が合う気がして、上げられない。裾だけがやけに頼りなく揺れる。黒い靴の先が石畳の継ぎ目に引っかかりそうになって、ひやっとする。
後ろを見られなかった。
買いもの袋を下げた女の人の後ろを抜ける。自転車を避ける。信号の変わりかけた横断歩道を、ほとんど走るみたいに渡る。心臓がうるさすぎて、外の音が遠い。
二つ角を曲がって、知らない公園の前まで来た。色の薄くなった滑り台と、小さな砂場がある。鉄の柵の向こうにトイレが見えて、ぼくはそこへ駆けこんだ。
鍵をかける。
そこでやっと、指先がうまく動いていないことに気づいた。
靴のベルトが外れない。外れたと思ったら、今度は靴下の口が引っかかる。ワンピースの裾を持ち上げる手も落ち着かない。狭い個室の中で、布の擦れる音ばかりが大きい。早く脱がなきゃと思うほど、袖が腕にまとわりつく。
ようやくいつものTシャツをかぶったときには、膝が少し笑っていた。
鏡の中には、ただの小学生がいた。
水色のシャツ。半ズボン。見慣れたままの髪。さっきまでの数分だけが、そこからきれいに切り取られてどこかへ行ったみたいだった。けれど胸の奥だけは、まだ早く鳴っている。
見られたかもしれないのは、さっきのぼくだ。
そのことだけが、鏡の前に残っていた。
帰りの電車では窓を見なかった。膝の上の袋だけを見ていた。白い持ち手のところを、爪で何度も押してしまう。もしあれが学校の子だったら。もし顔を見られていたら。月曜日、教室へ入ったとたん、空気が違っていたら。
考えたくないのに、そこばかり考える。
家に帰っても、その感じは薄くならなかった。
部屋へ入って袋を床に置く。結び目をほどく。水色の布と黒い靴が見えた瞬間、前なら胸の奥で静かになっていたものが、今日は少しも静かにならない。
その日は引き出しを閉めるのも雑になった。日曜日になっても、机の前に座るたび、文具店の前の一瞬が戻ってくる。あの肩の動き。あの立ち方。思い出そうとすると、顔だけが白く抜ける。その抜けたところへ、教室のだれかの顔が勝手に重なりそうになって、やめる。
月曜日の朝、教室の戸を開ける前に、ランドセルの肩紐を一度だけ握り直した。
中から聞こえるのは、いつもの音だった。椅子を引く音。筆箱のふたが鳴る音。だれかが宿題のことを言い訳して笑う声。前ならその普通さにほっとしたはずなのに、今日はその中へ入るのが少しこわい。
けれど戸を開けても、何も変わっていないように見えた。蓮は前の席の子と消しゴムを取り合っている。ひよりは係の紙を配っている。真帆は机の端に教科書をそろえている。だれも、こちらを変なふうには見ない。
それでも、笑い声が聞こえるたびに肩が固くなる。廊下で誰かが走るだけで胸が跳ねる。ひよりが自分の席の近くを通っただけで、顔を見られた気がしてしまう。真帆が一度こちらを見ただけで、何か気づかれたのかと思ってしまう。
給食の時間、蓮が牛乳瓶を持ったまま顔をのぞきこんできた。
「相沢、今日なんかへん」
喉が止まりそうになった。
「……なにが」
「ぼーっとしてる。寝不足?」
それだけだった。
ぼくは「たぶん」とだけ答えて、スプーンを持ち直した。向こうでひよりが友達と何か話している。真帆は牛乳瓶のふたを机の端できれいに重ねていた。みんないつも通りだ。だから余計に、自分だけがひどくよそよそしくなる。
放課後、家へ帰るとすぐ机の引き出しを開けた。
ワンピースとカーディガンを取り出す。白い靴下、黒い靴、小さな鏡。まとめて袋へ入れて、口を縛る。これで終わりにしたほうがいいのかもしれないと思った。これ以上増える前に。もっと大事になる前に。
袋は思っていたより軽かった。
軽いのに、持ち上げると腕が止まる。
ほんとうに捨てるなら、台所の大きなごみ袋まで持っていかなきゃいけない。廊下へ出て、階段を下りて、家族の目に触れるところまで。そこまで考えて、立ち尽くした。
怖いから捨てる、で済むなら、もうとっくに済んでいる。
ぼくは袋をもう一度ひざの上にのせた。口をほどく。白い靴下が先に見える。その下に、水色の裾。指を入れると、布はいつもと同じ軽さで手に触れた。
安っぽい。薄い。
それでも、手を離せなかった。
やめたほうがいいのかもしれない。
でも、それは、やめたいとは少し違った。
ぼくは袋の中身をひとつずつ出して、また机の奥へしまい直した。前みたいにきれいには畳めない。裾の端が少しずれる。靴下の左右も、きっちり重ならない。それでも全部入れ終わって引き出しを閉めると、胸の奥のざらつきの中へ、別のものが少しだけ混じった。
苦しいのに、なくしたくなかった。
引き出しの向こうにしまい直しても、そのことだけは、しまえなかった。
ぼくはランドセルに連絡帳をしまいながら、机の上の下じきを持ち上げた。角のところに細いひびが入っている。いつからだったのか、自分でもわからない。指でなぞると、そこだけ少し白く見えた。
「相沢くん、それ、割れてる」
顔を上げると、ひよりが係の紙を持ったままこっちを見ていた。
「……ほんとだ」
「手切るとやだから、替えたほうがいいよ。駅前の文具店、たしか安かったはず」
言い方はいつも通りで、気をつかわせないのに、見ているところはちゃんと見ている。ぼくが下じきを机に戻すと、今度は蓮が横からのりを持ち上げた。
「相沢、これ借りてたやつ。助かった」
「朝から返してなかったの」
「返したつもりだったんだけどな」
「返してないから今ここにあるんでしょ」
真帆が前の席から静かに言うと、蓮は「正論」と笑った。真帆はそれ以上何も言わず、自分のノートの端をそろえる。ぼくは受け取ったのりを筆箱の横に置いて、小さく息をついた。
大きなことじゃない。
朝にのりを貸して、帰りに返されて、下じきのひびに気づかれる。それだけだ。
それだけなのに、この町へ来たばかりのころより、教室の空気が少しだけ近くなった気がした。
その感じを、なくしたくないと思った。
土曜日の朝、ぼくは手さげ袋の中身を、いつもより長く確かめた。
水色のワンピース。白い靴下。黒い靴。今日はクリーム色のカーディガンも入れる。袋の底に靴を寝かせて、その上に畳んだ服を重ね、いちばん上に図書館の本を二冊のせた。ほんとうに返す日じゃないけれど、何も持たずに出るよりはましだった。
昨日の教室のことを思い出すと、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
同時に、その感じを失うのが前よりこわかった。
「図書館?」
玄関で靴を履いていると、母が台所から顔を出した。
「……うん。本、返すから」
「お昼までには戻ってきてね」
「たぶん」
余計なことを言わないようにしたつもりなのに、最後の一言だけが余った。母はそれ以上聞かなかった。父は新聞をめくりながら「気をつけろ」と言っただけだった。
駅までの道は、もう何度か通った嘘の道だった。
改札を抜け、五つ隣の町まで行く。だれでもトイレの鍵をかける。Tシャツを脱ぐ。靴下を引き上げる。ワンピースを頭からかぶる。今日はカーディガンも羽織った。黒い靴のベルトを留め、鏡の前で肩を指で直す。
家の鏡より、駅の鏡のほうが少し冷たい。
それでも、前みたいには手が止まらなかった。
改札を出る。駅前を渡る。人の流れにまぎれる。だれもじっとは見ない。その普通さに、少しずつ慣れてきていた。本屋の前を通り過ぎ、薬局の角を曲がる。ガラスに映った自分を見ても、今日はすぐには目をそらさなかった。
悪くない、と思いかけて、すぐその考えを押し戻す。
通りの反対側に、小さな文具店が見えた。色紙やノートが店先まで並んでいる。入口の横にはキャラクターのついた鉛筆がぶら下がっていて、風が吹くたびに細く揺れた。
下じき、ここならあるかもしれない。
学校で使うものを、この格好で買う。そんなことまでできたら、少し違うかもしれないと思った。ひよりに言われた、あの角のひびを思い出しながら、ぼくは信号が変わるのを待った。
そのときだった。
文具店の前にいた男の子が、ふいに横を向いた。
先に顔ではなく、動きが目に入った。少し前かがみの立ち方。首の傾け方。笑う前に、肩が先に動く癖。教室のどこかで何度も見たような、あの感じ。
学校のだれかに似ている、と思った。
顔はちゃんと見えていない。ランドセルもない。土曜日のこんな町で会うはずがない、とも思う。
それでも、その考えより先に、身体のほうが逃げた。
反射みたいに顔を背ける。文具店へ向いていた足を、そのまま横へずらして人の多いほうへ出る。視線を上げたら目が合う気がして、上げられない。裾だけがやけに頼りなく揺れる。黒い靴の先が石畳の継ぎ目に引っかかりそうになって、ひやっとする。
後ろを見られなかった。
買いもの袋を下げた女の人の後ろを抜ける。自転車を避ける。信号の変わりかけた横断歩道を、ほとんど走るみたいに渡る。心臓がうるさすぎて、外の音が遠い。
二つ角を曲がって、知らない公園の前まで来た。色の薄くなった滑り台と、小さな砂場がある。鉄の柵の向こうにトイレが見えて、ぼくはそこへ駆けこんだ。
鍵をかける。
そこでやっと、指先がうまく動いていないことに気づいた。
靴のベルトが外れない。外れたと思ったら、今度は靴下の口が引っかかる。ワンピースの裾を持ち上げる手も落ち着かない。狭い個室の中で、布の擦れる音ばかりが大きい。早く脱がなきゃと思うほど、袖が腕にまとわりつく。
ようやくいつものTシャツをかぶったときには、膝が少し笑っていた。
鏡の中には、ただの小学生がいた。
水色のシャツ。半ズボン。見慣れたままの髪。さっきまでの数分だけが、そこからきれいに切り取られてどこかへ行ったみたいだった。けれど胸の奥だけは、まだ早く鳴っている。
見られたかもしれないのは、さっきのぼくだ。
そのことだけが、鏡の前に残っていた。
帰りの電車では窓を見なかった。膝の上の袋だけを見ていた。白い持ち手のところを、爪で何度も押してしまう。もしあれが学校の子だったら。もし顔を見られていたら。月曜日、教室へ入ったとたん、空気が違っていたら。
考えたくないのに、そこばかり考える。
家に帰っても、その感じは薄くならなかった。
部屋へ入って袋を床に置く。結び目をほどく。水色の布と黒い靴が見えた瞬間、前なら胸の奥で静かになっていたものが、今日は少しも静かにならない。
その日は引き出しを閉めるのも雑になった。日曜日になっても、机の前に座るたび、文具店の前の一瞬が戻ってくる。あの肩の動き。あの立ち方。思い出そうとすると、顔だけが白く抜ける。その抜けたところへ、教室のだれかの顔が勝手に重なりそうになって、やめる。
月曜日の朝、教室の戸を開ける前に、ランドセルの肩紐を一度だけ握り直した。
中から聞こえるのは、いつもの音だった。椅子を引く音。筆箱のふたが鳴る音。だれかが宿題のことを言い訳して笑う声。前ならその普通さにほっとしたはずなのに、今日はその中へ入るのが少しこわい。
けれど戸を開けても、何も変わっていないように見えた。蓮は前の席の子と消しゴムを取り合っている。ひよりは係の紙を配っている。真帆は机の端に教科書をそろえている。だれも、こちらを変なふうには見ない。
それでも、笑い声が聞こえるたびに肩が固くなる。廊下で誰かが走るだけで胸が跳ねる。ひよりが自分の席の近くを通っただけで、顔を見られた気がしてしまう。真帆が一度こちらを見ただけで、何か気づかれたのかと思ってしまう。
給食の時間、蓮が牛乳瓶を持ったまま顔をのぞきこんできた。
「相沢、今日なんかへん」
喉が止まりそうになった。
「……なにが」
「ぼーっとしてる。寝不足?」
それだけだった。
ぼくは「たぶん」とだけ答えて、スプーンを持ち直した。向こうでひよりが友達と何か話している。真帆は牛乳瓶のふたを机の端できれいに重ねていた。みんないつも通りだ。だから余計に、自分だけがひどくよそよそしくなる。
放課後、家へ帰るとすぐ机の引き出しを開けた。
ワンピースとカーディガンを取り出す。白い靴下、黒い靴、小さな鏡。まとめて袋へ入れて、口を縛る。これで終わりにしたほうがいいのかもしれないと思った。これ以上増える前に。もっと大事になる前に。
袋は思っていたより軽かった。
軽いのに、持ち上げると腕が止まる。
ほんとうに捨てるなら、台所の大きなごみ袋まで持っていかなきゃいけない。廊下へ出て、階段を下りて、家族の目に触れるところまで。そこまで考えて、立ち尽くした。
怖いから捨てる、で済むなら、もうとっくに済んでいる。
ぼくは袋をもう一度ひざの上にのせた。口をほどく。白い靴下が先に見える。その下に、水色の裾。指を入れると、布はいつもと同じ軽さで手に触れた。
安っぽい。薄い。
それでも、手を離せなかった。
やめたほうがいいのかもしれない。
でも、それは、やめたいとは少し違った。
ぼくは袋の中身をひとつずつ出して、また机の奥へしまい直した。前みたいにきれいには畳めない。裾の端が少しずれる。靴下の左右も、きっちり重ならない。それでも全部入れ終わって引き出しを閉めると、胸の奥のざらつきの中へ、別のものが少しだけ混じった。
苦しいのに、なくしたくなかった。
引き出しの向こうにしまい直しても、そのことだけは、しまえなかった。