となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う
第1話 笑顔で受理する女
市役所の朝は、思ったよりも音が多い。
まだ開庁して十分も経っていないというのに、市民課のフロアには、番号札を発行する機械の電子音、プリンターが紙を吐き出す音、ボールペンの先が申請書を走る音、誰かが小さく咳払いをする音が、途切れなく重なっていた。
藤野香澄は、窓口カウンターの内側で、今日使う申請書類の束を整えていた。
住民票の写し。戸籍謄本。印鑑登録証明書。転入届。転出届。
それぞれの用紙を決まった位置に置き、ペン立ての中のボールペンを同じ向きにそろえる。カウンターの端に置かれた老眼鏡を拭き、番号札の呼び出し機が正常に動くか確認する。
何度も繰り返してきた作業だった。
けれど香澄は、朝のこの時間が嫌いではなかった。
窓口が本格的に混み始める前の、ほんのわずかな静けさ。誰かの用件を受ける前の、白紙のような時間。
今日こそ、何事もなく終わればいい。
そう思いながら、香澄は受付台の角を布巾で拭いた。
「藤野さん、ちょっといい?」
背後から声をかけられた。
振り返ると、同じ市民課の後輩、村瀬莉子がファイルを抱えて立っていた。まだ二年目の職員で、眉を下げた顔がいかにも困っている。
「どうしたの?」
「昨日の転入届の件なんですけど、添付書類の確認がちょっと不安で……。あとで見てもらってもいいですか?」
「うん、大丈夫。机に置いておいて」
香澄が笑って答えると、莉子の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます! 助かります」
莉子が香澄の机にファイルを置く。
その横には、すでに係長から頼まれた資料の束があった。さらにその上には、昨日の閉庁間際に受けた問い合わせのメモが重なっている。
香澄はそれらをちらりと見てから、また笑った。
大丈夫。
いつものことだ。
「藤野さん、悪いんだけど」
今度は隣の席の斎藤が、パソコン画面から顔を上げた。
「今日の午後、住民基本台帳の確認作業、少し手伝ってもらえない? 俺、研修の資料作らなきゃいけなくて」
「わかりました。午後の窓口が落ち着いたら見ます」
「ごめんね、助かる」
「いえ、大丈夫です」
大丈夫。
その言葉を口にした瞬間、香澄の机の上にもう一枚、作業用のチェックリストが置かれた。
用紙が一枚増える。
それは、本当に小さな音だった。
紙が紙に重なるだけの、薄い音。
けれど香澄には、その音がやけにはっきり聞こえた。
「藤野さんって、本当に頼りになるよね」
斎藤が軽く笑った。
「何をお願いしても嫌な顔しないし」
「そんなことないですよ」
香澄はまた笑う。
嫌な顔をしないのではない。
嫌だと言う顔の作り方を、忘れてしまっただけだ。
そう思った瞬間、開庁を知らせる自動ドアの音が響いた。
市民が次々と入ってくる。案内係の声が飛ぶ。番号札の機械の前に人が並び始める。
「市民課、受付開始します」
係長の声に、香澄は背筋を伸ばした。
仕事が始まる。
自分の気持ちは、いったん引き出しにしまう。
窓口に座ると、香澄はいつもの表情を作った。
少し口角を上げる。目元をやわらかくする。声は高すぎず、低すぎず。相手を急かさない程度の速さで。
藤野香澄、三十四歳。
市民課勤務、七年目。
誰にでも丁寧で、仕事が早く、頼まれごとを断らない。
それが、職場での香澄の評価だった。
そして香澄自身も、その評価にずっと助けられてきた。
頼られるほうが楽だった。
嫌われるより、ずっといい。
「番号札二十三番の方、三番窓口へどうぞ」
香澄はマイクに向かって呼びかけた。
最初に来たのは、印鑑証明を取りに来た年配の女性だった。書類の記入欄を一つひとつ確認しながら、香澄は丁寧に説明する。
「こちらにお名前をお願いします。はい、ありがとうございます。本人確認書類を拝見してもよろしいですか?」
「あら、ごめんなさいね。こういうの、何度来てもよくわからなくて」
「大丈夫ですよ。こちらで確認いたしますね」
大丈夫。
今日何度目だろう。
香澄は心の中で数えかけて、やめた。
そんなことを数えても、何にもならない。
午前十時を過ぎるころには、市民課のフロアはすっかり混み合っていた。窓口の前の椅子はほぼ埋まり、立ったまま待っている人もいる。
香澄は一件ずつ、淡々と処理していった。
転入届の確認。住民票の交付。戸籍関係の問い合わせ。高齢の男性にはゆっくり説明し、小さな子どもを連れた母親には、なるべく短い言葉で案内した。
その合間に、莉子のファイルを確認する。
斎藤から頼まれたチェックリストにも目を通す。
係長から「藤野さん、これもお願い」と置かれた紙も受け取る。
「はい、大丈夫です」
香澄がそう言うたびに、机の上の書類は一枚ずつ増えていった。
昼前になって、少しだけ窓口の流れが止まった。
香澄が冷めかけたお茶に手を伸ばしたとき、番号札の機械が高い音を立てた。
二十九番。
香澄はマイクを取った。
「二十九番の方、三番窓口へどうぞ」
やって来たのは、五十代くらいの男性だった。眉間に深いしわが寄っている。手には、折れ曲がった申請書が握られていた。
香澄は立ち上がって一礼した。
「お待たせいたしました。本日はどういったご用件でしょうか」
「住民票」
「住民票の写しですね。こちらの申請書を確認させていただきます」
男性は無言で紙を差し出した。
香澄は受け取り、記入内容を確認した。
住所欄に、番地が抜けている。
「恐れ入ります。こちらの住所の番地部分が未記入になっておりますので、ご記入をお願いできますでしょうか」
香澄がペンを差し出すと、男性の表情が険しくなった。
「は? さっき案内のところでこれでいいって言われたけど」
「申し訳ございません。交付の際に必要な情報になりますので、こちらだけ追記をお願いいたします」
「だから、さっきそれでいいって言われたんだよ。なんで同じ役所の中で言うことが違うんだ」
声が大きくなった。
周囲の視線が、一斉にこちらへ向く。
香澄は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「申し訳ございません。こちらで確認いたします」
「確認って、こっちは急いでるんだよ。何分待たせるつもりだ」
「すぐに確認いたしますので、少々お待ちいただけますか」
「少々って何分だよ。そうやって適当なことばっかり言うから役所は信用できないんだ」
男性の声がさらに大きくなった。
カウンターの上に置かれた申請書が、男性の指で強く叩かれる。
びくりとした。
けれど香澄は、顔に出さなかった。
怒らせてはいけない。
ここで反論すれば、もっと長引く。
自分が謝れば済む。
そうやって何度も切り抜けてきた。
「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」
「そういうマニュアルみたいな謝り方が腹立つんだよ。あんた、ちゃんと話聞いてるの?」
「はい。確認しております」
「聞いてないだろ。人の時間を何だと思ってるんだ。こっちは暇じゃないんだよ。役所の人間は座ってれば給料もらえるからいいよな」
香澄の指先が冷たくなる。
悪いのは、私ではない。
番地が抜けている申請書を、そのまま受け付けられないだけ。
そう思うことはできた。
でも、それを口に出すことはできなかった。
「申し訳ございません」
頭を下げる。
何度も下げる。
そのたびに、周囲の空気が薄くなるような気がした。
隣の席の斎藤が一瞬こちらを見る。
莉子も不安そうに香澄を見ている。
けれど、誰も動かなかった。
藤野さんなら大丈夫。
藤野さんならうまく収められる。
その無言の信頼が、今は少しだけ苦しかった。
「だいたい、あんたの説明が悪いんだよ」
男性が身を乗り出す。
「さっきから何言ってるのかわかんないんだよ。もっとちゃんと説明しろよ」
香澄は唇の内側を噛んだ。
説明はした。
けれど、その言葉も飲み込んだ。
「申し訳ございません。改めてご説明いたします」
「だから、その態度が腹立つって言ってるんだよ!」
男性の手が、カウンターを強く叩いた。
乾いた音が響く。
その瞬間、香澄の肩が小さく跳ねた。
「失礼します」
低い声がした。
すぐ横からではない。
少し離れた、隣の課との境目あたりからだった。
香澄が振り返ると、グレーのファイルを手にした男性職員が立っていた。
福祉課の佐伯律。
同じフロアで働いているので顔は知っている。けれど、話したことはほとんどない。
無愛想な人。
それが香澄の印象だった。
背が高く、姿勢がよく、黒縁の眼鏡の奥の目はいつも冷静すぎるくらい冷静だ。余計な雑談をしているところを見たことがない。
その佐伯が、香澄の窓口のそばに立った。
「現在の手続きについて、確認してもよろしいでしょうか」
佐伯は香澄ではなく、男性に向かって言った。
声は低いが、威圧的ではない。淡々としていて、温度がない。
男性が眉を吊り上げる。
「あんた誰だよ」
「福祉課の佐伯です。こちらのフロアで窓口対応中ですので、状況を確認しました」
「関係ないだろ」
「ご意見は承ります。ただし、職員個人への侮辱は手続きではありません」
香澄は息を止めた。
場の空気が、一瞬止まった気がした。
男性も黙った。
佐伯は続けた。
「住民票の写しの交付には、申請者情報の確認が必要です。住所欄に不足がある場合、追記をお願いするのは通常の対応です」
「だから、最初の案内でいいって言われたんだよ」
「案内時の確認不足があった可能性はあります。その点はこちらで確認します。ただ、現時点で必要事項が未記入であることは変わりません」
佐伯は一歩も引かなかった。
けれど、相手を責めてもいなかった。
ただ、事実だけを置いていく。
「追記いただければ、交付手続きは進められます。追記されない場合は、こちらで申請を受理できません」
受理。
その言葉が、香澄の耳に残った。
男性はしばらく佐伯を睨んでいたが、やがて乱暴にペンを取った。
「最初からそう言えよ」
そう言い捨てて、番地を書き足す。
香澄は受け取った申請書を確認し、手続きを進めた。
指が少し震えていた。
それを見られないように、書類をそろえるふりをする。
「交付まで少々お待ちください」
香澄が頭を下げると、男性は不満げに椅子へ戻っていった。
ようやく、フロアの音が戻る。
プリンターの音。番号札の音。誰かの話し声。
香澄は、胸の奥にたまっていた息をそっと吐いた。
「あの……」
佐伯に礼を言おうとしたが、佐伯はすでにカウンターの端に視線を落としていた。
「対応記録は残してください」
「え?」
「今の件です。申請書不備、説明、追記依頼、利用者からの発言。念のため記録しておいたほうがいいです」
「あ、はい」
「それだけです」
佐伯は淡々と言うと、香澄の返事を待たずに福祉課のほうへ戻っていった。
ありがとう、を言うタイミングを失った。
香澄はその背中を見送りながら、胸の中に奇妙な感情が残るのを感じた。
助けてもらった。
たぶん。
でも、優しい言葉は一つもなかった。
大丈夫ですか、とも、災難でしたね、とも言われなかった。
それなのに。
佐伯の声がまだ耳に残っていた。
職員個人への侮辱は手続きではありません。
その言葉は、香澄が自分では決して言えなかったことだった。
あなたが悪いわけではない。
直接そう言われたわけではない。
けれど、そう聞こえた。
「藤野さん、大丈夫ですか?」
莉子が小声で聞いてきた。
香澄は反射的に笑った。
「大丈夫。ありがとう」
そう答えた瞬間、手元に置いていたボールペンが一本、床に転がった。
拾おうとして屈む。
そのほんの数秒だけ、香澄は自分の顔を誰にも見られずに済んだ。
昼休みは、ほとんど取れなかった。
午前中のクレーム対応の記録を残し、住民票の交付処理を終え、莉子の転入届の確認をしているうちに、休憩時間は半分以上過ぎていた。
デスクの端に置いたおにぎりを一つだけ食べる。
海苔が少し湿っていた。
香澄は冷めたお茶を飲みながら、佐伯の言葉を思い出していた。
手続きではありません。
ああいう言い方ができる人なのだと思った。
怒るでもなく、なだめるでもなく、ただ線を引く。
それは香澄がいちばん苦手なことだった。
午後も市民課は忙しかった。
書類を受け、説明をし、確認をし、謝り、笑う。
何度も「大丈夫です」と言った。
そのたびに、朝のカウンターを叩く音が少しだけ蘇った。
でも、仕事は進めなければならない。
市役所の窓口は、誰か一人の感情で止められる場所ではない。
閉庁時間が近づくころには、香澄の机の上には、朝よりもずっと高い書類の山ができていた。
莉子のファイル。斎藤のチェックリスト。係長の資料。自分の処理待ちのメモ。
香澄はそれを一枚ずつ確認し、付箋を貼り、明日の作業順に並べ直した。
「藤野さん、今日も助かったよ」
斎藤が帰り支度をしながら言った。
「いえ。途中までしかできてなくてすみません」
「いやいや、十分。藤野さんがいてくれるとほんと回るわ」
回る。
その言葉に、香澄は曖昧に笑った。
私が回しているのではなくて、私が止まれないだけかもしれない。
そんなことを思ったが、もちろん言わなかった。
残業を終えて帰るころには、外はすっかり暗くなっていた。
駅までの道を歩きながら、香澄はスマートフォンを確認した。
母から着信が入っている。
画面を見た瞬間、少しだけ肩が重くなった。
家に着いてからかけ直そう。
そう思い、スマートフォンを鞄にしまった。
ひとり暮らしの部屋は、いつも通り静かだった。
玄関の明かりをつけ、パンプスを脱ぐ。キッチンの小さな照明をつける。冷蔵庫を開けると、作り置きの煮物と、昨日買った豆腐が入っていた。
食欲はあまりなかった。
それでも何か食べなければと思い、味噌汁だけを温める。
湯気が立ち上るころ、スマートフォンが震えた。
母からだった。
香澄は少し迷ってから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『香澄? 今、大丈夫?』
「うん、大丈夫」
また言った。
大丈夫。
『今日も仕事だったんでしょう。忙しいの?』
「いつも通りかな」
『市役所って安定してるけど、大変なのねえ。でも、無理しちゃだめよ。あなた、昔から何でも抱え込むんだから』
「うん」
『そういえば、この前の話、考えてくれた?』
香澄は味噌汁の火を止めた。
「この前の話?」
『ほら、叔母さんの知り合いの息子さん。銀行にお勤めの。写真だけでも見てみないかって』
「ああ……」
『もう三十四でしょ。まだ若いけど、のんびりしてるとあっという間よ。いい人がいるなら会ってみるだけでも』
「うん」
『香澄は昔から自分のこと後回しにするから。お母さん、心配なのよ』
心配。
その言葉はいつも、優しい顔をして香澄の逃げ道をふさぐ。
『まだ結婚しないの? いい人いないの? 職場とかに』
香澄は鍋のふたを見つめた。
職場。
ふと、佐伯の顔が浮かんだ。
無愛想な横顔。低い声。冷静な目。
すぐに打ち消す。
違う。
そういう話ではない。
「今は仕事で精いっぱいかな」
『仕事も大事だけどね。でも、ひとりでいると寂しくない?』
「大丈夫だよ」
言ってから、香澄は目を伏せた。
母は電話の向こうで何かを言いかけたが、結局いつものようにため息をついた。
『まあ、あなたがそう言うならいいけど。でも、ちゃんと考えてね』
「うん。ありがとう」
通話を終えると、部屋の中が急に静かになった。
冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。
香澄はスマートフォンをテーブルに置き、椅子に座った。
ひとりでいると寂しくない?
その質問に、いつも答えられない。
寂しいと言えば、誰かを探さなければならない気がする。
寂しくないと言えば、この静けさを全部自分で引き受けなければならない気がする。
香澄は温めた味噌汁を一口飲んだ。
少し薄かった。
三年前のことを思い出したのは、その味のせいかもしれない。
水野拓也。
元婚約者。
結婚式場の下見まで済ませていた相手だった。
優しくて、明るくて、誰からも好かれる人だった。
だから、破談になったときも、周囲は香澄を心配するより先に驚いた。
あんなにいい人なのに。
何があったの。
香澄ちゃん、何か言ったの。
香澄は何も言わなかった。
言えなかった。
最後に水野が言った言葉だけが、今も時々、胸の奥に残っている。
『君って、何を考えてるのかわからないんだよ』
責めるような声ではなかった。
むしろ困ったような、疲れたような声だった。
だから余計に、香澄は何も言えなかった。
何を考えているのかわからない。
そう言われてから、香澄はますます考えていることを隠すようになった。
言ってもわかってもらえないなら、最初から言わなければいい。
黙って笑っていれば、少なくとも場は荒れない。
その選択は、香澄を守ってくれた。
同時に、香澄を少しずつ空っぽにしていった。
翌朝、香澄はいつもより十分早く家を出た。
昨日残した仕事が気になっていた。
市役所に着くと、庁舎の入り口には清掃員がモップをかけていた。朝の光がガラス扉に反射している。
職員用の通用口から入ろうとしたとき、前方に見覚えのある背中があった。
佐伯律だった。
黒いビジネスバッグを片手に持ち、いつものように背筋を伸ばして歩いている。
香澄は足を止めた。
昨日のお礼を言わなければ。
そう思った。
けれど、声をかけるタイミングを迷っているうちに、佐伯はエレベーター前に着いてしまった。
「あの、佐伯さん」
思い切って呼びかける。
佐伯が振り返った。
眼鏡の奥の視線が、まっすぐ香澄に向く。
それだけで、なぜか背筋が伸びた。
「昨日は、ありがとうございました」
香澄は軽く頭を下げた。
「窓口の件です。助かりました」
佐伯は一瞬だけ考えるように間を置いた。
そして言った。
「規定通りです」
「え?」
「申請手続きに必要な確認をしただけです」
「あ、そう……ですよね」
香澄は笑顔を作った。
ありがとうと言ったのに、受け取られなかったような気がした。
助けたつもりはない。
そう線を引かれたみたいだった。
やっぱり、少し感じの悪い人かもしれない。
そう思った瞬間、エレベーターの扉が開いた。
佐伯は「失礼します」とだけ言って乗り込んだ。
香澄も乗るべきだったのに、なぜか一歩遅れた。
扉が閉まる。
銀色の扉に映った自分の顔は、ちゃんと笑っていた。
笑えている。
大丈夫。
そう確認してから、香澄は次のエレベーターを待った。
市民課に着くと、まだ人は少なかった。
香澄は自分の席に荷物を置き、昨日の書類を確認しようとした。
そのとき、机の上に見慣れない紙が一枚置かれていることに気づいた。
小さなメモ用紙だった。
角ばった字で、短く書かれている。
『昨日の件、藤野さんの対応記録は残してあります』
香澄は動きを止めた。
その下に、さらに一行。
『必要であれば共有します』
名前はない。
けれど誰が書いたのかは、すぐにわかった。
佐伯さんだ。
香澄はメモを指先でそっと持ち上げた。
昨日の件。
藤野さんの対応記録。
残してあります。
それは、優しい言葉ではなかった。
心配しています、とも、無理しないでください、とも書かれていない。
ただの業務連絡のような文面だった。
それなのに、香澄はしばらくそのメモから目を離せなかった。
昨日、佐伯は香澄を助けたのではないと言った。
規定通りです、と。
でも、記録を残してくれていた。
香澄が悪くないことを、あとからでも証明できるように。
昨日の出来事が、ただの「藤野さんがまたうまく収めたクレーム」にならないように。
誰も見ていないと思っていた。
誰も、香澄がどれだけ言葉を飲み込んだか気づいていないと思っていた。
けれど、見ていた人がいた。
香澄はメモを引き出しにしまおうとして、やめた。
代わりに、手帳の間にそっと挟んだ。
「藤野さん、おはようございます」
莉子が出勤してきた。
香澄は顔を上げる。
「おはよう」
いつもの笑顔で返す。
けれど、その笑顔は昨日までのものと少しだけ違っていた。
何が違うのか、自分でもうまく言えない。
ただ、胸の奥に小さな芯のようなものが残っていた。
誰かが、私の対応を記録してくれている。
誰かが、私の沈黙を見落とさなかった。
それだけで、今日の窓口に座る背中が、ほんの少しだけ軽くなった。
開庁のチャイムが鳴る。
自動ドアが開く。
今日も、市民課の一日が始まる。
香澄はマイクに手を伸ばした。
「番号札一番の方、三番窓口へどうぞ」
声はいつも通りだった。
でも、手帳の中には、佐伯のメモが挟まっている。
それは、誰にも見えない小さな紙片だった。
けれど香澄には、初めて自分の気持ちがどこかに受理されたような気がした。
まだ開庁して十分も経っていないというのに、市民課のフロアには、番号札を発行する機械の電子音、プリンターが紙を吐き出す音、ボールペンの先が申請書を走る音、誰かが小さく咳払いをする音が、途切れなく重なっていた。
藤野香澄は、窓口カウンターの内側で、今日使う申請書類の束を整えていた。
住民票の写し。戸籍謄本。印鑑登録証明書。転入届。転出届。
それぞれの用紙を決まった位置に置き、ペン立ての中のボールペンを同じ向きにそろえる。カウンターの端に置かれた老眼鏡を拭き、番号札の呼び出し機が正常に動くか確認する。
何度も繰り返してきた作業だった。
けれど香澄は、朝のこの時間が嫌いではなかった。
窓口が本格的に混み始める前の、ほんのわずかな静けさ。誰かの用件を受ける前の、白紙のような時間。
今日こそ、何事もなく終わればいい。
そう思いながら、香澄は受付台の角を布巾で拭いた。
「藤野さん、ちょっといい?」
背後から声をかけられた。
振り返ると、同じ市民課の後輩、村瀬莉子がファイルを抱えて立っていた。まだ二年目の職員で、眉を下げた顔がいかにも困っている。
「どうしたの?」
「昨日の転入届の件なんですけど、添付書類の確認がちょっと不安で……。あとで見てもらってもいいですか?」
「うん、大丈夫。机に置いておいて」
香澄が笑って答えると、莉子の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます! 助かります」
莉子が香澄の机にファイルを置く。
その横には、すでに係長から頼まれた資料の束があった。さらにその上には、昨日の閉庁間際に受けた問い合わせのメモが重なっている。
香澄はそれらをちらりと見てから、また笑った。
大丈夫。
いつものことだ。
「藤野さん、悪いんだけど」
今度は隣の席の斎藤が、パソコン画面から顔を上げた。
「今日の午後、住民基本台帳の確認作業、少し手伝ってもらえない? 俺、研修の資料作らなきゃいけなくて」
「わかりました。午後の窓口が落ち着いたら見ます」
「ごめんね、助かる」
「いえ、大丈夫です」
大丈夫。
その言葉を口にした瞬間、香澄の机の上にもう一枚、作業用のチェックリストが置かれた。
用紙が一枚増える。
それは、本当に小さな音だった。
紙が紙に重なるだけの、薄い音。
けれど香澄には、その音がやけにはっきり聞こえた。
「藤野さんって、本当に頼りになるよね」
斎藤が軽く笑った。
「何をお願いしても嫌な顔しないし」
「そんなことないですよ」
香澄はまた笑う。
嫌な顔をしないのではない。
嫌だと言う顔の作り方を、忘れてしまっただけだ。
そう思った瞬間、開庁を知らせる自動ドアの音が響いた。
市民が次々と入ってくる。案内係の声が飛ぶ。番号札の機械の前に人が並び始める。
「市民課、受付開始します」
係長の声に、香澄は背筋を伸ばした。
仕事が始まる。
自分の気持ちは、いったん引き出しにしまう。
窓口に座ると、香澄はいつもの表情を作った。
少し口角を上げる。目元をやわらかくする。声は高すぎず、低すぎず。相手を急かさない程度の速さで。
藤野香澄、三十四歳。
市民課勤務、七年目。
誰にでも丁寧で、仕事が早く、頼まれごとを断らない。
それが、職場での香澄の評価だった。
そして香澄自身も、その評価にずっと助けられてきた。
頼られるほうが楽だった。
嫌われるより、ずっといい。
「番号札二十三番の方、三番窓口へどうぞ」
香澄はマイクに向かって呼びかけた。
最初に来たのは、印鑑証明を取りに来た年配の女性だった。書類の記入欄を一つひとつ確認しながら、香澄は丁寧に説明する。
「こちらにお名前をお願いします。はい、ありがとうございます。本人確認書類を拝見してもよろしいですか?」
「あら、ごめんなさいね。こういうの、何度来てもよくわからなくて」
「大丈夫ですよ。こちらで確認いたしますね」
大丈夫。
今日何度目だろう。
香澄は心の中で数えかけて、やめた。
そんなことを数えても、何にもならない。
午前十時を過ぎるころには、市民課のフロアはすっかり混み合っていた。窓口の前の椅子はほぼ埋まり、立ったまま待っている人もいる。
香澄は一件ずつ、淡々と処理していった。
転入届の確認。住民票の交付。戸籍関係の問い合わせ。高齢の男性にはゆっくり説明し、小さな子どもを連れた母親には、なるべく短い言葉で案内した。
その合間に、莉子のファイルを確認する。
斎藤から頼まれたチェックリストにも目を通す。
係長から「藤野さん、これもお願い」と置かれた紙も受け取る。
「はい、大丈夫です」
香澄がそう言うたびに、机の上の書類は一枚ずつ増えていった。
昼前になって、少しだけ窓口の流れが止まった。
香澄が冷めかけたお茶に手を伸ばしたとき、番号札の機械が高い音を立てた。
二十九番。
香澄はマイクを取った。
「二十九番の方、三番窓口へどうぞ」
やって来たのは、五十代くらいの男性だった。眉間に深いしわが寄っている。手には、折れ曲がった申請書が握られていた。
香澄は立ち上がって一礼した。
「お待たせいたしました。本日はどういったご用件でしょうか」
「住民票」
「住民票の写しですね。こちらの申請書を確認させていただきます」
男性は無言で紙を差し出した。
香澄は受け取り、記入内容を確認した。
住所欄に、番地が抜けている。
「恐れ入ります。こちらの住所の番地部分が未記入になっておりますので、ご記入をお願いできますでしょうか」
香澄がペンを差し出すと、男性の表情が険しくなった。
「は? さっき案内のところでこれでいいって言われたけど」
「申し訳ございません。交付の際に必要な情報になりますので、こちらだけ追記をお願いいたします」
「だから、さっきそれでいいって言われたんだよ。なんで同じ役所の中で言うことが違うんだ」
声が大きくなった。
周囲の視線が、一斉にこちらへ向く。
香澄は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「申し訳ございません。こちらで確認いたします」
「確認って、こっちは急いでるんだよ。何分待たせるつもりだ」
「すぐに確認いたしますので、少々お待ちいただけますか」
「少々って何分だよ。そうやって適当なことばっかり言うから役所は信用できないんだ」
男性の声がさらに大きくなった。
カウンターの上に置かれた申請書が、男性の指で強く叩かれる。
びくりとした。
けれど香澄は、顔に出さなかった。
怒らせてはいけない。
ここで反論すれば、もっと長引く。
自分が謝れば済む。
そうやって何度も切り抜けてきた。
「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」
「そういうマニュアルみたいな謝り方が腹立つんだよ。あんた、ちゃんと話聞いてるの?」
「はい。確認しております」
「聞いてないだろ。人の時間を何だと思ってるんだ。こっちは暇じゃないんだよ。役所の人間は座ってれば給料もらえるからいいよな」
香澄の指先が冷たくなる。
悪いのは、私ではない。
番地が抜けている申請書を、そのまま受け付けられないだけ。
そう思うことはできた。
でも、それを口に出すことはできなかった。
「申し訳ございません」
頭を下げる。
何度も下げる。
そのたびに、周囲の空気が薄くなるような気がした。
隣の席の斎藤が一瞬こちらを見る。
莉子も不安そうに香澄を見ている。
けれど、誰も動かなかった。
藤野さんなら大丈夫。
藤野さんならうまく収められる。
その無言の信頼が、今は少しだけ苦しかった。
「だいたい、あんたの説明が悪いんだよ」
男性が身を乗り出す。
「さっきから何言ってるのかわかんないんだよ。もっとちゃんと説明しろよ」
香澄は唇の内側を噛んだ。
説明はした。
けれど、その言葉も飲み込んだ。
「申し訳ございません。改めてご説明いたします」
「だから、その態度が腹立つって言ってるんだよ!」
男性の手が、カウンターを強く叩いた。
乾いた音が響く。
その瞬間、香澄の肩が小さく跳ねた。
「失礼します」
低い声がした。
すぐ横からではない。
少し離れた、隣の課との境目あたりからだった。
香澄が振り返ると、グレーのファイルを手にした男性職員が立っていた。
福祉課の佐伯律。
同じフロアで働いているので顔は知っている。けれど、話したことはほとんどない。
無愛想な人。
それが香澄の印象だった。
背が高く、姿勢がよく、黒縁の眼鏡の奥の目はいつも冷静すぎるくらい冷静だ。余計な雑談をしているところを見たことがない。
その佐伯が、香澄の窓口のそばに立った。
「現在の手続きについて、確認してもよろしいでしょうか」
佐伯は香澄ではなく、男性に向かって言った。
声は低いが、威圧的ではない。淡々としていて、温度がない。
男性が眉を吊り上げる。
「あんた誰だよ」
「福祉課の佐伯です。こちらのフロアで窓口対応中ですので、状況を確認しました」
「関係ないだろ」
「ご意見は承ります。ただし、職員個人への侮辱は手続きではありません」
香澄は息を止めた。
場の空気が、一瞬止まった気がした。
男性も黙った。
佐伯は続けた。
「住民票の写しの交付には、申請者情報の確認が必要です。住所欄に不足がある場合、追記をお願いするのは通常の対応です」
「だから、最初の案内でいいって言われたんだよ」
「案内時の確認不足があった可能性はあります。その点はこちらで確認します。ただ、現時点で必要事項が未記入であることは変わりません」
佐伯は一歩も引かなかった。
けれど、相手を責めてもいなかった。
ただ、事実だけを置いていく。
「追記いただければ、交付手続きは進められます。追記されない場合は、こちらで申請を受理できません」
受理。
その言葉が、香澄の耳に残った。
男性はしばらく佐伯を睨んでいたが、やがて乱暴にペンを取った。
「最初からそう言えよ」
そう言い捨てて、番地を書き足す。
香澄は受け取った申請書を確認し、手続きを進めた。
指が少し震えていた。
それを見られないように、書類をそろえるふりをする。
「交付まで少々お待ちください」
香澄が頭を下げると、男性は不満げに椅子へ戻っていった。
ようやく、フロアの音が戻る。
プリンターの音。番号札の音。誰かの話し声。
香澄は、胸の奥にたまっていた息をそっと吐いた。
「あの……」
佐伯に礼を言おうとしたが、佐伯はすでにカウンターの端に視線を落としていた。
「対応記録は残してください」
「え?」
「今の件です。申請書不備、説明、追記依頼、利用者からの発言。念のため記録しておいたほうがいいです」
「あ、はい」
「それだけです」
佐伯は淡々と言うと、香澄の返事を待たずに福祉課のほうへ戻っていった。
ありがとう、を言うタイミングを失った。
香澄はその背中を見送りながら、胸の中に奇妙な感情が残るのを感じた。
助けてもらった。
たぶん。
でも、優しい言葉は一つもなかった。
大丈夫ですか、とも、災難でしたね、とも言われなかった。
それなのに。
佐伯の声がまだ耳に残っていた。
職員個人への侮辱は手続きではありません。
その言葉は、香澄が自分では決して言えなかったことだった。
あなたが悪いわけではない。
直接そう言われたわけではない。
けれど、そう聞こえた。
「藤野さん、大丈夫ですか?」
莉子が小声で聞いてきた。
香澄は反射的に笑った。
「大丈夫。ありがとう」
そう答えた瞬間、手元に置いていたボールペンが一本、床に転がった。
拾おうとして屈む。
そのほんの数秒だけ、香澄は自分の顔を誰にも見られずに済んだ。
昼休みは、ほとんど取れなかった。
午前中のクレーム対応の記録を残し、住民票の交付処理を終え、莉子の転入届の確認をしているうちに、休憩時間は半分以上過ぎていた。
デスクの端に置いたおにぎりを一つだけ食べる。
海苔が少し湿っていた。
香澄は冷めたお茶を飲みながら、佐伯の言葉を思い出していた。
手続きではありません。
ああいう言い方ができる人なのだと思った。
怒るでもなく、なだめるでもなく、ただ線を引く。
それは香澄がいちばん苦手なことだった。
午後も市民課は忙しかった。
書類を受け、説明をし、確認をし、謝り、笑う。
何度も「大丈夫です」と言った。
そのたびに、朝のカウンターを叩く音が少しだけ蘇った。
でも、仕事は進めなければならない。
市役所の窓口は、誰か一人の感情で止められる場所ではない。
閉庁時間が近づくころには、香澄の机の上には、朝よりもずっと高い書類の山ができていた。
莉子のファイル。斎藤のチェックリスト。係長の資料。自分の処理待ちのメモ。
香澄はそれを一枚ずつ確認し、付箋を貼り、明日の作業順に並べ直した。
「藤野さん、今日も助かったよ」
斎藤が帰り支度をしながら言った。
「いえ。途中までしかできてなくてすみません」
「いやいや、十分。藤野さんがいてくれるとほんと回るわ」
回る。
その言葉に、香澄は曖昧に笑った。
私が回しているのではなくて、私が止まれないだけかもしれない。
そんなことを思ったが、もちろん言わなかった。
残業を終えて帰るころには、外はすっかり暗くなっていた。
駅までの道を歩きながら、香澄はスマートフォンを確認した。
母から着信が入っている。
画面を見た瞬間、少しだけ肩が重くなった。
家に着いてからかけ直そう。
そう思い、スマートフォンを鞄にしまった。
ひとり暮らしの部屋は、いつも通り静かだった。
玄関の明かりをつけ、パンプスを脱ぐ。キッチンの小さな照明をつける。冷蔵庫を開けると、作り置きの煮物と、昨日買った豆腐が入っていた。
食欲はあまりなかった。
それでも何か食べなければと思い、味噌汁だけを温める。
湯気が立ち上るころ、スマートフォンが震えた。
母からだった。
香澄は少し迷ってから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『香澄? 今、大丈夫?』
「うん、大丈夫」
また言った。
大丈夫。
『今日も仕事だったんでしょう。忙しいの?』
「いつも通りかな」
『市役所って安定してるけど、大変なのねえ。でも、無理しちゃだめよ。あなた、昔から何でも抱え込むんだから』
「うん」
『そういえば、この前の話、考えてくれた?』
香澄は味噌汁の火を止めた。
「この前の話?」
『ほら、叔母さんの知り合いの息子さん。銀行にお勤めの。写真だけでも見てみないかって』
「ああ……」
『もう三十四でしょ。まだ若いけど、のんびりしてるとあっという間よ。いい人がいるなら会ってみるだけでも』
「うん」
『香澄は昔から自分のこと後回しにするから。お母さん、心配なのよ』
心配。
その言葉はいつも、優しい顔をして香澄の逃げ道をふさぐ。
『まだ結婚しないの? いい人いないの? 職場とかに』
香澄は鍋のふたを見つめた。
職場。
ふと、佐伯の顔が浮かんだ。
無愛想な横顔。低い声。冷静な目。
すぐに打ち消す。
違う。
そういう話ではない。
「今は仕事で精いっぱいかな」
『仕事も大事だけどね。でも、ひとりでいると寂しくない?』
「大丈夫だよ」
言ってから、香澄は目を伏せた。
母は電話の向こうで何かを言いかけたが、結局いつものようにため息をついた。
『まあ、あなたがそう言うならいいけど。でも、ちゃんと考えてね』
「うん。ありがとう」
通話を終えると、部屋の中が急に静かになった。
冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。
香澄はスマートフォンをテーブルに置き、椅子に座った。
ひとりでいると寂しくない?
その質問に、いつも答えられない。
寂しいと言えば、誰かを探さなければならない気がする。
寂しくないと言えば、この静けさを全部自分で引き受けなければならない気がする。
香澄は温めた味噌汁を一口飲んだ。
少し薄かった。
三年前のことを思い出したのは、その味のせいかもしれない。
水野拓也。
元婚約者。
結婚式場の下見まで済ませていた相手だった。
優しくて、明るくて、誰からも好かれる人だった。
だから、破談になったときも、周囲は香澄を心配するより先に驚いた。
あんなにいい人なのに。
何があったの。
香澄ちゃん、何か言ったの。
香澄は何も言わなかった。
言えなかった。
最後に水野が言った言葉だけが、今も時々、胸の奥に残っている。
『君って、何を考えてるのかわからないんだよ』
責めるような声ではなかった。
むしろ困ったような、疲れたような声だった。
だから余計に、香澄は何も言えなかった。
何を考えているのかわからない。
そう言われてから、香澄はますます考えていることを隠すようになった。
言ってもわかってもらえないなら、最初から言わなければいい。
黙って笑っていれば、少なくとも場は荒れない。
その選択は、香澄を守ってくれた。
同時に、香澄を少しずつ空っぽにしていった。
翌朝、香澄はいつもより十分早く家を出た。
昨日残した仕事が気になっていた。
市役所に着くと、庁舎の入り口には清掃員がモップをかけていた。朝の光がガラス扉に反射している。
職員用の通用口から入ろうとしたとき、前方に見覚えのある背中があった。
佐伯律だった。
黒いビジネスバッグを片手に持ち、いつものように背筋を伸ばして歩いている。
香澄は足を止めた。
昨日のお礼を言わなければ。
そう思った。
けれど、声をかけるタイミングを迷っているうちに、佐伯はエレベーター前に着いてしまった。
「あの、佐伯さん」
思い切って呼びかける。
佐伯が振り返った。
眼鏡の奥の視線が、まっすぐ香澄に向く。
それだけで、なぜか背筋が伸びた。
「昨日は、ありがとうございました」
香澄は軽く頭を下げた。
「窓口の件です。助かりました」
佐伯は一瞬だけ考えるように間を置いた。
そして言った。
「規定通りです」
「え?」
「申請手続きに必要な確認をしただけです」
「あ、そう……ですよね」
香澄は笑顔を作った。
ありがとうと言ったのに、受け取られなかったような気がした。
助けたつもりはない。
そう線を引かれたみたいだった。
やっぱり、少し感じの悪い人かもしれない。
そう思った瞬間、エレベーターの扉が開いた。
佐伯は「失礼します」とだけ言って乗り込んだ。
香澄も乗るべきだったのに、なぜか一歩遅れた。
扉が閉まる。
銀色の扉に映った自分の顔は、ちゃんと笑っていた。
笑えている。
大丈夫。
そう確認してから、香澄は次のエレベーターを待った。
市民課に着くと、まだ人は少なかった。
香澄は自分の席に荷物を置き、昨日の書類を確認しようとした。
そのとき、机の上に見慣れない紙が一枚置かれていることに気づいた。
小さなメモ用紙だった。
角ばった字で、短く書かれている。
『昨日の件、藤野さんの対応記録は残してあります』
香澄は動きを止めた。
その下に、さらに一行。
『必要であれば共有します』
名前はない。
けれど誰が書いたのかは、すぐにわかった。
佐伯さんだ。
香澄はメモを指先でそっと持ち上げた。
昨日の件。
藤野さんの対応記録。
残してあります。
それは、優しい言葉ではなかった。
心配しています、とも、無理しないでください、とも書かれていない。
ただの業務連絡のような文面だった。
それなのに、香澄はしばらくそのメモから目を離せなかった。
昨日、佐伯は香澄を助けたのではないと言った。
規定通りです、と。
でも、記録を残してくれていた。
香澄が悪くないことを、あとからでも証明できるように。
昨日の出来事が、ただの「藤野さんがまたうまく収めたクレーム」にならないように。
誰も見ていないと思っていた。
誰も、香澄がどれだけ言葉を飲み込んだか気づいていないと思っていた。
けれど、見ていた人がいた。
香澄はメモを引き出しにしまおうとして、やめた。
代わりに、手帳の間にそっと挟んだ。
「藤野さん、おはようございます」
莉子が出勤してきた。
香澄は顔を上げる。
「おはよう」
いつもの笑顔で返す。
けれど、その笑顔は昨日までのものと少しだけ違っていた。
何が違うのか、自分でもうまく言えない。
ただ、胸の奥に小さな芯のようなものが残っていた。
誰かが、私の対応を記録してくれている。
誰かが、私の沈黙を見落とさなかった。
それだけで、今日の窓口に座る背中が、ほんの少しだけ軽くなった。
開庁のチャイムが鳴る。
自動ドアが開く。
今日も、市民課の一日が始まる。
香澄はマイクに手を伸ばした。
「番号札一番の方、三番窓口へどうぞ」
声はいつも通りだった。
でも、手帳の中には、佐伯のメモが挟まっている。
それは、誰にも見えない小さな紙片だった。
けれど香澄には、初めて自分の気持ちがどこかに受理されたような気がした。
< 1 / 12 >