となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う

第1話 笑顔で受理する女

 市役所の朝は、思ったよりも音が多い。

 まだ開庁して十分も経っていないというのに、市民課のフロアには、番号札を発行する機械の電子音、プリンターが紙を吐き出す音、ボールペンの先が申請書を走る音、誰かが小さく咳払いをする音が、途切れなく重なっていた。

 藤野香澄は、窓口カウンターの内側で、今日使う申請書類の束を整えていた。

 住民票の写し。戸籍謄本。印鑑登録証明書。転入届。転出届。

 それぞれの用紙を決まった位置に置き、ペン立ての中のボールペンを同じ向きにそろえる。カウンターの端に置かれた老眼鏡を拭き、番号札の呼び出し機が正常に動くか確認する。

 何度も繰り返してきた作業だった。

 けれど香澄は、朝のこの時間が嫌いではなかった。

 窓口が本格的に混み始める前の、ほんのわずかな静けさ。誰かの用件を受ける前の、白紙のような時間。

 今日こそ、何事もなく終わればいい。

 そう思いながら、香澄は受付台の角を布巾で拭いた。

「藤野さん、ちょっといい?」

 背後から声をかけられた。

 振り返ると、同じ市民課の後輩、村瀬莉子がファイルを抱えて立っていた。まだ二年目の職員で、眉を下げた顔がいかにも困っている。

「どうしたの?」

「昨日の転入届の件なんですけど、添付書類の確認がちょっと不安で……。あとで見てもらってもいいですか?」

「うん、大丈夫。机に置いておいて」

 香澄が笑って答えると、莉子の顔がぱっと明るくなった。

「ありがとうございます! 助かります」

 莉子が香澄の机にファイルを置く。

 その横には、すでに係長から頼まれた資料の束があった。さらにその上には、昨日の閉庁間際に受けた問い合わせのメモが重なっている。

 香澄はそれらをちらりと見てから、また笑った。

 大丈夫。

 いつものことだ。

「藤野さん、悪いんだけど」

 今度は隣の席の斎藤が、パソコン画面から顔を上げた。

「今日の午後、住民基本台帳の確認作業、少し手伝ってもらえない? 俺、研修の資料作らなきゃいけなくて」

「わかりました。午後の窓口が落ち着いたら見ます」

「ごめんね、助かる」

「いえ、大丈夫です」

 大丈夫。

 その言葉を口にした瞬間、香澄の机の上にもう一枚、作業用のチェックリストが置かれた。

 用紙が一枚増える。

 それは、本当に小さな音だった。

 紙が紙に重なるだけの、薄い音。

 けれど香澄には、その音がやけにはっきり聞こえた。

「藤野さんって、本当に頼りになるよね」

 斎藤が軽く笑った。

「何をお願いしても嫌な顔しないし」

「そんなことないですよ」

 香澄はまた笑う。

 嫌な顔をしないのではない。

 嫌だと言う顔の作り方を、忘れてしまっただけだ。

 そう思った瞬間、開庁を知らせる自動ドアの音が響いた。

 市民が次々と入ってくる。案内係の声が飛ぶ。番号札の機械の前に人が並び始める。

「市民課、受付開始します」

 係長の声に、香澄は背筋を伸ばした。

 仕事が始まる。

 自分の気持ちは、いったん引き出しにしまう。

 窓口に座ると、香澄はいつもの表情を作った。

 少し口角を上げる。目元をやわらかくする。声は高すぎず、低すぎず。相手を急かさない程度の速さで。

 藤野香澄、三十四歳。

 市民課勤務、七年目。

 誰にでも丁寧で、仕事が早く、頼まれごとを断らない。

 それが、職場での香澄の評価だった。

 そして香澄自身も、その評価にずっと助けられてきた。

 頼られるほうが楽だった。

 嫌われるより、ずっといい。

「番号札二十三番の方、三番窓口へどうぞ」

 香澄はマイクに向かって呼びかけた。

 最初に来たのは、印鑑証明を取りに来た年配の女性だった。書類の記入欄を一つひとつ確認しながら、香澄は丁寧に説明する。

「こちらにお名前をお願いします。はい、ありがとうございます。本人確認書類を拝見してもよろしいですか?」

「あら、ごめんなさいね。こういうの、何度来てもよくわからなくて」

「大丈夫ですよ。こちらで確認いたしますね」

 大丈夫。

 今日何度目だろう。

 香澄は心の中で数えかけて、やめた。

 そんなことを数えても、何にもならない。

 午前十時を過ぎるころには、市民課のフロアはすっかり混み合っていた。窓口の前の椅子はほぼ埋まり、立ったまま待っている人もいる。

 香澄は一件ずつ、淡々と処理していった。

 転入届の確認。住民票の交付。戸籍関係の問い合わせ。高齢の男性にはゆっくり説明し、小さな子どもを連れた母親には、なるべく短い言葉で案内した。

 その合間に、莉子のファイルを確認する。

 斎藤から頼まれたチェックリストにも目を通す。

 係長から「藤野さん、これもお願い」と置かれた紙も受け取る。

「はい、大丈夫です」

 香澄がそう言うたびに、机の上の書類は一枚ずつ増えていった。

 昼前になって、少しだけ窓口の流れが止まった。

 香澄が冷めかけたお茶に手を伸ばしたとき、番号札の機械が高い音を立てた。

 二十九番。

 香澄はマイクを取った。

「二十九番の方、三番窓口へどうぞ」

 やって来たのは、五十代くらいの男性だった。眉間に深いしわが寄っている。手には、折れ曲がった申請書が握られていた。

 香澄は立ち上がって一礼した。

「お待たせいたしました。本日はどういったご用件でしょうか」

「住民票」

「住民票の写しですね。こちらの申請書を確認させていただきます」

 男性は無言で紙を差し出した。

 香澄は受け取り、記入内容を確認した。

 住所欄に、番地が抜けている。

「恐れ入ります。こちらの住所の番地部分が未記入になっておりますので、ご記入をお願いできますでしょうか」

 香澄がペンを差し出すと、男性の表情が険しくなった。

「は? さっき案内のところでこれでいいって言われたけど」

「申し訳ございません。交付の際に必要な情報になりますので、こちらだけ追記をお願いいたします」

「だから、さっきそれでいいって言われたんだよ。なんで同じ役所の中で言うことが違うんだ」

 声が大きくなった。

 周囲の視線が、一斉にこちらへ向く。

 香澄は、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

「申し訳ございません。こちらで確認いたします」

「確認って、こっちは急いでるんだよ。何分待たせるつもりだ」

「すぐに確認いたしますので、少々お待ちいただけますか」

「少々って何分だよ。そうやって適当なことばっかり言うから役所は信用できないんだ」

 男性の声がさらに大きくなった。

 カウンターの上に置かれた申請書が、男性の指で強く叩かれる。

 びくりとした。

 けれど香澄は、顔に出さなかった。

 怒らせてはいけない。

 ここで反論すれば、もっと長引く。

 自分が謝れば済む。

 そうやって何度も切り抜けてきた。

「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」

「そういうマニュアルみたいな謝り方が腹立つんだよ。あんた、ちゃんと話聞いてるの?」

「はい。確認しております」

「聞いてないだろ。人の時間を何だと思ってるんだ。こっちは暇じゃないんだよ。役所の人間は座ってれば給料もらえるからいいよな」

 香澄の指先が冷たくなる。

 悪いのは、私ではない。

 番地が抜けている申請書を、そのまま受け付けられないだけ。

 そう思うことはできた。

 でも、それを口に出すことはできなかった。

「申し訳ございません」

 頭を下げる。

 何度も下げる。

 そのたびに、周囲の空気が薄くなるような気がした。

 隣の席の斎藤が一瞬こちらを見る。

 莉子も不安そうに香澄を見ている。

 けれど、誰も動かなかった。

 藤野さんなら大丈夫。

 藤野さんならうまく収められる。

 その無言の信頼が、今は少しだけ苦しかった。

「だいたい、あんたの説明が悪いんだよ」

 男性が身を乗り出す。

「さっきから何言ってるのかわかんないんだよ。もっとちゃんと説明しろよ」

 香澄は唇の内側を噛んだ。

 説明はした。

 けれど、その言葉も飲み込んだ。

「申し訳ございません。改めてご説明いたします」

「だから、その態度が腹立つって言ってるんだよ!」

 男性の手が、カウンターを強く叩いた。

 乾いた音が響く。

 その瞬間、香澄の肩が小さく跳ねた。

「失礼します」

 低い声がした。

 すぐ横からではない。

 少し離れた、隣の課との境目あたりからだった。

 香澄が振り返ると、グレーのファイルを手にした男性職員が立っていた。

 福祉課の佐伯律。

 同じフロアで働いているので顔は知っている。けれど、話したことはほとんどない。

 無愛想な人。

 それが香澄の印象だった。

 背が高く、姿勢がよく、黒縁の眼鏡の奥の目はいつも冷静すぎるくらい冷静だ。余計な雑談をしているところを見たことがない。

 その佐伯が、香澄の窓口のそばに立った。

「現在の手続きについて、確認してもよろしいでしょうか」

 佐伯は香澄ではなく、男性に向かって言った。

 声は低いが、威圧的ではない。淡々としていて、温度がない。

 男性が眉を吊り上げる。

「あんた誰だよ」

「福祉課の佐伯です。こちらのフロアで窓口対応中ですので、状況を確認しました」

「関係ないだろ」

「ご意見は承ります。ただし、職員個人への侮辱は手続きではありません」

 香澄は息を止めた。

 場の空気が、一瞬止まった気がした。

 男性も黙った。

 佐伯は続けた。

「住民票の写しの交付には、申請者情報の確認が必要です。住所欄に不足がある場合、追記をお願いするのは通常の対応です」

「だから、最初の案内でいいって言われたんだよ」

「案内時の確認不足があった可能性はあります。その点はこちらで確認します。ただ、現時点で必要事項が未記入であることは変わりません」

 佐伯は一歩も引かなかった。

 けれど、相手を責めてもいなかった。

 ただ、事実だけを置いていく。

「追記いただければ、交付手続きは進められます。追記されない場合は、こちらで申請を受理できません」

 受理。

 その言葉が、香澄の耳に残った。

 男性はしばらく佐伯を睨んでいたが、やがて乱暴にペンを取った。

「最初からそう言えよ」

 そう言い捨てて、番地を書き足す。

 香澄は受け取った申請書を確認し、手続きを進めた。

 指が少し震えていた。

 それを見られないように、書類をそろえるふりをする。

「交付まで少々お待ちください」

 香澄が頭を下げると、男性は不満げに椅子へ戻っていった。

 ようやく、フロアの音が戻る。

 プリンターの音。番号札の音。誰かの話し声。

 香澄は、胸の奥にたまっていた息をそっと吐いた。

「あの……」

 佐伯に礼を言おうとしたが、佐伯はすでにカウンターの端に視線を落としていた。

「対応記録は残してください」

「え?」

「今の件です。申請書不備、説明、追記依頼、利用者からの発言。念のため記録しておいたほうがいいです」

「あ、はい」

「それだけです」

 佐伯は淡々と言うと、香澄の返事を待たずに福祉課のほうへ戻っていった。

 ありがとう、を言うタイミングを失った。

 香澄はその背中を見送りながら、胸の中に奇妙な感情が残るのを感じた。

 助けてもらった。

 たぶん。

 でも、優しい言葉は一つもなかった。

 大丈夫ですか、とも、災難でしたね、とも言われなかった。

 それなのに。

 佐伯の声がまだ耳に残っていた。

 職員個人への侮辱は手続きではありません。

 その言葉は、香澄が自分では決して言えなかったことだった。

 あなたが悪いわけではない。

 直接そう言われたわけではない。

 けれど、そう聞こえた。

「藤野さん、大丈夫ですか?」

 莉子が小声で聞いてきた。

 香澄は反射的に笑った。

「大丈夫。ありがとう」

 そう答えた瞬間、手元に置いていたボールペンが一本、床に転がった。

 拾おうとして屈む。

 そのほんの数秒だけ、香澄は自分の顔を誰にも見られずに済んだ。

 昼休みは、ほとんど取れなかった。

 午前中のクレーム対応の記録を残し、住民票の交付処理を終え、莉子の転入届の確認をしているうちに、休憩時間は半分以上過ぎていた。

 デスクの端に置いたおにぎりを一つだけ食べる。

 海苔が少し湿っていた。

 香澄は冷めたお茶を飲みながら、佐伯の言葉を思い出していた。

 手続きではありません。

 ああいう言い方ができる人なのだと思った。

 怒るでもなく、なだめるでもなく、ただ線を引く。

 それは香澄がいちばん苦手なことだった。

 午後も市民課は忙しかった。

 書類を受け、説明をし、確認をし、謝り、笑う。

 何度も「大丈夫です」と言った。

 そのたびに、朝のカウンターを叩く音が少しだけ蘇った。

 でも、仕事は進めなければならない。

 市役所の窓口は、誰か一人の感情で止められる場所ではない。

 閉庁時間が近づくころには、香澄の机の上には、朝よりもずっと高い書類の山ができていた。

 莉子のファイル。斎藤のチェックリスト。係長の資料。自分の処理待ちのメモ。

 香澄はそれを一枚ずつ確認し、付箋を貼り、明日の作業順に並べ直した。

「藤野さん、今日も助かったよ」

 斎藤が帰り支度をしながら言った。

「いえ。途中までしかできてなくてすみません」

「いやいや、十分。藤野さんがいてくれるとほんと回るわ」

 回る。

 その言葉に、香澄は曖昧に笑った。

 私が回しているのではなくて、私が止まれないだけかもしれない。

 そんなことを思ったが、もちろん言わなかった。

 残業を終えて帰るころには、外はすっかり暗くなっていた。

 駅までの道を歩きながら、香澄はスマートフォンを確認した。

 母から着信が入っている。

 画面を見た瞬間、少しだけ肩が重くなった。

 家に着いてからかけ直そう。

 そう思い、スマートフォンを鞄にしまった。

 ひとり暮らしの部屋は、いつも通り静かだった。

 玄関の明かりをつけ、パンプスを脱ぐ。キッチンの小さな照明をつける。冷蔵庫を開けると、作り置きの煮物と、昨日買った豆腐が入っていた。

 食欲はあまりなかった。

 それでも何か食べなければと思い、味噌汁だけを温める。

 湯気が立ち上るころ、スマートフォンが震えた。

 母からだった。

 香澄は少し迷ってから、通話ボタンを押した。

「もしもし」

『香澄? 今、大丈夫?』

「うん、大丈夫」

 また言った。

 大丈夫。

『今日も仕事だったんでしょう。忙しいの?』

「いつも通りかな」

『市役所って安定してるけど、大変なのねえ。でも、無理しちゃだめよ。あなた、昔から何でも抱え込むんだから』

「うん」

『そういえば、この前の話、考えてくれた?』

 香澄は味噌汁の火を止めた。

「この前の話?」

『ほら、叔母さんの知り合いの息子さん。銀行にお勤めの。写真だけでも見てみないかって』

「ああ……」

『もう三十四でしょ。まだ若いけど、のんびりしてるとあっという間よ。いい人がいるなら会ってみるだけでも』

「うん」

『香澄は昔から自分のこと後回しにするから。お母さん、心配なのよ』

 心配。

 その言葉はいつも、優しい顔をして香澄の逃げ道をふさぐ。

『まだ結婚しないの? いい人いないの? 職場とかに』

 香澄は鍋のふたを見つめた。

 職場。

 ふと、佐伯の顔が浮かんだ。

 無愛想な横顔。低い声。冷静な目。

 すぐに打ち消す。

 違う。

 そういう話ではない。

「今は仕事で精いっぱいかな」

『仕事も大事だけどね。でも、ひとりでいると寂しくない?』

「大丈夫だよ」

 言ってから、香澄は目を伏せた。

 母は電話の向こうで何かを言いかけたが、結局いつものようにため息をついた。

『まあ、あなたがそう言うならいいけど。でも、ちゃんと考えてね』

「うん。ありがとう」

 通話を終えると、部屋の中が急に静かになった。

 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。

 香澄はスマートフォンをテーブルに置き、椅子に座った。

 ひとりでいると寂しくない?

 その質問に、いつも答えられない。

 寂しいと言えば、誰かを探さなければならない気がする。

 寂しくないと言えば、この静けさを全部自分で引き受けなければならない気がする。

 香澄は温めた味噌汁を一口飲んだ。

 少し薄かった。

 三年前のことを思い出したのは、その味のせいかもしれない。

 水野拓也。

 元婚約者。

 結婚式場の下見まで済ませていた相手だった。

 優しくて、明るくて、誰からも好かれる人だった。

 だから、破談になったときも、周囲は香澄を心配するより先に驚いた。

 あんなにいい人なのに。

 何があったの。

 香澄ちゃん、何か言ったの。

 香澄は何も言わなかった。

 言えなかった。

 最後に水野が言った言葉だけが、今も時々、胸の奥に残っている。

『君って、何を考えてるのかわからないんだよ』

 責めるような声ではなかった。

 むしろ困ったような、疲れたような声だった。

 だから余計に、香澄は何も言えなかった。

 何を考えているのかわからない。

 そう言われてから、香澄はますます考えていることを隠すようになった。

 言ってもわかってもらえないなら、最初から言わなければいい。

 黙って笑っていれば、少なくとも場は荒れない。

 その選択は、香澄を守ってくれた。

 同時に、香澄を少しずつ空っぽにしていった。

 翌朝、香澄はいつもより十分早く家を出た。

 昨日残した仕事が気になっていた。

 市役所に着くと、庁舎の入り口には清掃員がモップをかけていた。朝の光がガラス扉に反射している。

 職員用の通用口から入ろうとしたとき、前方に見覚えのある背中があった。

 佐伯律だった。

 黒いビジネスバッグを片手に持ち、いつものように背筋を伸ばして歩いている。

 香澄は足を止めた。

 昨日のお礼を言わなければ。

 そう思った。

 けれど、声をかけるタイミングを迷っているうちに、佐伯はエレベーター前に着いてしまった。

「あの、佐伯さん」

 思い切って呼びかける。

 佐伯が振り返った。

 眼鏡の奥の視線が、まっすぐ香澄に向く。

 それだけで、なぜか背筋が伸びた。

「昨日は、ありがとうございました」

 香澄は軽く頭を下げた。

「窓口の件です。助かりました」

 佐伯は一瞬だけ考えるように間を置いた。

 そして言った。

「規定通りです」

「え?」

「申請手続きに必要な確認をしただけです」

「あ、そう……ですよね」

 香澄は笑顔を作った。

 ありがとうと言ったのに、受け取られなかったような気がした。

 助けたつもりはない。

 そう線を引かれたみたいだった。

 やっぱり、少し感じの悪い人かもしれない。

 そう思った瞬間、エレベーターの扉が開いた。

 佐伯は「失礼します」とだけ言って乗り込んだ。

 香澄も乗るべきだったのに、なぜか一歩遅れた。

 扉が閉まる。

 銀色の扉に映った自分の顔は、ちゃんと笑っていた。

 笑えている。

 大丈夫。

 そう確認してから、香澄は次のエレベーターを待った。

 市民課に着くと、まだ人は少なかった。

 香澄は自分の席に荷物を置き、昨日の書類を確認しようとした。

 そのとき、机の上に見慣れない紙が一枚置かれていることに気づいた。

 小さなメモ用紙だった。

 角ばった字で、短く書かれている。

『昨日の件、藤野さんの対応記録は残してあります』

 香澄は動きを止めた。

 その下に、さらに一行。

『必要であれば共有します』

 名前はない。

 けれど誰が書いたのかは、すぐにわかった。

 佐伯さんだ。

 香澄はメモを指先でそっと持ち上げた。

 昨日の件。

 藤野さんの対応記録。

 残してあります。

 それは、優しい言葉ではなかった。

 心配しています、とも、無理しないでください、とも書かれていない。

 ただの業務連絡のような文面だった。

 それなのに、香澄はしばらくそのメモから目を離せなかった。

 昨日、佐伯は香澄を助けたのではないと言った。

 規定通りです、と。

 でも、記録を残してくれていた。

 香澄が悪くないことを、あとからでも証明できるように。

 昨日の出来事が、ただの「藤野さんがまたうまく収めたクレーム」にならないように。

 誰も見ていないと思っていた。

 誰も、香澄がどれだけ言葉を飲み込んだか気づいていないと思っていた。

 けれど、見ていた人がいた。

 香澄はメモを引き出しにしまおうとして、やめた。

 代わりに、手帳の間にそっと挟んだ。

「藤野さん、おはようございます」

 莉子が出勤してきた。

 香澄は顔を上げる。

「おはよう」

 いつもの笑顔で返す。

 けれど、その笑顔は昨日までのものと少しだけ違っていた。

 何が違うのか、自分でもうまく言えない。

 ただ、胸の奥に小さな芯のようなものが残っていた。

 誰かが、私の対応を記録してくれている。

 誰かが、私の沈黙を見落とさなかった。

 それだけで、今日の窓口に座る背中が、ほんの少しだけ軽くなった。

 開庁のチャイムが鳴る。

 自動ドアが開く。

 今日も、市民課の一日が始まる。

 香澄はマイクに手を伸ばした。

「番号札一番の方、三番窓口へどうぞ」

 声はいつも通りだった。

 でも、手帳の中には、佐伯のメモが挟まっている。

 それは、誰にも見えない小さな紙片だった。

 けれど香澄には、初めて自分の気持ちがどこかに受理されたような気がした。
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