となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う

第2話 無愛想な佐伯さん

 佐伯律という人について、香澄が知っていることは少なかった。

 福祉課の職員であること。

 黒縁の眼鏡をかけていること。

 いつも背筋がまっすぐで、歩く音が静かなこと。

 そして、たぶん、あまり人に好かれようとしていないこと。

 翌朝、香澄が市民課のカウンター内で申請書を補充していると、隣の席で莉子が小さな声を上げた。

「あ、福祉課の佐伯さんだ」

 香澄は反射的に顔を上げた。

 フロアの反対側、福祉課の窓口前を、佐伯が歩いていた。片手にファイルを持ち、職員に何か短く告げている。相手の職員が少し慌てたように頷くと、佐伯はそれ以上話を広げることなく、自分の席へ戻っていった。

 無駄がない。

 そう思った。

 同時に、やっぱり少し近寄りがたいとも思った。

「佐伯さんって、ほんと無愛想ですよね」

 莉子が声を潜めて言う。

「そう?」

「はい。前に福祉課に書類持っていったとき、質問したら一言だけ返されて終わりました。冷たいっていうか、話しかけづらいっていうか」

 莉子は悪口というより、純粋に怖がっているような顔をしていた。

 斎藤もコーヒーを片手に会話へ入ってくる。

「ああ、佐伯ね。あの人、仕事はできるんだけどな。雑談ゼロだから、若手はびびるよな」

「ですよね。何考えてるかわからないです」

 その言葉に、香澄の手が少し止まった。

 何を考えているのかわからない。

 聞き慣れた言葉だった。

 自分に向けられたわけではないのに、胸の奥の古い傷に、細い針が触れたような気がした。

「藤野さんは、佐伯さんと話したことありますか?」

 莉子に聞かれ、香澄は一瞬迷った。

「昨日、少しだけ」

「あ、クレームの件ですか? 佐伯さん、来てましたもんね。すごかったですよね。怖かったけど」

「怖かった?」

「はい。怒鳴ってないのに、なんか相手が黙る感じ」

 たしかに、そうだった。

 佐伯は声を荒らげなかった。相手を責めもしなかった。ただ、そこに線を引いた。

 職員個人への侮辱は手続きではありません。

 あの言葉を思い出すと、香澄の胸の奥に、まだ小さな熱が残る。

「でも、ちょっと冷たいですよね」

 莉子が言った。

「昨日も、藤野さんに大丈夫ですかとか言ってくれたわけじゃないんですよね?」

「うん。対応記録を残してください、って」

「わあ、事務的」

 莉子が肩をすくめる。

 斎藤も笑った。

「佐伯らしいな。あの人、たぶん慰め方とか知らないんだよ」

 香澄は曖昧に笑った。

 同意しようと思えばできた。

 たしかに、佐伯は優しい人には見えない。

 昨日の朝も、礼を言った香澄に「規定通りです」とだけ返した。あの瞬間、香澄は少し傷ついた。感謝を差し出した手を、空中で置き去りにされたような気がした。

 けれど、手帳の間には、あのメモが挟まっている。

『昨日の件、藤野さんの対応記録は残してあります』

 必要であれば共有します。

 名前もない、感情もない、硬い文字。

 でも、その一文は、昨日からずっと香澄の中に残っていた。

「……冷たい、だけではないと思う」

 気づけば、香澄はそう口にしていた。

 莉子が目を丸くする。

「え?」

「あ、ううん。仕事の仕方が、きっちりしている人なのかなって」

 慌てて言い直すと、斎藤が軽く笑った。

「藤野さんは優しいなあ。誰のことも悪く言わないよね」

 そう言われて、香澄はまた笑った。

 違う。

 悪く言わないのではなく、言えないだけだ。

 けれど今日は、その笑顔の奥で少しだけ違う感情が動いていた。

 佐伯を冷たい人だと決めつけることに、なぜか抵抗があった。

 無愛想。

 冷たい。

 話しかけづらい。

 どれも間違ってはいないのかもしれない。

 でも、それだけではない気がした。

 少なくとも香澄は、昨日、誰よりも静かに自分の状況を見ていた人を知っている。

 午前中の窓口は、昨日ほどではないが忙しかった。

 週明けのせいか、転入・転出関係の手続きが多い。香澄は番号札を呼び、書類を確認し、本人確認書類を受け取り、説明を繰り返した。

「こちらにご記入をお願いします」

「少々お待ちください」

「確認いたしますね」

 いつもの言葉。

 いつもの声。

 いつもの笑顔。

 時計が正午を過ぎても、香澄は席を立てなかった。

 莉子が申し訳なさそうに声をかける。

「藤野さん、先に休憩行ってきてもいいですか? 午後イチで電話当番入ってて」

「うん、大丈夫。行ってきて」

「すみません。戻ったら代わります」

「急がなくていいよ」

 莉子がほっとした顔で席を立つ。

 斎藤も「俺も外で食ってくる」と言って出て行った。

 市民課の人数が少し減る。

 香澄は残った窓口対応を片づけながら、机の端に置いた小さな弁当袋を見た。

 朝、自分で詰めたものだ。ご飯と卵焼きと、冷凍のブロッコリー。

 けれど、食べる時間はなさそうだった。

 午後の処理に回す書類もある。昨日から残っているチェックリストも終わっていない。

 少しだけなら抜いても大丈夫。

 そう思った瞬間、自分の中でまたその言葉が響いた。

 大丈夫。

 本当に?

 香澄は小さく息を吐いた。

 午後一時前、ようやく窓口が落ち着いた。

 弁当を食べるには遅い。けれど何も口にしないのもよくないと思い、香澄は財布だけを持って庁舎の奥にある休憩スペースへ向かった。

 自動販売機が二台並び、丸いテーブルと椅子がいくつか置かれているだけの簡素な場所だ。昼休みのピークを過ぎているため、人はほとんどいなかった。

 香澄は自販機の前で、何を買うか迷った。

 コーヒーでは胃に重い気がする。

 でも水だけでは、午後を乗り切れる気がしない。

 そのとき、隣の自販機の前に人影が立った。

 佐伯だった。

 香澄は思わず背筋を伸ばした。

 佐伯は香澄に気づいたが、驚いた様子はなかった。いつものように無表情で、自販機に硬貨を入れる。

 選んだのは、温かい緑茶だった。

 取り出し口から缶を取ると、佐伯は香澄を一瞥した。

「昼は?」

 唐突だった。

「え?」

「食べましたか」

「あ……いえ。少し忙しくて」

 香澄は反射的に笑った。

「でも、大丈夫です。あとで何か食べます」

 佐伯は缶のお茶を手にしたまま、香澄を見ていた。

 責めるでもなく、心配するでもなく。

 ただ、確認するような視線だった。

「午後、判断が鈍ります」

 それだけ言うと、佐伯は自分の買った缶を持って歩き出した。

 香澄は数秒、言葉の意味を理解できずに立ち尽くした。

 判断が鈍ります。

 それは、体を気遣う言葉なのか。

 仕事上の注意なのか。

 たぶん、両方なのだろう。

 香澄は自販機のボタンを見つめた。温かい緑茶の隣に、コーンスープの缶がある。

 いつもなら、カロリーがどうとか、午後の窓口のにおいがどうとか考えて選ばなかった。

 でも今日は、指が自然とそのボタンを押していた。

 缶が落ちる音がする。

 取り出すと、手のひらにじんわりと熱が広がった。

 佐伯の背中はもう廊下の角を曲がるところだった。

 ありがとう、と言うほどのことではない。

 むしろ、昼を抜くなと遠回しに注意されただけだ。

 それなのに、香澄は少しだけ可笑しくなった。

 温かい缶を両手で包み、椅子に座る。

 ふたを開けると、甘いコーンの匂いがふわりと立った。

 ひと口飲む。

 空っぽになりかけていた胃に、温かさが落ちていく。

 午後、判断が鈍ります。

 佐伯の声を思い出す。

 慰め方は知らない人かもしれない。

 けれど、気づかない人ではないのかもしれない。

 午後の市民課は、午前中よりも静かだった。

 香澄は弁当を半分だけ食べ、窓口に戻った。確かに、何も食べないより頭がはっきりしている気がした。

 書類の確認も進んだ。

 莉子のファイルも問題点を書き出し、付箋を貼って返した。

「藤野さん、ありがとうございます! やっぱり見てもらってよかったです」

「よかった。次からここだけ確認すれば大丈夫だと思う」

「はい!」

 莉子は嬉しそうに席へ戻った。

 香澄も自分の作業へ戻ろうとしたとき、斎藤が大きなファイルを二冊抱えてやって来た。

「藤野さん、ちょっといい?」

 その声に、香澄の手が止まる。

 嫌な予感がした。

「はい」

「この前の保存年限の資料なんだけど、今日中に棚卸しのチェック入れなきゃいけないの忘れててさ。悪いんだけど、藤野さん見てもらえない?」

 斎藤はファイルを香澄の机の空いている場所に置いた。

 空いている場所、というより、無理に作った隙間だった。

 香澄の机の上には、すでに今日処理すべき書類がいくつもある。午前中から残っているものも、明日の準備も、係長に頼まれた集計も。

 ファイル二冊分の資料整理は、どう見ても軽い作業ではなかった。

「今日中、ですか?」

「うん。俺、午後から例の研修資料を仕上げなきゃで。藤野さん、こういうの早いでしょ?」

 早い。

 昨日も似たようなことを言われた気がする。

 藤野さんがいてくれると回る。

 頼りになる。

 嫌な顔しない。

 その言葉たちは、一見優しい。

 でも、気づけばいつも香澄の机の上に書類を増やしていく。

「わかりました」

 口が、先に動いた。

「助かる。ほんとごめんね」

「いえ、大丈夫です」

 また言った。

 斎藤は安心したように笑い、自分の席へ戻っていく。

 香澄はファイルに手を置いた。

 重い。

 紙の重さだけではない気がした。

 そのとき、視界の端に人影が映った。

 佐伯だった。

 福祉課から市民課の共有プリンターへ来たらしい。印刷された書類を取る手を止め、香澄の机の上を一瞬見た。

 見られた。

 そう思った。

 でも、佐伯は何も言わなかった。

 香澄に声をかけることも、斎藤に何か言うこともなく、書類を手にしてそのまま戻っていった。

 少しだけ、胸がざらついた。

 気づいたなら、何か言ってくれてもよかったのに。

 そう思ってから、香澄は自分に驚いた。

 何を期待しているのだろう。

 佐伯は、香澄の上司でも同僚でもない。そもそも昨日だって、手続き上必要だったから来ただけだと言っていた。

 自分の仕事は、自分でどうにかするしかない。

 香澄はファイルを開いた。

 保存年限、文書番号、処理日、廃棄予定、担当者印。

 一つひとつ確認しながら、チェックを入れていく。

 午後三時。

 窓口対応の合間に、資料を見る。

 午後四時。

 係長から別の確認を頼まれる。

 午後五時。

 窓口は閉まるが、処理は終わらない。

 莉子が帰り支度をしながら申し訳なさそうに言った。

「藤野さん、まだ残るんですか?」

「うん。少しだけ」

「手伝いますか?」

 莉子の言葉に、香澄は反射的に首を振った。

「大丈夫。莉子ちゃんは帰って。今日、電話当番もしてくれたし」

「でも」

「本当に大丈夫」

 莉子は迷った顔をしたが、結局「すみません」と頭を下げて帰っていった。

 斎藤も「ごめん、先に上がるわ」と言って帰った。

 市民課の照明が、少し暗く感じる。

 フロアに残る職員は少なかった。遠くの福祉課には、まだ何人かの姿がある。

 香澄は机に向かい、ひとつずつチェックを入れていった。

 肩が凝っている。

 目の奥が重い。

 でも、終わらせなければならない。

 それが自分の仕事になったのだから。

「藤野さん」

 低い声に、香澄は顔を上げた。

 机の前に佐伯が立っていた。

 手にはファイルを持っていない。何かのついでではなく、香澄の席へ来たように見えた。

「はい」

「それ、藤野さんの担当ですか」

 香澄は一瞬、言葉に詰まった。

 机の上には、斎藤から渡された保存年限のファイルが開かれている。

「えっと……斎藤さんに頼まれて」

「担当ですか」

 同じ質問だった。

 香澄は目を伏せる。

「本来は、斎藤さんの担当です。でも、今日中に確認が必要で、斎藤さんも忙しそうだったので」

「藤野さんの担当ではないんですね」

 言い方が硬い。

 責められているような気がして、香澄は少しだけ口元に力を入れた。

「私がやったほうが早いので」

 いつもなら、笑って言えた。

 でも、今日はうまく笑えなかった。

 佐伯は表情を変えなかった。

 ただ、短く言った。

「早いことと、正しいことは違います」

 香澄の胸の奥で、何かが小さく跳ねた。

 正しい。

 また、その言葉。

 佐伯はいつも、正しい場所に線を引く。

 でも、現場はそんなに単純ではない。

 正しいことだけで回るなら、香澄はこんなに残業していない。

「わかっています」

 香澄は言った。

 自分でも驚くほど、声が硬かった。

 佐伯がわずかに目を細める。

「でも、そうしないと回らないんです」

 言ってしまった。

 笑顔もつけずに。

 語尾をやわらげることもできなかった。

 香澄はすぐに後悔した。

 佐伯に当たるようなことではない。彼はただ、事実を言っただけだ。

 けれど、口から出た言葉は戻せない。

「市民課は人数が足りません。窓口もあります。急ぎの処理もあります。誰かがやらないと、結局、市民の方に迷惑がかかります。斎藤さんも莉子ちゃんも、それぞれ抱えている仕事があります。私ができるなら、やったほうが早いんです」

 言いながら、香澄は自分の声が少し震えていることに気づいた。

 怒っているのだろうか。

 それとも、泣きそうなのだろうか。

 自分でもわからなかった。

「そうしないと、回らないんです」

 もう一度言った。

 佐伯は黙って聞いていた。

 途中で遮らなかった。

 反論もしなかった。

 ただ、香澄の言葉が終わるまで待っていた。

 その沈黙が、かえって香澄を落ち着かなくさせる。

「すみません」

 香澄は目を伏せた。

「関係ないことを言いました」

「関係なくはありません」

 佐伯が言った。

 香澄は顔を上げる。

 佐伯の表情は、やはりほとんど変わっていない。

 でも、その声は昨日より少しだけ低く聞こえた。

「なら、回らない仕組みのほうが悪いです」

 香澄は言葉を失った。

「藤野さんが抱えれば一時的には回るかもしれません。でも、それは仕組みが改善されたことにはなりません。問題が見えなくなるだけです」

「……でも」

「はい」

「見えたところで、すぐに変わるわけじゃありません」

「そうですね」

 あまりにもあっさり同意されて、香澄はまた黙った。

「すぐには変わりません。でも、見えないものは、永遠に変わりません」

 佐伯は机の上のファイルに視線を落とした。

「斎藤さんの担当で、今日中に必要なら、斎藤さんが残るべきです。藤野さんが手伝うとしても、引き受け方を決める必要があります。全部受けるのは、手伝いではなく肩代わりです」

 肩代わり。

 その言葉が、香澄の中に重く落ちた。

 いつもしてきたことだった。

 誰かの困った顔を見て、自分が持てるなら持つ。相手が楽になるなら、それでいいと思う。

 そうすれば、場は丸く収まる。

 誰も怒らない。

 誰も困らない。

 ただ、香澄の机の上だけが少しずつ狭くなる。

「佐伯さんは、簡単に言いますね」

 気づけば、そんな言葉が出ていた。

 棘のある声だった。

 佐伯は少しだけ瞬きをした。

「そう聞こえたなら、すみません」

 謝られて、香澄の胸が詰まった。

 責め返してくれたほうが楽だった。

 無愛想で、冷たくて、話しかけづらい人なら、そのほうがよかった。

 でも佐伯は、香澄の苛立ちを受け流さなかった。怒りもしなかった。ただ、そこに置いた。

「……すみません。私のほうこそ」

 香澄は小さく頭を下げた。

「佐伯さんは正しいことを言っているだけなのに」

「正しいかどうかは、わかりません」

「え?」

「少なくとも、藤野さんが困っていることはわかります」

 香澄は息を止めた。

 困っている。

 その言葉を、自分に向けて使ったのはいつぶりだろう。

 疲れている、ならある。

 忙しい、もある。

 大丈夫、は何度もある。

 でも、困っている。

 そう認めるのは、なぜかとても怖い。

「……困っているわけでは」

「そうですか」

 佐伯はそれ以上追及しなかった。

 追い詰めない。

 でも、見逃したわけでもない。

「必要なら、係長に業務分担の確認を依頼したほうがいいと思います」

「係長に?」

「はい。担当外業務の棚卸しです。言いにくいなら、事実だけ伝えればいいです。誰が悪いかではなく、誰の担当か」

 誰が悪いかではなく、誰の担当か。

 香澄はその言葉を心の中で繰り返した。

 悪者を作る必要はない。

 怒る必要もない。

 ただ、線を引けばいい。

 佐伯が昨日、窓口でそうしたように。

「……考えてみます」

 香澄がそう言うと、佐伯は小さく頷いた。

「お疲れさまです」

 それだけ言って、佐伯は去っていった。

 香澄はしばらく、その背中を見ていた。

 やっぱり無愛想だ。

 優しい言葉は言わない。

 頑張っていますね、とも、無理しないでください、とも言わない。

 でも。

 机の上のファイルを見る。

 これは、本当に私の仕事なのだろうか。

 その問いが、初めてはっきり形になった。

 香澄は椅子に座り直し、ファイルを閉じた。

 全部を今日中に終わらせる必要があるのか。

 斎藤に確認すべきではないのか。

 係長に、業務分担を相談してもいいのではないか。

 そう考えただけで、心臓が少し速くなった。

 怖い。

 嫌な顔をされたらどうしよう。

 面倒な人だと思われたらどうしよう。

 でも、佐伯の声が残っている。

 早いことと、正しいことは違います。

 なら、回らない仕組みのほうが悪いです。

 香澄はスマートフォンではなく、庁内チャットを開いた。

 斎藤宛てにメッセージを打つ。

『保存年限の資料確認ですが、本日中に全件は難しそうです。明日の午前まででよいか、係長に確認してもよろしいでしょうか』

 送信ボタンの前で、指が止まった。

 これだけのことなのに、手が震える。

 断っているわけではない。

 責めているわけでもない。

 ただ確認しているだけだ。

 香澄は息を吸い、送信した。

 数分後、斎藤から返事が来た。

『ごめん、急ぎは一部だけだった。残りは明日で大丈夫。係長にも俺から言っとく』

 香澄は画面を見つめた。

 あまりにもあっさりしていた。

 世界は壊れなかった。

 斎藤が怒ることもなかった。

 香澄が全部を抱えなくても、仕事は止まらなかった。

 椅子にもたれ、ゆっくり息を吐く。

 肩から、ほんの少し力が抜けた。

 その後、急ぎの分だけを確認して、香澄は退勤した。

 庁舎の外に出ると、夜風が冷たかった。春先とはいえ、日が落ちるとまだ肌寒い。

 駅へ向かう道を歩きながら、香澄は手帳の間に挟んだメモを思い出した。

 昨日の件、藤野さんの対応記録は残してあります。

 必要であれば共有します。

 あの人は、優しいのだろうか。

 冷たいのだろうか。

 よくわからない。

 ただ、香澄が見ないふりをしていたことを、佐伯は見ている。

 クレームの中にあった侮辱。

 昼を抜こうとする自分。

 担当外の仕事を抱え込む癖。

 そして、回らない仕組みを、自分の我慢で隠そうとしていること。

 見られている。

 そう思うと、少し怖い。

 でも、見つけてもらったような気もした。

 駅前の信号で立ち止まる。

 赤信号の向こう側に、スーツ姿の人たちが並んでいた。皆、それぞれの疲れを抱えているように見える。

 香澄は鞄の中で、手帳に触れた。

 紙越しに、あのメモの感触を確かめる。

 無愛想。

 冷たい。

 話しかけづらい。

 佐伯の評判は、たぶん間違っていない。

 でも、それだけでは足りない。

 信号が青に変わる。

 人の流れが動き出す。

 香澄も一歩を踏み出した。

 この人は冷たいのではなく、私が見ないふりをしていることを見ているのかもしれない。

 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
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