となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う

第12話 もう、全部を笑顔で受理しない

 市役所の朝は、相変わらず音が多い。

 番号札を発行する機械の電子音。プリンターが紙を吐き出す音。職員の靴音。電話の呼び出し音。申請書をめくる紙の音。

 そのどれもが、今日も市民課の一日が始まることを知らせていた。

 藤野香澄は、窓口カウンターの内側で、住民票の申請書を補充していた。

 用紙の角をそろえ、ペン立ての中のボールペンを確認し、カウンターの端に置かれた老眼鏡を拭く。

 何度も繰り返してきた朝の作業。

 けれど、少し前とは違うことがある。

 香澄はもう、この朝を白紙のように怖がってはいなかった。

「藤野さん、ちょっといいですか?」

 莉子がファイルを抱えてやって来た。

「この転入届の確認、午前中に見てもらえますか? 少し不安で」

 以前の香澄なら、すぐに笑っていた。

 うん、大丈夫。

 机に置いておいて。

 そう言って、自分の予定も見ずに引き受けていた。

 けれど今は違う。

 香澄は自分の予定表を確認した。午前中は窓口対応のほかに、係長へ提出する集計が一件ある。けれど、十時半からなら少し時間が取れそうだった。

「十時半からなら一緒に見られるよ」

 香澄は言った。

「それより前は、集計を先に終わらせたいの」

 莉子はぱっと顔を明るくした。

「はい、十時半でお願いします」

「うん。急ぎで不安なところがあれば、そこだけ先に見せて」

「ありがとうございます」

 莉子は安心したように頷いた。

 それだけのことだった。

 でも、香澄にはわかっている。

 全部を抱えなくても、冷たい人になるわけではない。

 手伝うことと、肩代わりすることは違う。

 その違いを、今の香澄は少しずつ選べるようになっていた。

「藤野さん、悪いんだけど」

 今度は斎藤が資料を持ってきた。

「この保存年限の確認、今日中に少し見てもらえたりする?」

 香澄は資料を受け取り、内容をざっと確認した。

 量が多い。

 今日中に全部は無理だ。

 以前なら、無理だと思いながらも引き受けた。夜になっても残れば、自分が頑張ればいいと思っていた。

 でも、香澄は資料を閉じて、斎藤を見た。

「今日中に全部はできません」

 声は穏やかだった。

 責めるでも、突き放すでもなく。

「急ぎの分だけなら、午後に三件まで確認できます。残りは明日の午前でもいいですか?」

 斎藤は少し驚いたあと、すぐに頷いた。

「あ、三件で大丈夫。ごめん、全部じゃなくてよかったんだ。先に言えばよかったな」

「じゃあ、急ぎの分だけ付箋を貼っておいてください」

「了解。助かる」

 香澄は微笑んだ。

 助けられる。

 でも、自分を消さなくてもいい。

 その感覚が、少しずつ体になじんできていた。

 開庁のチャイムが鳴る。

 自動ドアが開き、来庁者が入ってくる。

 香澄はマイクを取った。

「番号札一番の方、三番窓口へどうぞ」

 声は、いつも通りやわらかい。

 けれど、以前とは少し違っていた。

 ただ受け入れるための声ではない。

 必要なことを、必要な形で届けるための声だった。

 午前中の窓口が一段落したころ、福祉課から佐伯律がやって来た。

 相変わらず背筋がまっすぐで、表情は読みにくい。手には薄いファイルを持っている。

 市民課のカウンターの端で、係長に資料を渡す。

「福祉課側の確認分です」

「ありがとうございます。藤野さん、これ、午後の打ち合わせで使う資料ね」

「はい」

 香澄が受け取ろうとすると、佐伯の視線が一瞬だけこちらに向いた。

「お疲れさまです」

 いつもの声。

 低くて、短くて、無愛想と言えば無愛想。

 でも、香澄はもう、その奥にある温度を知っている。

「お疲れさまです」

 香澄は笑った。

 それだけのやり取りだった。

 周囲から見れば、ただの業務上の挨拶だろう。

 二人の関係を、派手に公表しているわけではない。

 けれど、隠れているわけでもない。

 共有プリンターの前ですれ違えば、軽く会釈をする。

 資料が必要なら、必要な分だけ渡す。

 帰り道が同じなら、一緒に歩く日もある。

 休日には図書館へ行き、公園でカフェラテとチョコレートスコーンを分ける。

 その全部が、少しずつ日常になっていく。

 佐伯は、香澄の机の端にファイルを置いた。

「午後の打ち合わせで、確認が必要な箇所に付箋を貼ってあります」

「ありがとうございます」

「不要なら外してください」

「必要です。たぶん」

「たぶん」

 佐伯が小さく繰り返す。

 香澄は笑った。

「確認してから決めます」

「それがいいと思います」

 そのやり取りも、二人にはもう自然だった。

 佐伯が福祉課へ戻っていく。

 香澄はその背中を見送った。

 隣にいる。

 いつも隣の席にいるわけではない。

 いつも言葉をかけてくれるわけでもない。

 それでも、佐伯は確かに香澄の隣にいた。

 前に立って守るのではなく、代わりに決めるのでもなく。

 香澄が自分の声を出せる場所で、静かに待ってくれている。

 昼前になり、香澄は午前中の処理を終えて席に戻った。

 机の上に、小さなメモが置かれていた。

 黄色い付箋ではなく、白いメモ用紙だった。

 角ばった、見慣れた文字。

『昼、行きますか』

 たったそれだけ。

 名前はない。

 でも、誰からかはすぐにわかる。

 香澄はそのメモを見て、少し笑った。

 昔の自分なら、きっとその下に返事を書いただろう。

 はい。

 大丈夫です。

 お願いします。

 そんな短い言葉を、紙に乗せて返していたかもしれない。

 けれど今日は違った。

 香澄はメモを手に取り、立ち上がった。

 福祉課のほうを見る。

 佐伯は自席で資料を確認していた。

 香澄は、少しだけ息を吸う。

 そして、声に出した。

「佐伯さん」

 佐伯が顔を上げる。

 フロアのざわめきの中で、二人の視線が合った。

 香澄はメモを軽く掲げて、笑った。

「はい。今日は、私が誘おうと思っていました」

 佐伯は一瞬だけ目を見開いた。

 そして、ほんのわずかに表情を緩めた。

「そうですか」

「はい」

「では、行きましょう」

 相変わらず、短い返事。

 けれど香澄には、それで十分だった。

 莉子が近くで小さく笑っている気配がした。

 斎藤も何か言いたそうにしていたが、香澄はもう慌てて否定しなかった。

 隠す必要も、全部を説明する必要もない。

 香澄はメモを手帳に挟んだ。

 そこには、以前の佐伯の付箋もまだ残っている。

『昨日の件、藤野さんの対応記録は残してあります』

『今のは、あなたが悪い件ではありません』

 そして今日のメモ。

『昼、行きますか』

 香澄は手帳を閉じた。

 言えなかった気持ち。

 飲み込んできた本音。

 受理されないまま胸の奥に置き去りにしてきた言葉たち。

 それらは、すぐに消えるわけではない。

 きっとこれからも、言えなくなる日はある。

 大丈夫です、と反射で笑ってしまう日もある。

 でも、もう全部を笑顔で受理しなくていい。

 嫌なことは嫌だと言っていい。

 嬉しいことは嬉しいと言っていい。

 好きな人を、自分の声で誘っていい。

 香澄は佐伯の隣に並び、市民課のカウンターを出た。

 昼休みの光が、廊下の先に差し込んでいる。

 受理できなかった気持ちは、今、私の声でちゃんと届いた。
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