となりの佐伯さんは、私の沈黙だけを拾う
第11話 となりの佐伯さん
佐伯は、すぐには答えなかった。
廊下の端に、夕方の光が差し込んでいた。窓ガラス越しの空は淡い橙色で、庁舎の床に細長い影を落としている。フロアの奥では、誰かがコピー機を使う音がしていた。職場はまだ完全には眠っていない。
けれど、香澄の前だけ、時間が止まったようだった。
佐伯さんの隣にいたいです。
自分で言った言葉が、胸の奥で何度も響く。
怖かった。
でも、言えた。
言ったあとで、香澄は逃げなかった。
佐伯の答えを、ちゃんと待った。
佐伯は静かに香澄を見ていた。黒縁の眼鏡の奥の目は、いつものように落ち着いている。けれど、その奥に揺れているものを、今の香澄は少しだけわかる気がした。
「藤野さん」
「はい」
名前を呼ばれただけで、胸が熱くなる。
佐伯は一度、言葉を選ぶように視線を落とした。
「あなたが黙っていても、気づきたいと思っています」
香澄は息を止めた。
昨日も聞いた言葉に近い。
でも、今はもっと深いところへ届いた。
「でも、いつかは俺に言ってほしい」
俺。
またその一人称が出て、香澄の胸が小さく震えた。
佐伯は続けた。
「嫌なことも、困ったことも、嬉しいことも。気づく努力はします。でも、あなたの言葉で聞けるなら、そのほうがいい」
それは、甘い告白の台詞ではなかった。
君を一生守るとか、何があっても助けるとか、そういう言葉ではない。
けれど香澄には、それ以上にやさしく聞こえた。
黙っていても気づきたい。
でも、言ってほしい。
それは香澄を弱いままにしない言葉だった。
沈黙を責めず、でも沈黙だけで終わらせない言葉。
佐伯らしいと思った。
どうしようもなく、佐伯らしい告白だった。
「佐伯さん」
「はい」
「私、まだうまく言えないことのほうが多いと思います」
「はい」
「また、大丈夫ですって言うかもしれません」
「言うと思います」
即答されて、香澄は少し笑ってしまった。
「そこは、少し否定してくれてもいいのに」
「事実なので」
「そうですね」
笑ったら、胸のこわばりが少しほどけた。
香澄はまっすぐ佐伯を見た。
「でも、言いたいです。佐伯さんには、ちゃんと言えるようになりたい」
佐伯は黙って聞いている。
いつものように、急かさずに。
香澄は両手を前で重ねた。
指先はまだ少し震えている。
でも、もう隠さなかった。
「好きです」
言った。
言えた。
その瞬間、足元が少し浮くような感覚がした。
怖い。
でも、それ以上に、今は自分の言葉が自分のものになった気がした。
「今度は、ちゃんと自分の声で言いたかったんです」
佐伯の目が揺れた。
それは本当にわずかな変化だった。ほかの人なら気づかないかもしれない。
でも香澄にはわかった。
佐伯は今、受け取ってくれたのだと。
佐伯は一歩だけ近づいた。
近すぎない。
でも、以前よりも確かに近い距離。
「香澄さん」
初めて名前を呼ばれた。
藤野さんではなく。
香澄さん。
その響きだけで、胸の奥がいっぱいになった。
「俺も、好きです」
佐伯の声は静かだった。
大きな感情を乗せて叫ぶような告白ではない。
けれど、その静けさの中に、確かに熱があった。
香澄は目元が熱くなるのを感じた。
今度こそ泣くかもしれないと思った。
けれど涙は落ちなかった。
代わりに、笑った。
「佐伯さんらしいです」
「何がですか」
「告白まで、きちんとしています」
「不十分でしたか」
「いいえ」
香澄は首を振った。
「十分すぎるくらいです」
佐伯は、ほんの少しだけ目元を緩めた。
それだけで、香澄の中の未処理だった気持ちに、静かに受理印が押されたような気がした。
その週の日曜日、二人は初めて仕事以外で会った。
待ち合わせ場所は、市立図書館の前だった。
デート、という言葉を使うには、少し地味かもしれない。
けれど、香澄はその地味さに安心していた。
遊園地でも、高級レストランでも、夜景の見える場所でもない。いつも通る街の中にある図書館。その隣には小さな公園があり、向かいには喫茶店がある。
明日も続く日常の中に、佐伯がいる。
それが今の香澄には、何より贅沢だった。
約束の時間より十分早く着くと、佐伯はすでに図書館の入口近くに立っていた。
白いシャツに紺色のジャケット。仕事の日より少しだけ柔らかい格好なのに、姿勢は相変わらずまっすぐだった。
「お待たせしました」
香澄が声をかけると、佐伯が顔を上げた。
「待っていません」
「もう来ていたのに?」
「早く着いただけです」
「それを待っていたと言うんだと思います」
香澄が言うと、佐伯は少し考えるようにしてから、
「では、少し待っていました」
と真面目に訂正した。
香澄は笑った。
休日の図書館は、親子連れや学生でほどよく混んでいた。
二人は並んで館内を歩いた。
佐伯は本棚を見るときも静かだった。必要な本の場所を確認し、背表紙を一つひとつ見ていく。香澄は小説の棚の前で足を止めた。
「佐伯さんは、普段どんな本を読むんですか」
「仕事に関係するものが多いです」
「やっぱり」
「やっぱり、ですか」
「はい。制度とか、相談支援とか」
「それも読みます」
「それ以外は?」
佐伯は少しだけ視線を横に動かした。
「猫の写真集を借りたことがあります」
香澄は思わず振り向いた。
「猫の写真集」
「はい」
「それは、業務上?」
「私的です」
香澄は口元を押さえた。
「笑わないでください」
「まだ笑っていません」
「笑いそうです」
「少しだけ」
香澄がそう言うと、佐伯は本棚へ視線を戻した。
耳が少し赤い気がした。
そのことに気づいて、香澄の胸がふわりと温かくなる。
図書館を出たあと、隣の公園を歩いた。
葉桜の木々がやわらかい影を作っている。風が吹くと、葉が小さく揺れた。
ベンチに座り、近くの喫茶店で買ったテイクアウトのコーヒーを飲む。
香澄はカフェラテ。
佐伯はブラックコーヒー。
そして紙袋の中には、小さなチョコレートスコーンが二つ入っている。
「糖分ですか」
香澄が聞くと、佐伯は少しだけ真面目な顔で答えた。
「休日なので、理由は不要です」
「進歩ですね」
「何の進歩ですか」
「甘いものを食べることに、理由をつけなくなった進歩です」
佐伯は紙袋からスコーンを一つ取り出し、香澄に渡した。
「では、理由なく食べてください」
「はい」
香澄はスコーンを受け取った。
晴れた午後の公園。
隣に佐伯がいて、甘いものを食べる。
ただそれだけ。
でも、その何でもなさが、香澄には少し泣きたいほど嬉しかった。
佐伯は相変わらず口数が少ない。
会話が途切れる時間も多い。
でも、香澄はもう不安にならなかった。
沈黙が嫌われた証拠ではないことを、知ったから。
佐伯の沈黙は、拒絶ではない。
考えている時間。
待っている時間。
言葉を雑に扱わないための間。
それがわかると、沈黙は怖くなかった。
「佐伯さん」
「はい」
「私、黙っていても、前ほど怖くないです」
佐伯がこちらを見る。
「そうですか」
「はい。佐伯さんが黙っていても、怒ってるのかなとか、つまらないのかなとか、少しは思いますけど」
「少しは思うんですね」
「思います」
香澄は笑った。
「でも、前よりずっと少ないです」
「それはよかったです」
佐伯はコーヒーを一口飲んだ。
その横顔を見ながら、香澄は思う。
この人となら、ゆっくり話していけるかもしれない。
言えない日があっても、全部が終わるわけではない。
言える日まで、待ってもらうだけではなく、自分も言葉を探せるかもしれない。
翌週の市民課は、いつものように忙しかった。
恋人になったからといって、職場の空気が劇的に変わるわけではない。
佐伯は福祉課の佐伯で、香澄は市民課の藤野だった。
公私混同はしない。
それは二人の間で言葉にしなくても、自然に決まっていた。
ただ、少しだけ違うことがある。
共有プリンターの前ですれ違うとき、佐伯がほんのわずかに目元を緩める。
香澄も小さく会釈する。
それだけ。
でも、それだけで十分だった。
水曜日の午後、斎藤が市民課の席へ資料を持ってきた。
「藤野さん、ごめん。これ、今日中に確認してもらえたりする?」
以前なら、香澄はすぐに「大丈夫です」と答えていただろう。
けれど、今は一度、自分の予定表を見る。
窓口対応の残処理。
係長に提出する集計。
莉子と一緒に確認する予定の転入届。
そのうえで、斎藤の資料を見る。
「今日はできません」
言葉は思ったより自然に出た。
斎藤が「あ」と声を漏らす。
香澄は続ける。
「明日の午前中なら確認できます。今日中に必要なら、係長に優先順位を確認してください」
斎藤は少しだけ驚いた顔をしたあと、すぐに頷いた。
「そっか。じゃあ係長に確認する。ごめん、先に聞けばよかった」
「いえ。急ぎなら、必要な部分だけなら見ます」
「助かる。全部じゃなくて、ここだけでいい」
斎藤が該当箇所を示す。
香澄はそれだけ受け取った。
全部ではなく、必要な分だけ。
それができた。
胸の奥に、小さな達成感が灯る。
ふと視線を感じて、香澄は福祉課のほうを見た。
佐伯が近くの共有棚で資料を取っていた。
見ていたのだろう。
けれど、近づいてこない。
褒めない。
助けない。
ただ、香澄が自分で言えるのを信じて、そこにいる。
それが、今の香澄には何より心強かった。
後で共有プリンターの前で一緒になったとき、佐伯はいつものように短く言った。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
香澄は少しだけ笑う。
「今の、聞こえていましたか」
「聞こえました」
「どうでしたか」
「必要十分でした」
香澄は小さく吹き出した。
「佐伯さんらしい感想ですね」
「他に必要ですか」
「いいえ」
香澄は首を振る。
「十分です」
その日の夕方、水野が市民課へ来た。
以前のような軽さは、少し薄れていた。
手には総務課の資料を持っている。
「藤野さん」
呼び方が変わった。
藤野、ではなく、藤野さん。
香澄は顔を上げる。
「はい」
「窓口改善の確認欄の件、総務課側で修正案を作りました。係長にも共有済みです」
「ありがとうございます。確認します」
水野は資料を机に置いた。
そのまま戻るかと思ったが、少しだけ立ち止まった。
「この前のことだけど」
香澄は手を止めた。
水野は周囲に聞こえない程度の声で言う。
「話してくれて、ありがとう」
香澄は黙って水野を見た。
「正直、全部すぐにわかったとは言えない。でも、俺はたぶん、自分が困ったことばかり見てた。藤野さんがどうして黙ったのか、考えようとしてなかった」
水野は視線を落とした。
「言ってくれればよかったのに、って言うのは簡単だった。でも、それを言わせない空気を俺が作ってたなら、俺の問題でもあったんだと思う」
香澄は、胸の奥が静かに動くのを感じた。
水野が完全に理解したかどうかはわからない。
それでも、彼は初めて香澄の沈黙を、香澄だけの責任にしなかった。
「そう言ってもらえると、少し楽になります」
香澄は正直に言った。
水野は苦笑した。
「戻れないんだよね」
「はい」
香澄は迷わず答えた。
水野は小さく頷いた。
「わかった」
その顔には、少しだけ寂しさがあった。
でも、以前のように香澄を自分の都合のいい形に戻そうとする圧はなかった。
「仕事では、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
香澄は頭を下げた。
水野も軽く頭を下げ、総務課へ戻っていく。
その背中を見送りながら、香澄は長く息を吐いた。
過去が完全に消えたわけではない。
三年前の痛みが、なかったことになったわけでもない。
でも、もう水野の言葉に閉じ込められたままではない。
香澄は自分の言葉で、あの関係を終わらせた。
閉庁後、佐伯と庁舎を出た。
最近は、帰り道が重なると、どちらともなく駅まで歩くようになっていた。
まだ職場には言っていない。
でも、隠れるように歩くことはやめた。
ただ、同じ方向だから一緒に帰る。
その中に、二人だけが知っている少し特別な温度がある。
駅前のコンビニの前を通りかかったとき、香澄は足を止めた。
「カフェラテ、買っていきます」
「疲れていますか」
「少し。でも、大丈夫じゃないから買うというより、飲みたいから買います」
佐伯は頷いた。
「それは良い理由です」
「佐伯さんはチョコレートですか」
「今日は不要です」
「本当に?」
香澄が聞くと、佐伯は少しだけ視線を逸らした。
「……一つだけ買います」
香澄は笑った。
コンビニでカフェラテとチョコレートを買い、外へ出る。
夜風が心地よかった。
駅までの道を歩きながら、香澄はふと佐伯を見た。
「今日、水野さんと話しました」
「はい」
「ちゃんと、過去を終われた気がします」
「そうですか」
「はい」
香澄はカフェラテのボトルを両手で持った。
「私、もう、全部を笑顔で受理するのはやめます」
佐伯が香澄を見る。
香澄は続けた。
「嫌なことは嫌だって言いたいです。できないことはできないって言いたい。嬉しいことも、ちゃんと嬉しいって言えるようになりたい」
「はい」
「佐伯さんのことが好きだってことも」
言ってから、少し顔が熱くなった。
でも、もう取り消さない。
「ちゃんと、言い続けたいです」
佐伯は立ち止まった。
駅前の灯りが、眼鏡の奥の目に小さく映っている。
「私もです」
静かな声だった。
「言葉は多くありませんが」
「知っています」
香澄が笑うと、佐伯もほんの少しだけ目元を緩めた。
「でも、言います」
「はい」
「香澄さんが隣にいてくれることが、嬉しいです」
胸の奥が、温かく満ちていく。
香澄はカフェラテを握る手に、今度は力を入れすぎなかった。
大丈夫ではない日もある。
言えない日もある。
でも、もう全部を笑顔で受理しなくていい。
隣にいる人へ、少しずつ言葉を渡していけばいい。
佐伯の隣で、香澄は夜の駅へ向かって歩き出した。
廊下の端に、夕方の光が差し込んでいた。窓ガラス越しの空は淡い橙色で、庁舎の床に細長い影を落としている。フロアの奥では、誰かがコピー機を使う音がしていた。職場はまだ完全には眠っていない。
けれど、香澄の前だけ、時間が止まったようだった。
佐伯さんの隣にいたいです。
自分で言った言葉が、胸の奥で何度も響く。
怖かった。
でも、言えた。
言ったあとで、香澄は逃げなかった。
佐伯の答えを、ちゃんと待った。
佐伯は静かに香澄を見ていた。黒縁の眼鏡の奥の目は、いつものように落ち着いている。けれど、その奥に揺れているものを、今の香澄は少しだけわかる気がした。
「藤野さん」
「はい」
名前を呼ばれただけで、胸が熱くなる。
佐伯は一度、言葉を選ぶように視線を落とした。
「あなたが黙っていても、気づきたいと思っています」
香澄は息を止めた。
昨日も聞いた言葉に近い。
でも、今はもっと深いところへ届いた。
「でも、いつかは俺に言ってほしい」
俺。
またその一人称が出て、香澄の胸が小さく震えた。
佐伯は続けた。
「嫌なことも、困ったことも、嬉しいことも。気づく努力はします。でも、あなたの言葉で聞けるなら、そのほうがいい」
それは、甘い告白の台詞ではなかった。
君を一生守るとか、何があっても助けるとか、そういう言葉ではない。
けれど香澄には、それ以上にやさしく聞こえた。
黙っていても気づきたい。
でも、言ってほしい。
それは香澄を弱いままにしない言葉だった。
沈黙を責めず、でも沈黙だけで終わらせない言葉。
佐伯らしいと思った。
どうしようもなく、佐伯らしい告白だった。
「佐伯さん」
「はい」
「私、まだうまく言えないことのほうが多いと思います」
「はい」
「また、大丈夫ですって言うかもしれません」
「言うと思います」
即答されて、香澄は少し笑ってしまった。
「そこは、少し否定してくれてもいいのに」
「事実なので」
「そうですね」
笑ったら、胸のこわばりが少しほどけた。
香澄はまっすぐ佐伯を見た。
「でも、言いたいです。佐伯さんには、ちゃんと言えるようになりたい」
佐伯は黙って聞いている。
いつものように、急かさずに。
香澄は両手を前で重ねた。
指先はまだ少し震えている。
でも、もう隠さなかった。
「好きです」
言った。
言えた。
その瞬間、足元が少し浮くような感覚がした。
怖い。
でも、それ以上に、今は自分の言葉が自分のものになった気がした。
「今度は、ちゃんと自分の声で言いたかったんです」
佐伯の目が揺れた。
それは本当にわずかな変化だった。ほかの人なら気づかないかもしれない。
でも香澄にはわかった。
佐伯は今、受け取ってくれたのだと。
佐伯は一歩だけ近づいた。
近すぎない。
でも、以前よりも確かに近い距離。
「香澄さん」
初めて名前を呼ばれた。
藤野さんではなく。
香澄さん。
その響きだけで、胸の奥がいっぱいになった。
「俺も、好きです」
佐伯の声は静かだった。
大きな感情を乗せて叫ぶような告白ではない。
けれど、その静けさの中に、確かに熱があった。
香澄は目元が熱くなるのを感じた。
今度こそ泣くかもしれないと思った。
けれど涙は落ちなかった。
代わりに、笑った。
「佐伯さんらしいです」
「何がですか」
「告白まで、きちんとしています」
「不十分でしたか」
「いいえ」
香澄は首を振った。
「十分すぎるくらいです」
佐伯は、ほんの少しだけ目元を緩めた。
それだけで、香澄の中の未処理だった気持ちに、静かに受理印が押されたような気がした。
その週の日曜日、二人は初めて仕事以外で会った。
待ち合わせ場所は、市立図書館の前だった。
デート、という言葉を使うには、少し地味かもしれない。
けれど、香澄はその地味さに安心していた。
遊園地でも、高級レストランでも、夜景の見える場所でもない。いつも通る街の中にある図書館。その隣には小さな公園があり、向かいには喫茶店がある。
明日も続く日常の中に、佐伯がいる。
それが今の香澄には、何より贅沢だった。
約束の時間より十分早く着くと、佐伯はすでに図書館の入口近くに立っていた。
白いシャツに紺色のジャケット。仕事の日より少しだけ柔らかい格好なのに、姿勢は相変わらずまっすぐだった。
「お待たせしました」
香澄が声をかけると、佐伯が顔を上げた。
「待っていません」
「もう来ていたのに?」
「早く着いただけです」
「それを待っていたと言うんだと思います」
香澄が言うと、佐伯は少し考えるようにしてから、
「では、少し待っていました」
と真面目に訂正した。
香澄は笑った。
休日の図書館は、親子連れや学生でほどよく混んでいた。
二人は並んで館内を歩いた。
佐伯は本棚を見るときも静かだった。必要な本の場所を確認し、背表紙を一つひとつ見ていく。香澄は小説の棚の前で足を止めた。
「佐伯さんは、普段どんな本を読むんですか」
「仕事に関係するものが多いです」
「やっぱり」
「やっぱり、ですか」
「はい。制度とか、相談支援とか」
「それも読みます」
「それ以外は?」
佐伯は少しだけ視線を横に動かした。
「猫の写真集を借りたことがあります」
香澄は思わず振り向いた。
「猫の写真集」
「はい」
「それは、業務上?」
「私的です」
香澄は口元を押さえた。
「笑わないでください」
「まだ笑っていません」
「笑いそうです」
「少しだけ」
香澄がそう言うと、佐伯は本棚へ視線を戻した。
耳が少し赤い気がした。
そのことに気づいて、香澄の胸がふわりと温かくなる。
図書館を出たあと、隣の公園を歩いた。
葉桜の木々がやわらかい影を作っている。風が吹くと、葉が小さく揺れた。
ベンチに座り、近くの喫茶店で買ったテイクアウトのコーヒーを飲む。
香澄はカフェラテ。
佐伯はブラックコーヒー。
そして紙袋の中には、小さなチョコレートスコーンが二つ入っている。
「糖分ですか」
香澄が聞くと、佐伯は少しだけ真面目な顔で答えた。
「休日なので、理由は不要です」
「進歩ですね」
「何の進歩ですか」
「甘いものを食べることに、理由をつけなくなった進歩です」
佐伯は紙袋からスコーンを一つ取り出し、香澄に渡した。
「では、理由なく食べてください」
「はい」
香澄はスコーンを受け取った。
晴れた午後の公園。
隣に佐伯がいて、甘いものを食べる。
ただそれだけ。
でも、その何でもなさが、香澄には少し泣きたいほど嬉しかった。
佐伯は相変わらず口数が少ない。
会話が途切れる時間も多い。
でも、香澄はもう不安にならなかった。
沈黙が嫌われた証拠ではないことを、知ったから。
佐伯の沈黙は、拒絶ではない。
考えている時間。
待っている時間。
言葉を雑に扱わないための間。
それがわかると、沈黙は怖くなかった。
「佐伯さん」
「はい」
「私、黙っていても、前ほど怖くないです」
佐伯がこちらを見る。
「そうですか」
「はい。佐伯さんが黙っていても、怒ってるのかなとか、つまらないのかなとか、少しは思いますけど」
「少しは思うんですね」
「思います」
香澄は笑った。
「でも、前よりずっと少ないです」
「それはよかったです」
佐伯はコーヒーを一口飲んだ。
その横顔を見ながら、香澄は思う。
この人となら、ゆっくり話していけるかもしれない。
言えない日があっても、全部が終わるわけではない。
言える日まで、待ってもらうだけではなく、自分も言葉を探せるかもしれない。
翌週の市民課は、いつものように忙しかった。
恋人になったからといって、職場の空気が劇的に変わるわけではない。
佐伯は福祉課の佐伯で、香澄は市民課の藤野だった。
公私混同はしない。
それは二人の間で言葉にしなくても、自然に決まっていた。
ただ、少しだけ違うことがある。
共有プリンターの前ですれ違うとき、佐伯がほんのわずかに目元を緩める。
香澄も小さく会釈する。
それだけ。
でも、それだけで十分だった。
水曜日の午後、斎藤が市民課の席へ資料を持ってきた。
「藤野さん、ごめん。これ、今日中に確認してもらえたりする?」
以前なら、香澄はすぐに「大丈夫です」と答えていただろう。
けれど、今は一度、自分の予定表を見る。
窓口対応の残処理。
係長に提出する集計。
莉子と一緒に確認する予定の転入届。
そのうえで、斎藤の資料を見る。
「今日はできません」
言葉は思ったより自然に出た。
斎藤が「あ」と声を漏らす。
香澄は続ける。
「明日の午前中なら確認できます。今日中に必要なら、係長に優先順位を確認してください」
斎藤は少しだけ驚いた顔をしたあと、すぐに頷いた。
「そっか。じゃあ係長に確認する。ごめん、先に聞けばよかった」
「いえ。急ぎなら、必要な部分だけなら見ます」
「助かる。全部じゃなくて、ここだけでいい」
斎藤が該当箇所を示す。
香澄はそれだけ受け取った。
全部ではなく、必要な分だけ。
それができた。
胸の奥に、小さな達成感が灯る。
ふと視線を感じて、香澄は福祉課のほうを見た。
佐伯が近くの共有棚で資料を取っていた。
見ていたのだろう。
けれど、近づいてこない。
褒めない。
助けない。
ただ、香澄が自分で言えるのを信じて、そこにいる。
それが、今の香澄には何より心強かった。
後で共有プリンターの前で一緒になったとき、佐伯はいつものように短く言った。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
香澄は少しだけ笑う。
「今の、聞こえていましたか」
「聞こえました」
「どうでしたか」
「必要十分でした」
香澄は小さく吹き出した。
「佐伯さんらしい感想ですね」
「他に必要ですか」
「いいえ」
香澄は首を振る。
「十分です」
その日の夕方、水野が市民課へ来た。
以前のような軽さは、少し薄れていた。
手には総務課の資料を持っている。
「藤野さん」
呼び方が変わった。
藤野、ではなく、藤野さん。
香澄は顔を上げる。
「はい」
「窓口改善の確認欄の件、総務課側で修正案を作りました。係長にも共有済みです」
「ありがとうございます。確認します」
水野は資料を机に置いた。
そのまま戻るかと思ったが、少しだけ立ち止まった。
「この前のことだけど」
香澄は手を止めた。
水野は周囲に聞こえない程度の声で言う。
「話してくれて、ありがとう」
香澄は黙って水野を見た。
「正直、全部すぐにわかったとは言えない。でも、俺はたぶん、自分が困ったことばかり見てた。藤野さんがどうして黙ったのか、考えようとしてなかった」
水野は視線を落とした。
「言ってくれればよかったのに、って言うのは簡単だった。でも、それを言わせない空気を俺が作ってたなら、俺の問題でもあったんだと思う」
香澄は、胸の奥が静かに動くのを感じた。
水野が完全に理解したかどうかはわからない。
それでも、彼は初めて香澄の沈黙を、香澄だけの責任にしなかった。
「そう言ってもらえると、少し楽になります」
香澄は正直に言った。
水野は苦笑した。
「戻れないんだよね」
「はい」
香澄は迷わず答えた。
水野は小さく頷いた。
「わかった」
その顔には、少しだけ寂しさがあった。
でも、以前のように香澄を自分の都合のいい形に戻そうとする圧はなかった。
「仕事では、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
香澄は頭を下げた。
水野も軽く頭を下げ、総務課へ戻っていく。
その背中を見送りながら、香澄は長く息を吐いた。
過去が完全に消えたわけではない。
三年前の痛みが、なかったことになったわけでもない。
でも、もう水野の言葉に閉じ込められたままではない。
香澄は自分の言葉で、あの関係を終わらせた。
閉庁後、佐伯と庁舎を出た。
最近は、帰り道が重なると、どちらともなく駅まで歩くようになっていた。
まだ職場には言っていない。
でも、隠れるように歩くことはやめた。
ただ、同じ方向だから一緒に帰る。
その中に、二人だけが知っている少し特別な温度がある。
駅前のコンビニの前を通りかかったとき、香澄は足を止めた。
「カフェラテ、買っていきます」
「疲れていますか」
「少し。でも、大丈夫じゃないから買うというより、飲みたいから買います」
佐伯は頷いた。
「それは良い理由です」
「佐伯さんはチョコレートですか」
「今日は不要です」
「本当に?」
香澄が聞くと、佐伯は少しだけ視線を逸らした。
「……一つだけ買います」
香澄は笑った。
コンビニでカフェラテとチョコレートを買い、外へ出る。
夜風が心地よかった。
駅までの道を歩きながら、香澄はふと佐伯を見た。
「今日、水野さんと話しました」
「はい」
「ちゃんと、過去を終われた気がします」
「そうですか」
「はい」
香澄はカフェラテのボトルを両手で持った。
「私、もう、全部を笑顔で受理するのはやめます」
佐伯が香澄を見る。
香澄は続けた。
「嫌なことは嫌だって言いたいです。できないことはできないって言いたい。嬉しいことも、ちゃんと嬉しいって言えるようになりたい」
「はい」
「佐伯さんのことが好きだってことも」
言ってから、少し顔が熱くなった。
でも、もう取り消さない。
「ちゃんと、言い続けたいです」
佐伯は立ち止まった。
駅前の灯りが、眼鏡の奥の目に小さく映っている。
「私もです」
静かな声だった。
「言葉は多くありませんが」
「知っています」
香澄が笑うと、佐伯もほんの少しだけ目元を緩めた。
「でも、言います」
「はい」
「香澄さんが隣にいてくれることが、嬉しいです」
胸の奥が、温かく満ちていく。
香澄はカフェラテを握る手に、今度は力を入れすぎなかった。
大丈夫ではない日もある。
言えない日もある。
でも、もう全部を笑顔で受理しなくていい。
隣にいる人へ、少しずつ言葉を渡していけばいい。
佐伯の隣で、香澄は夜の駅へ向かって歩き出した。