今夜は君の夜屑
「橘、着いた」
詩乃の最寄り駅までは三十分ほどで、その間、橘はずっと詩乃の肩に頭を乗せていた。
ふわりと香る香水と柔軟剤に混ざって、居酒屋独自の、食べ物の香りも混ざっている。
この肩の重みを拒否できなかった時点で、橘の勝ちが決まっていたのかもしれないと思うと、悔しい。
「んー…ありがと」
本当に眠っていたのか、目を擦りながら橘はゆっくりと椅子から立ち上がった。
車内に表示される電子案内板にチラリと目を向け、詩乃の後に続いた。
揺れる車内で、詩乃は地下を走る真っ暗な窓に視線を向けながら考えていた。
さっきみたいに、意図的に肩に頭を乗せるのも、乗せられて嫌ではないのも、きっとその先を既に知っているからだ。
無理やり友達という型に嵌めたところで、お互いの身体はもう、相手への遠慮を持っていない。
普通の友達だったり、付き合う前だったら理性のブレーキが強くかかるところを、パーソナルスペースを割っていけてしまうのは、肌の感触も、熱さも、近さも、知ってしまっているから。
「んー…?こっちか」
「いいよ、家までは、さすがに」
「でも、もう二十二時だし」
「仕事の時だって、もっと遅い時もあるし」
「じゃあそういう時は、教えて。また送るから」
橘は、詩乃の腕を取って歩き出した。
電車が走り出して、あっという間に速度がついて、ホームには何の気配もなくなった。
「ちょっ」
身体の向きとは逆に引っ張られてバランスを崩した詩乃を、分かっていたみたいに橘が支えた。
「ほら、酔ってるよ」
「ちがっ、それは今、橘が!」
完全に橘のペースになっていることが悔しい。
詩乃が言い返しながら橘の顔を見ると、にこりと笑っていた。
この男、さっきまで私の顔色を伺っていたくせに。
「行くよ」
そう言って橘が、詩乃の背中から手を離し、代わりに手を取った。
突然指先に触れた温もりに、詩乃は声を出せない。
「ほら」
引っ張られるようにして、詩乃は橘に着いていく。
橘の足の進みは早く、詩乃は少しだけ早足になる。
ホームの先にあるエスカレーターに近づくと、橘がひょいと詩乃の手を引いて、隣に並ばせた。
詩乃は橘の顔をチラリと伺うも、橘は機嫌が良さそうに口角を上げたまま、前を見ている。
「改札ここで合ってるよね?」
「…うん」
改札の前で、繋いでいた手はするりと離れた。
先に通った橘が、振り返って詩乃を待っていて、詩乃が遅れて改札を抜けると、再び手を繋がれる。
指先全体を握られてはいるが、恋人繋ぎのように指を絡めたりはしない。
「出口、どっち?」
「……橘」
「どっち?」
「……A2…」
「あっちか」
なに、考えてるの?
あんまり酔ってないんじゃないの?
酔ってるから、こんなことするんでしょ?
あの日も、こんな感じだったの?
「ほー、こんな感じなんだ」
俺ここ降りたことないなー、などと呑気に呟く橘の顔を見るも、いつもと変わらない。
電車で肩に頭を乗せて、手を繋いで送ってきているのに、まるで居酒屋でくだらない話をしている時みたいな顔で、詩乃に接する。
「道、どっち?」
「…こっち」
詩乃が歩き始めると、繋がれた手の力が少しだけ緩んだ気がした。
それでも橘は大人しく詩乃の隣を歩く。
「私、酔ってないよ」
「そっか」
頭は、しっかりしている。
ふわふわしているけれど、いつもお酒を飲んだ後のような。
飲みすぎたわけでもなく、理性もしっかりと働いているはず。
ねえ、今日は、できないよ?
私の家まで着いてきたって、家にはあげないよ?
なんで手を繋ぐの?なんで、送るっていうの?
橘と詩乃の手はずっと繋がっていた。
じわりと湿度を感じるのは、どちらの汗か。
歩く度に、その振動で指と指が擦れていく。
指は、絡まない。
どうせなら、恋人繋ぎしてくれれば、後戻りできなくなるのに。
そういうつもりなら、最後にウーロンハイを頼ませてくれたって、良かったじゃん。
そしたらもっと上手くいったかもしれないよ?
頭の芯は冷えているのに、アルコールを含んだ血液だけがトクトクと耳の奥で脈打っている。
酔っていると言い訳するには足りず、シラフを装うには熱すぎる。
こんな中途半端な酔いでは、手を握り返すことすらできない。
「夜は、まだちょっと寒いね」
「…そうだね」
駅のホームでは足早に進んで行った橘が、今は打って変わってゆっくり歩く。
大通りには車がチラホラ通っている。
車のライトが一瞬だけ二人を照らしては、すぐに過ぎ去っていく。
街路樹が、風が吹くたびに音を立てる。
大通りを外れると、寝ているような住宅街に、ぽっかりと街灯が道の一部分だけを照らしている。
橘の靴がアスファルトを叩く音と、詩乃のスニーカーが地面を擦る音が、呼吸を合わせるようにして夜に吸い込まれていく。
「もう着く?」
詩乃は返事の代わりに、指先に少しだけ力を込めた。
橘の視線を感じた。でも詩乃は前を向いたまま。
繋いだ掌の間で、逃げ場を失った熱がじっとりと湿度を帯びていく。
「……もうちょっと」
橘の指が、詩乃の指をさらりと撫でた。
擦れるようにして動く力で、一瞬だけ指の皮が動いて、戻っていった。