今夜は君の夜屑
 
 
 
改札も、階段も、ホームも、橘の前を黙々と歩いた。
今まで通り、普段通り、何も考えない。その言葉を意識するたびに、徐々に苛立ちの気持ちも湧いてくる。

「歩くの早くない?大丈夫?」
「大丈夫」
 
にしても、あんなにばっさり切るような言い方は失礼じゃない?
いつも同期とか、女の人には優しくしてるの知ってるんですけど。
モヤモヤとどんどん発展していく思考が、足の進みまでも早くさせていく。

「新田、酔ってるでしょ」
「酔ってない」
「ほんと?」

詩乃がホームのドアの前で止まると、橘が隣に並んで、詩乃の顔を覗き込んだ。詩乃は橘と目を合わせたくなくて、足元に目をやった。

白のフリルブラウスをインしている、キャメルのミニスカート。
タイトな形のそれからは自分の足がまっすぐ伸びていて、グレージュの靴下の先には黒のスニーカーが映る。

なんか足がむくんでない?お酒のせいかな。最近太った気がするし、もうちょっと痩せようかな。むくみもひどい気がするし、そんなんじゃ橘に——

…私、何を。

「なんか、怒ってる?」
「怒ってないよ」
「なんで急に冷たくなったの」
「冷たくないよ」

自分の返答が感じ悪いことくらい、分かっていた。
それでも機嫌を伺うように柔らかい声で話し続ける橘に視線を向けると、橘はヘラリと顔を緩ませるようにして笑った。

「家まで送ってくよ」
「橘、そういうこと言ってさ、」

勘違いされても知らないよ?


喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

こうやって優しくするから女の子はその気になるんだろうし、どうせ簡単だとでも思っているんだろう。

「なに」
「…何にも」
「なに、気になるじゃん」
「急に優しいねって思っただけ」

お酒飲みすぎたんじゃないの、と口から漏れた。それを気に留めていないように、橘は真顔で言った。

「別に俺、いつも新田に優しくない?」
「え?」
「酔った酔わないで態度を変えてるつもりはないけど」

確かにそれはそうだけど、と今までの橘の態度を思い返す。
なんとなく攻撃的になっていた気持ちが萎んでいくのを感じ、詩乃は橘を見て笑みをこぼした。

それを見て橘は、一歩、詩乃のそばに寄った。


「もっと酔ったらさ」
「え?」
「どうなるか知ってるでしょ」


橘の低い声が、耳元で鼓膜を直接撫でるような生々しさを持って落ちてきた。

耳たぶに残る彼の体温が、冷房の効いたホームでそこだけ焼けるように熱かった。

詩乃がそれに反応したところで、大きな音を立ててホームに電車が入ってきた。
もっと早く来てくれていれば、さっきの言葉を聞かなくて済んだかもしれないのに。


電車のライトがホームを白く飛ばした瞬間、橘の唇が影の中で意地悪く弧を描くのが見えた。

「なっ」
「新田も、そうでしょ」
「は、」

きっと詩乃の声は小さくて、車輪の音にかき消されている。
涼しい顔をして扉が開くのを待つ男に、詩乃は目を離せない。


なかったことにするんじゃ、なかったの。


扉が開くと、橘は一歩前を歩き、詩乃がついてきているか確認するかのように振り返った。
さっきまで後ろを歩いていたくせに。
この間のコンビニでは、一直線に弁当コーナーに進んで行ったくせに。


「どうぞ」
「…ありがと」

席はそこそこ空いていた。
一番端の席を詩乃に譲って、橘はその隣に腰掛けた。

「新田の駅に着いたら教えてね」
「え、だから、いいって」
「教えてね」
「酔ってないよ、私」
「ちゃんとね」

そう言って、橘は詩乃の肩に頭を乗せた。
詩乃の身体が瞬時に固くなり、ふわりと首に触れる髪の毛がくすぐったい。

軽く首を動かして橘の方を見るも、目を瞑っていた。
寝ているわけではないくせに、白々しい。そう思うも、ここまで送ると言って聞かないなら、きっと何を言っても聞く気は無いんだろう。

そしてそれを、自分も強く拒否はしないし、しようと思わない。

静かに発車した電車の単調な振動が、橘の頭越しに自分の骨まで響いてくる。

橘の髪の毛が首筋をくすぐるたびに、この感触を過去にも受け入れた記憶がじわりと頭に浮かんでは消える。

拒絶する理由はいくらでもあるはずなのに、沈み込むような重みに身を任せている自分が一番、自分に甘いのだと思い知らされた。


 
 
 
  
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