今夜は君の夜屑
第四章
「おはよう」
駅で橘を見かけたものの、なんとなく恥ずかしくて声をかけられなかった。
なんとなく恥ずかしくて、少し遅れて歩いていると、振り返った橘の方から声をかけてきた。
「お、はよ」
自分から発された声がぎこちない。
挨拶と同時に、背中を軽くポンと叩かれた、その手のひらすら、意識しているというのに。
会社の一番近くの出入り口に向かう、駅の地下通路では、多くの人々が行き交っている。今まであまり見かけたことがないのに、今日に限って発見してしまったのは、スマホではなく周りを見ていたからだろう。
橘に会えるかなと、期待していたからだ。
「今日、昼決まってる?」
「え、いや、何も」
「そしたら外にランチ行く?時間が微妙なら食堂でも」
「え、えっと、うん」
中学生でもないのに、「彼氏」の存在を認識して言葉に詰まるなんて、そんなに純粋な人間でもないはずなのに、なんでこんなに恥ずかしいんだろう。
「…無理?」
「いや、そしたらコンビニ…はどう?」
「うん、大丈夫」
あの日、ホテルの部屋のチェックアウトギリギリまで過ごして、近くのカフェでランチをして帰宅した。週末は友達との予定も入っており、会う話は出なかったが、なんとなくメッセージのやり取りはしていた。
三日ぶりだが、しばらく会っていなかったかのような緊張感がある。
頭の中は橘でいっぱいなのに、どうにか橘とのこの時間を無難にやり過ごそうと考えている自分がいる。
「また降りる、ときに連絡するね」
「うん、そのまま食堂で一緒に食べよ」
「うん…」
ああ、早く会社に着けばいいのに。
雑踏に紛れて、自分のヒールがコツコツと音を鳴らしている。
隣に歩く橘の顔をちらりと見ると、悔しいことに今日も整っている。あの日乱れていた髪の毛も綺麗にワックスで整えられていて、裸で詩乃の上に跨っていた身体は、濃紺のスーツに包まれていた。
「詩ー乃」
橘が声のトーンを少しだけ落として言った。
フレックスではない会社、つまり全員が同じような時間に出社する。
他にも周囲に会社の人がいるかもしれない。橘を狙っている社員にでも見られたら。その思いが、詩乃の歩みを早くする。
「や、めて」
橘が面白くなさそうな顔をして、歩く位置が少し遠かった。
今の自分の余裕のなさが恥ずかしくて、こんな顔を会社の人に見られたくはない。
そうだ、そもそも橘も私も、職場では恋愛したくない、プライベートと仕事は分けたい派なはずで、それがあるからそもそも仲良くなったっていうのに、
「今日も可愛いね」
この男は。
そう言って、橘は再度、詩乃の耳元で小さく囁いて、離れていった。
揶揄うような口調に、詩乃は思わず隣を歩く橘の腕を軽くはたく。
「いたーっ」
「やめてってば」
何も痛くなさそうな訴えに詩乃は眉間に皺を寄せ、距離を取った。
橘は生まれつきそう生きてきて自覚が薄いのかもしれないが、長身で顔が整っている橘は目立つのだ。それをこの男はわかっていない。
「ちょっと離れて歩いてよっ」
「えー、もうすぐそこなのに?」
「そこだからだよ」
仲良いね、付き合ってるの?そう聞かれることはよくあった。
同期で研修が一緒だった、なんとなくウマが合うから、そんな理由で一蹴してきた橘との交際は、決して社内では広まって欲しくはない。
「あ、真菜見つけたから、じゃあね」
地上へのエレベーターを待つ空間に真菜の姿を見つけ、詩乃はそちらに駆け寄った。
肩にかけていたトートバッグが大きく揺れ、中に入っているパソコンがずしりと重さを主張した。
背後の橘を見ないふりをして会社まで歩き、午前中も目が合うたびに無視して、迎えた昼休み。
「あのさぁ」
「待って、人来るから」
今から休憩取ろうかな、と橘にメッセージを送ると、じゃあ俺もコンビニ行くね、と即座に返ってきた。小さいニットバッグに財布を入れて出ると、背後から橘が声をかけてきた。
まだまだエレベーターは混んでいた。
離れた場所で立ち止まり、入り口近くに立っていた詩乃は、ドアが開くと一目散にコンビニに逃げた。
「はぁ」
無意識にため息が漏れてしまった場所は、コンビニのお菓子コーナー。
とりあえず糖分を補給したくなり、チョコ菓子を選んで一袋手に取った。
ピンクの華やかなパッケージはいちごとホワイトチョコらしく、身体がとにかく甘ったるいものを求めていた証拠だろう。
「会計したらちょっと来て」
「っ」
いつの間にか背後にいたらしい橘が、詩乃にぼそりと囁いた。
反射的に頷いてしまった詩乃がちらりと橘の方を振り返ると、橘はもう違う棚に歩き始めていた。
セルフレジで会計を済ませ、ニットバッグにおにぎりとサラダ、インスタント味噌汁のカップを押し込めた。コンビニを出ると、目の前の柱に背をつけてスマホを触っていた橘が、詩乃を見て目を合わせ、歩き出した。
ついて来てという意味だと思い、詩乃はそれに従う。
エレベーターホールの奥にある、階段に向かうドアを開けた。
高層ビルなので、普段はほとんど使う人はいない。
ああ橘、怒ってるよなぁ。でもそりゃそうなるよなぁ。
そんなことを思いながら橘について行き、ドアが背後で重く閉まった。
「なんでそんな避けんの」
「……」
ドアが閉まった途端、橘が詩乃を振り返って言った。
灰色のコンクリートで囲まれた、階段が連なる小さな空間。
そこだけ外部から切り取られたかのように、空調が効いているわけでもないのに涼しくて、静かだった。
「朝のちょっかいがそんなに嫌だった?」
「…違うけど」
橘が彼氏になったことを自覚して、なんか恥ずかしいから。
周りにバレたくないから。
どちらの理由も子どもじみていて、言いたくなかった。
「じゃあ何?」
「言いたくないもん」
階段の手すりにもたれかかる橘の顔を見れなくて、その腕にぶら下がっている、薄い茶色のビニール袋を見ていた。
「んっ」
がさり、と揺れたビニール袋が、視界の隅に映った。
次の瞬間、ぬるりといきなり入ってきた舌に思わず漏れた声が、コンクリートに囲まれた空間に微かに響いた。
「ちょっ」
「静かに」
理由を話せと言ったその口で、今は詩乃の口を塞いでいる。
キスをされたという驚きよりも、ここは会社だという考えが先行して戸惑う。
橘の胸元を強く押しているのにびくともしない。
重い防音扉の向こう側に、オフィスの喧騒が遠ざかっていく。
ひんやりとしたコンクリートの壁と、橘のスーツから漂うシトラスの香りと体温。
逃げ場のない狭い踊り場で、自分の心臓の音が壁に反射して、耳元で鳴り響いているみたいに大きく聞こえた。
「っ、ん」
「声、出してもいいけど知らないよ?」
詩乃の身体の力は抜け、入り口のドアに体重をかけるようにして背中をつけた。
それを見計らっていたかのように、橘の腕が詩乃の後頭部と顎を固定する。
うっすらと目を開けると、同じように目を開けていた橘と視線が合った。見下ろしてくるその瞳に、くっきりとした二重の線が見える。
「待っ、てってば」
「なに」
ぞわりとした身体の感覚を隠すように、橘を再度押すと、橘が少しだけ唇を離して言った。詩乃が顎を少しだけ上げたら、きっとすぐに触れてしまう。
「、ここ、会社っ」
「俺を避けるから」
橘は詩乃の顎に添えていた指に力を入れて、角度をつけた。
ああ、もうだめだ、食われる、でも、嫌ではない。
だめだと分かっているのに、倫理観が警鐘を鳴らしているのに、気持ちがいい。
橘が角度を変えるたび、その腕にぶら下がったままのビニール袋が、詩乃の耳元で無機質な音を立てて響いてくる。
こんな場所で、お昼休みの僅かな時間に、私たちは何をやっているんだろう。
「詩乃」
「な、にっ」
「罰だよ」
「なんのっ」
この男が発する音が、侵入する舌が、漏れる息が、神経全てに作用して麻痺させている。
ああ、なんて、いやらしくて、頭が遠くなる音なんだろう。
「俺を避けた、罰」
ああもうだめだ、好きだ、この憎たらしい男が。