今夜は君の夜屑
橘を避けると倍で痛い目を見ると思わされた翌日、メッセージで仕事終わりの夕飯に誘われた。
人が多い大きい駅なので、仕事終わりならよっぽど社内の人に見られることもないだろうと、二つ先の駅で待ち合わせた。
先に仕事が終わった詩乃は、近くの商業施設で時間を潰していた。
オフィスや映画館、レストラン、ショップが入っている複合施設は、眩しいほどの照明に照らされた、ガラス張りの吹き抜けが特徴だ。
最新のコスメやアパレルショップが集まっていて、そこを歩いているだけで気持ちがふわりと浮く気がした。
汗に強いファンデーションでも新調しようかな、などとコスメカウンターに寄ったり、先日買ったばかりのリップをバッグに入れていて良かった、とパウダールームの大きな鏡の前で入念に塗ってしまうくらいには、浮かれていた。
「詩乃」
少しだけ駆け足で自分の元に寄ってきた長身の橘を可愛いと思えてしまい、詩乃は思わず笑みをこぼした。それを見た橘も、目尻を少し下げて詩乃の頭を撫でた。
ふんわりとしたこの雰囲気が甘ったるくて心地良い。
「どこ行く?」
「詩乃、お腹空いてる?」
「うん」
「じゃあここでそのまま食べよっか」
「え、あ、うん」
地下かなー、と橘が辺りを見渡した。
詩乃の歯切れの悪い返事に、橘は詩乃を見つめた。
「なんか希望あった?」
「あ、ううん。こういうところで橘とご飯食べたことなかったから」
「確かに、いつも飲み屋だったもんね。飲みたい?」
「ううん、ご飯だけでいい」
今まで橘と食事といえば、複数でも二人でもお酒が飲めるところというのが前提だった。
「ここ何があったっけ」
「うんとね、地下ならベトナムと、野菜メインのお店と、シーフードもあったような?」
記憶を辿りながら橘に答える。
お酒がなくても、関係が成り立つ。そしてそれを当然のように示してくる。
その事実に、詩乃は無意識に口元が緩む。
「ベトナムいいな、生春巻き食べたい」
「さすが」
「なに、さすがって」
「モテる男っぽい」
「なにそれ?普通に美味しくない?」
思わぬ橘の好みを知れて、それもまたなんとなく嬉しい。
到底、順当な始まりではなかったが、それでも気持ちが通じ合ったのだから、これからは橘のことを知っていきたい。
そう思って、詩乃は橘の腕を取った。
「あ、そうだ。今度同期飲みあるでしょ。詩乃、行く?」
「うん、ハシケン主催のやつでしょ」
「付き合ったこと言っていい?」
橘の言葉に、シェアで頼んだ、イカのレモングラス炒めに勢いよくフォークが刺さった。こんなに勢いよく刺すつもりではなかった。動揺がつい指先に伝わったせいだ。
「えー…」
脳内に、橘との関係を聞いてきた社内の女子の顔がいくつか浮かぶ。
狙っているとまでいかなくても、機会があればお近づきになりたい、と思っている女子がまだ存在するのを、詩乃は知っている。
「え、ダメ?」
思わず漏れた返事で橘には通じたようだ。
いいよと言われると思っていたかのように、橘は、自身が頼んだエビとトマトのフォーの麺を探る手が止まる。
「もうちょっと後でもいいかなぁって」
「なんで?」
「今更というか…ずっとただの同期って言ってたし」
「ただの同期から付き合ったじゃん」
「そうなんだけど…」
今更、会社の中で変なやっかみを受けたくない。
ただでさえ、橘は顔が良くて目立つ。
そんな見栄えのいい男の隣で堂々と歩く自信もなければ、それに釣り合う女だという自覚も持ち合わせていない。
「なんか困ることあるの?」
「ないけど…」
「じゃあ良くない?部署も違うんだし」
そこまで自分の評価が低いわけでもない詩乃だが、相手が橘ということによって、それが押し下げられている。ただそれを口に出せるほど素直でもない。
「うん…もうちょっと後がいいかな」
「分かったよ、詩乃の心の準備ができたら教えて」
橘が自分と付き合っていることを周囲に言ってもいいというのは、本来喜ばしいことだ。むしろ、たまに食事などに誘われても堂々と断れるとさえ思っているのかも知れない。
「うん、ごめんね」
「いいよ。てか今度さ、資料作成で一緒にやるよね?詩乃担当じゃなかった?」
「そうだよ、あのアパレルのDX案件でしょ」
詩乃は自分が頼んだ、牛肉のフォーをつつきながら言った。
話題を逸らしてくれてホッとしている。
橘と詩乃の会社は、大手のコンサル会社だ。
普段はあまり関わることがないが、研修ぶりに仲良くなったきっかけでもある、案件の成功事例の記事を作るという仕事で再び関わる機会が巡ってきた。
「詩乃と俺だけ?」
「うん、簡単な記事だから」
「前みたいな感じか」
「そう、橘とまた仲良くなったきっかけの時も成功事例の記事だったね」
「ふ、なつかし」
橘がそう言いながら笑った。
ざわざわとしたその空間で、生春巻きを頬張る橘の指先に視線が流れる。
骨張っていて、その長い指が口に吸い込まれていく様子だけで、絵になる。
「…変なことしないでね」
「変なことって?」
橘が、唇についたチリソースをペロリと舐めた。
見下ろされるように詩乃を見るその表情は、絶対に意味が分かっているに違いない。
「こないだみたいなこと!」
非常階段での出来事を思い出して、詩乃は勢いよく言った。
もう会社であんな思いはしたくない。
別に今までもそれなりに話していたのだから、必要以上に近づかなければ問題ないかと、あの後から詩乃は、極めて普通に過ごすことに努めていた。
「さぁ、あれは詩乃が俺を避けたからじゃん」
「そうだとしても、会社でもうあれはやめてよ」
自分が満足するまでキスをして、「その可愛い顔を直してから来なね」と余裕の言葉を残してほくほくと先に橘は階段を出ていった。
詩乃はなんとなくまだ許してはいない。
乱れた髪をスマホのカメラで直し、バラバラに戻るため二階からエレベーターに乗った苦労を知らないで、目の前で口角を上げて笑う橘。
「どうだろうねー」
「あれからちゃんと避けてないでしょ」
「それは別に普通じゃない?」
「…そうだけど…」
橘は、テーブルを挟んで座る詩乃の顔に、ずいと自分の顔を近づけた。
顔の中心に綺麗に並ぶ、大きな瞳が詩乃を捉える。
「楽しみだね」
にこりと笑う顔は、きっと今まで女の子を落としてきたんだろう。
それが胡散臭く見えるのは何故か。何か企んでいそうな橘をじろりと睨み、詩乃はスープを啜った。パクチーとナンプラーの独特な香りが、蒸気と共に鼻先を掠める。
レモンとハーブの味が喉に抜け、こくりと落ちていった。